第8話:潜入と陽動






 「やっぱ厳ついなー」伸縮性のあるストレッチデニムに肘の上あたりまで袖を捲った青いワイシャツ、そして背中に大きく警視庁と書かれた防刃ベストを身にまとい上半身だけ警察官の格好という奇怪な見た目となった斑鳩はそう呟いた。


 「ほんとに警視庁に行くんすか?」斑鳩の傍で腕を組みながら空手の構えのように足を前後に開き、後ろに体重を乗せて体をやや後ろに傾けている宮津は静かに頷く。


「俺1人で?」宮津はもう1度静かに頷く。すると、斑鳩は頬を限界までぱんぱんに膨らませ、フーと息を吐いた。そして、マジすか?と言わんばかりに目をパチクリさせながら宮津を見詰めた。


 「前科持ちが何言ってやがる。防衛省ウチに比べりゃ楽なもんだ」


「宮津さんの楽は全然楽じゃないんですよ」そう言うと斑鳩はベストのマジックテープをバリバリと剥がす。そして、脱いだベストを畳んでデスクの上に置くとにっこりと笑った。


 「でも、久しぶりに楽しくなりそうです」


「ほんと、お前のその性格を見習いたいよ」












 東京メトロ丸ノ内線、霞ヶ関駅のA2出口を上がると警察庁や総務省が入る中央合同庁舎第2号館がまず目に飛び込んでくる。隣には外務省庁舎もあり、その間からは国会議事堂が顔を覗かせていた。そして、道路を挟んで向かい側には東京高等裁判所とレンガ造の法務省旧本館が存在している。見渡す限りの官公庁。そんな日本の中心と言っても過言ではないここ霞ヶ関に斑鳩は降り立った。


 通勤時間はとうに過ぎているとはいえ、通りを歩く人はそう少なくはない。斑鳩は着慣れたスーツでその中を歩いていく。後ろを歩く人、すれ違う人、見渡す限りほぼ全員が真夏にもかかわらず同じようなスーツ姿で、渋谷や原宿のようなカジュアルな服装で歩く者など皆無に等しい。同じ官公庁がある場所と言っても、大学などや住宅地が立ち並び民間人の生活の場となっている市谷とはまるで違う雰囲気だ。


 斑鳩は手に持ったビジネスバッグの持ち手をぎゅっと強く握りしめると、目的地である警視庁に向かって足を踏み出した。その足取りは実に堂々としたもので、市ヶ谷で宮津と話していた時のような緊張など微塵も感じられない。


 この夏の暑さから逃れるたいという思いがったためか、駅から警視庁まではそれほど時間を要さなかった。冷房がよく効いたここ警視庁本部庁舎は区役所や防衛省など他の官公庁の例に漏れず、役所特有の暗い雰囲気の場所。それが斑鳩が抱いた第一印象だった。


 エントランスで立ち止まってこの光景を焼き付けたい気分だが、社会見学のためにここに来たわけではないのでまずは一目散にトイレへと向かう。個室に入ると、落とさないように予めジャケットのポケットからスマホを取り出してペーパーホルダーの上に置く。そして、バッグから変装道具を取り出した。


 「よし」斑鳩は自分に言い聞かせるように小さく声に出すとジャケットを脱ぎながら数時間前のことを思い起こした。












 向かい合わせに6つ引っ付けたデスクの前に置かれた6つの椅子、その定位置に5人は思い思いの体勢で腰掛けている。6つの椅子の内、唯一空いた場所に普段座っている宮津は壁際に置かれた季節ごとに1度使えばいいほうと思えるほどめったに使用しないホワイトボードの傍らに佇んでいた。


 ホワイトボードには見取り図と思しき横長のB0用紙が磁石で貼り付けられている。宮津は右手にキャップの開いた赤いマジックペンを持ち、見取り図の上に重ねた透明のシートの上を躊躇無く走らせた。


 「作戦は単純。警視庁に正面から入り、資料保管庫に入って出てくる。それだけだ」それだけ。宮津は確かにそう言った。しかし、首都東京を牛耳る実力組織の本丸である警視庁の、そのほぼ全ての情報が保管されている資料保管庫へバレずに入るなど、とてもじゃないが"それだけ"で済ませられるようなことではない。この場に居る全員がそう思っただろうが、特に斑鳩は顕著に顔に出ていた。


 「斑鳩なら楽にたどり着けるだろうが、1つ問題がある」1つどころじゃないだろ。と、斑鳩は思わずツッコミそうになったが辛うじて言葉を飲み込んだ。すると、宮津と目が合いふっと笑われたような気がした。言うまでもなく言いたいことは伝わっている。そう思った斑鳩は黙って宮津の発言に注視する。


 「いくら人にバレずに入り込めたとしても後々カメラの映像を調べられたら意味が無い」宮津はそう言うと、自分のデスクの上に置かれた透明のシートを手に取り、既に透明なシートが貼られている見取り図の上へと更に重ねた。


 「入り口から保管庫までにカメラは7箇所。姿を写らないようにするのは不可能だ。だからこの際それは諦めて、とにかく決定的な証拠を撮られないようにだけ徹底する」今重ねた2枚目のシートには既に青いペンで点が書き込まれており、防犯カメラの位置がマーキングされていた。先程引いた赤いラインと重なり、避けなければならないカメラの場所が浮き彫りになる。


 「気にしなくてはいけないカメラはここだ」そう言いながら宮津はある1箇所を手に持ったペンで指し示す。そこは目的地までのルートを示した赤いライン、その終端付近にある青い点だった。


 「唯一保管庫への出入りを見れるのがこのカメラで、入るときは背中側しか写らない」


「てことは出るときはバッチリ正面から撮られるって訳か」宮津が言葉を切るや否や呟くようにそう言って、丹波は指で作った四角形の中央に宮津の姿を捉えた。すると宮津は、その通り。と生徒が正解を言い当てたときの予備校講師よろしくペンで丹波を指した。


 「扉を開けた瞬間カメラとご対面って寸法だ。逆に、この瞬間さえ撮られなければ保管庫に入った決定的な証拠にはならない」


「でも、そのカメラで顔は見えなくても部屋に入ったことはわかるんじゃないんですか?」丹波が発言したことに後押しされてか、今の今まで口を真一文字に結んでいた和泉も口を開いた。それに対して宮津は、待ってました。と言わんばかりの様子で、用意していたA4の紙を見取り図の隣に貼り付けた。


 その紙は型番から始まり、以下撮影可能距離、視野角などなど防犯カメラの性能が事細かに書かれている。そして宮津は再びペンを取り、先程打った青い点から放射状に線を伸ばしていく。7箇所全てに線を書き足すと、それが何を表しているのか一目瞭然となった。


 「これがカメラがカバーしている範囲だ。注目してもらいたいのはここだ」そう言って宮津は見取り図をペンで指し示したそこは、エレベーターホールから伸びる廊下と資料保管庫がある廊下が交わる場所の一角。ほぼカメラの視野に覆われている保管庫までのルートだが、わずかに5mほどの間だけカメラから逃れることができる場所が存在していた。


 「この一瞬の死角を利用する。あいつらがそうしたように」宮津がそう言うがその意味するところを計りかねた4人は首を傾げる。しかし、ただ1人全てを理解した斑鳩はニヤッと笑った。


「つまり、その一瞬で別人になればいいんですね?」












 肌を刺すように降り注ぐ太陽光と36度にも上る外気温から身を隠すかのように、これといって特徴のない作業着に袖を通した丹波と和泉は路肩に止めた黒いビアンテの車内に収まっていた。


 「あー緊張してきた」ふーと大きく息を吐きながら和泉は助手席のダッシュボードに突っ伏した。丹波はそれを見て何を言うでもなく黙って缶コーヒーを口に運ぶ。


 少し経って和泉が顔を上げると頭から何かが転がり落ち、ダッシュボードにぶつかってカランという音をたてた。拾い上げてみると、それはさっきまで丹波が持っていた筈のコーヒーの缶だった。


 横目で丹波を一瞥すると、正面こそ向いているものの、顔はニヤニヤしているのがよくわかった。それと同時に、緊張を解きほぐそうとしてくれていることも。


 和泉は厚意をしみじみと感じながら手に持った缶を眺める。そして、缶に描かれたダンディな男性のシルエットを見て、和泉はあることが気になった。


 「丹波さんって煙草は吸わないんですか?」


「なんだよ藪から棒に」そう言いつつも、缶を灰皿代わりにする者など珍しくもないので、そこから煙草を連想するのは十分理解できた。ましてや、ラベルにパイプを加えた男の絵があればなおのことだ。


 「昔は吸ってたんだけどな。結婚してから辞めた」


「やっぱり結婚すると変わりますか?」そうだな。と丹波は何かを思い起こすようにゆっくりと頷いた。


 「結婚するってことは、自分のために使える人生が減るってことだ。家族が増えればその分だけどんどん自由がなくなっていく。でも、それは全然嫌なことじゃない。たとえ自分の人生を変えてでも、愛する人のために生きるってのはいいもんだ」今は自分のことを優先してばかりだが、いつかわかるときが来るのだろうか。そんなことを考えている和泉を尻目に、丹波は腕時計で時間を確認する。


 「そろそろだ。行こうか」そう言うと丹波はエンジンをかけ、車を路肩から発進させる。ここからそう遠くない目的地へと徐々に近付いているのを助手席の車窓から肌に感じ、和泉は詰まりそうになる呼吸を整えながらブリーフィングを思い出す。












 「次はカメラのほうだ」宮津はそう言いながらホワイトボードに貼った見取り図とそれに重ねた透明のフィルム2枚を丁寧に剥がして自らのデスクの上に置いた。


 そして今度は、また別のB0用紙を貼り付ける。その紙も先程の見取り図と同じようにも見えるが、これはもっと広範囲を示す地図のようだった。


 「これは霞ヶ関一帯の配電系統図だ」たったそれだけの言葉で和泉は嫌な予感を察知してげんなりとした表情を見せた。しかし、宮津は止まることなく説明を続ける。


「さっき説明した保管庫前のカメラ、この問題をクリアするために保管庫から出る瞬間に停電させる。それが確実な方法だ」理屈は大いに理解できる。しかし、和泉には1つ気掛かりなことがあった。それに気付く様子もなく宮津は話し続ける。


 「庁舎内に侵入して配電設備を攻撃するのが1番なんだが、それじゃあバレるリスクが大きすぎる。そこで、王子変電所から警視庁までの間で電力を遮断する」和泉は宮津のその提案に不信感を覚えた。この提案は和泉が最も懸念していた、民間人への被害も厭わないというとこに他ならない。


 すかさず異議を唱えようと考えはしたが、ここで反対したところで宮津は意見を曲げることはしないだろう。宮津は前々から民間人への被害は極力出さないようにしてきた。その宮津がこの方法を選んだと言うことは、これが最善の策に違いない。そう考え、和泉は溢れ出そうになる意見をぐっと堪えた。


 「何か言いたそうだな」そう言いながら宮津に視線を向けられると、ドキッとしてそちらを見返す。そして、停電させるくらいならと違法行為を易々と許容できるようになってしまった自分自身に嫌悪感を抱きながら首を横に振った。


 すると、宮津はフッと笑う。部下が従順になったことに対しての喜びか、はたまた、心中を見抜いた上で甘い考えだと嘲笑したのか、この笑みが何を意味するのか和泉にはわからなかった。しかし、宮津は変わらない調子で話しを続けた。


 「六本木通りのこの2箇所の送電線ここからの電力供給が止まれば電力不足で停電に陥る筈だ。しかも、お誂え向きに停電するのはこの一角だけ。その他の場所は別の送電線からの電力でカバーできる」そう言うと、宮津は地図上を指さした。そこは六本木通りと内堀通り、そして桜田通りに囲まれた三角形の中だった。


 「この一角にある施設は、総務省が入る中央合同庁舎第2号館と国交省が入る同第3号館、そして警視庁庁舎及び警察総合庁舎だけだ。予想できる民間人への被害は、来訪者がびっくりするのと庁舎内のコンビニと牛丼屋の店員があたふたするくらいか」もう1度、先程のように宮津はフッと笑った。この笑みの意味がわかり和泉はほっと胸をなで下ろす。そして、冷静さを取り戻したことで浮かんだ1つの疑問をぶつけた。


 「でも、どうやってそんなピンポイントで電力を止めるんですか?」すると、宮津は自らのデスクの前まで行き、おもむろに引き出しを開ける。そして、そこからプラスチック製の黒い箱状の物を取り出した。それそ見て、和泉はなるほど。と言うように何度も頷いた。


「ほんと、何もかもお誂え向きですね」












 時刻は14時40分。丁度5分前に発生した全棟停電による一時的な混乱も収束を見せ、原因の調査にあたる一部の職員を除いて、全ての業務が通常通り再開している様子だ。


 佐藤は停電の直後部屋を飛び出して行き、今部屋に居るのは赤坂のオフィスビルにも居た2人の部下のみだ。ここに移されてからの5日間、何度となく今と同じ状況はあったが銃弾が掠めた右大腿部の痛みで脱出を試みることは叶わなかった。しかし、完治とは言わないまでも歩行に痛みを伴わなくなった今ならここから抜け出すことができるのではないか。そう思った綾部は靴紐を結びなおして意を決した。


 法案作成を始めてからというもの最低限の食事しか摂ってこなかったが、何とか麹町消防署まで体力が保つだろうか。そんな一抹の不安を覚えながらも綾部は立ち上がり、腰かけていたパイプ椅子をすぐにでも投げられるように折り畳んだ。部下の男は異変に気付き綾部を呼び止める。


 「どうしたんですか?」そう言った男の手はボタンをはずしたジャケットの内側に伸びており、拳銃に手をかけようとしていることは明白だった。綾部はパイプ椅子を両手で持ち上げ、思いっきり振りかぶった。その時だった。


 通気性の良い紺色のパンツに肘の上あたりまで袖を捲った青いワイシャツ、そして背中に大きく警視庁と書かれた防刃ベストを身にまとい、本物の警察官と遜色のない恰好をした男が部屋の扉を開ける。その男は帽子を正面からだと目元が隠れるほどまで深く被りっており、その顔ははっきりとはわからなかった。それでも、この男は普通の警官ではない。この場にいる誰もがそう感じた。


 部下の女の方はすぐさま立ち上がって身構える。男の方も並々ならぬ殺気を背中に受け、振り返りながら拳銃を抜く。


 その瞬間、鈍い破裂音が部屋中に鳴り響いた。












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