防衛省官僚失踪事件

第1話:白衣とスーツ






 EMP兵器密造及び密売事件は金目周一の送検を以て終息し、和泉は束の間の休暇を送っていた。


 久しぶりの休日に和泉は部屋着であるユベントスのレプリカユニフォームを身に纏い、自宅の片付けをしていた。机の上の物を全て床に並べ、本棚の中の教科書や辞典を1冊1冊取り出し、膝の高さまで積み上げた。


 すると床に並べた物の中から、泉取病院センシュビョウインと書かれたクリアファイルが目に入った。中には収支が書かれた紙や、備品の管理表が挟まっている。


 それが、先日の事件で姉である和泉悠陽イズミ ユウヒに頼んで借りた書類だということはすぐにわかった。これが今、目の前にあるということは、せっかくの休日を利用してこのファイルを返しに病院まで足を運ばなければならないということである。


 今日1日で部屋を片付け、明日1日のんびりと過ごす予定を考えていた和泉にとって、中々に腰が重い外出だった。とは言え、明日1日のんびりするには早急に片付けた方がいいのは明白だ。


 ふと壁に掛かった時計を見上げ時間を確認すると、時刻は午後2時過ぎ。今なら病院もそう忙しくはないだろう。


 和泉は、窓際の壁にある突っ張り棒からワイシャツの掛かったハンガーを取り上げた。そして部屋着をそこらに脱ぎ捨て、まだ乾ききっていないワイシャツに腕を通すと、その湿り気に不快感を覚えながら手早くボタンを留める。


 次に、洗濯機の中に放り込んだ洗濯ネットからスーツの上下を取り出した。幸いこちらはまだ洗濯していなかったためすぐにでも着られる状態だ。


 スーツを身に纏い、ファイルを鞄に入れると、ひもを結ぶのも面倒なので履き慣れないスニーカーを履いて、和泉は重い足取りで玄関を出た。












 家を出たときに悠陽に、資料を返しに行く旨を伝えるメッセージを送信すると、約10分後に既読マークとともに「り」と1文字だけの返信が届いた。スマホを手に取る余裕があるということは、思った通りそう忙しくはないようだ。


 時折帰る人とすれ違いながら、玄関ホールを抜け受付に行く。すると、一息ついている様子の丸眼鏡をかけた4、50代の婦人が、和泉に気付いて手を挙げた。


 「悠二君、お帰りなさい」


「ただいま、ニノさん」和泉がニノさんと呼ぶその婦人は、和泉の父親が経営するこの泉取病院で、和泉が幼少の頃から勤めている事務員だ。


 「今日はどうしたの?」


「悠陽から借りてた書類を返しに来たんだ」ニノさんは、オッケー。と指で輪っかを作ると、受付の受話器を取った。


 「あっ悠陽ちゃん?悠二君が来てるわよ」少し間を置いて、はーい。と元気そうに返事すると、ニノさんは受話器を置いた。


 「すぐに来るそうだから、そこで座って待ってて」和泉は頷くと、ニノさんが指差した先の待合スペースの方へ歩いて行く。


 3人掛けの長いすが横に4つ、縦に5列並んだ待合スペースは、忙しい時間には満席になり座れない人が大勢立つことも少なくなく手狭に感じるが、人がまばらに座る今ではとても広く思えた。


 その待合スペースの隅で座って待つこと約5分。受付のあるエリアの奥、診察室や処置室などが並ぶ病棟の方から、白いスクラブを着た見覚えのある看護師が見えた。


 肩にかかるくらいの黒髪を後頭部で団子結びにして一纏めにしているその看護師は、キョロキョロと辺りを見回しながらこちらに歩いてくる。


 そして隅に座る和泉に気が付くと、ニコッと微笑みやや早足になった。それを見て、和泉は立ち上がり自らも歩み寄る。


 「悠二君久しぶり」看護師はそう言うと、心底嬉しそうに屈託のない笑顔を向ける。そんな明朗快活を擬人化したような看護師の姿に、和泉は思わず笑みをこぼした。


「久しぶり、ハルカちゃん」






 泉取病院に看護師として勤務する佐野遥サノ ハルカは、久しぶりに再会した悠二の姿をつま先から頭にかけてゆっくりと見回した。


「ワイシャツしわクチャだね」


「慌てて出て来たもんだから、乾しかけのシャツ着て来ちゃったよ」遙は呆れた様子でもう。と溜息をついたが、内心ではいたずらっぽく笑う悠二のその顔をとても愛おしく思っていた。


 「今日はお休み?」


「うん。この前やっと大きい仕事が片付いてね、3連休とらせてもらえたんだ」


「最近はお仕事何してるの?」この問いに悠二は自然に、捜査と言いかけた。だが、捜査のさを言い切る前に脳裏を宮津の顔が過ぎる。寸前のところで1度口をつぐみ、そうだね。と考えるふりをして誤魔化した。


 「最近は防衛省の方で仕事してるんだ」


「そうなんだ」遥は特段気にすることも、疑問を抱くこともなく、うんうんと頷いた。


 「そういえば、悠陽さん今手が離せないみたいだから、渡すものがあるなら私が預かるね」


「てっきり暇してると思ったんだけどなぁ」悠二がそう言いながら鞄からファイルを取り出そうとしていると、遥は視線を逸らし声のトーンを落とした。


 「ターミナルケアの患者さんだから、急なことばっかりだよ」そうしてグッと唇を噛み締める遥の姿に、悠二は何も言うことができず、ただばつの悪い顔をして黙ってファイルを手渡した。


 そのまま気まずい空気で、2人とも黙って佇んでいた。そしてしばらくして、この雰囲気に耐えきれず空気を変えようと遥が口を開いた。


 「明日もお休み?」そう言われ、慌てて逸らしていた視線を戻すと、悠二は大げさに頷いた。


「今日のうちに部屋を片付けて明日1日のんびりしようと思ってたらそれが出てきて、それで慌ててここに来たんだ」遥はそれを聞いて、そっか。と少し落胆した様子で声を漏らす。悠二には何を思っての落胆なのかはわからなかった。自分が何かしただろうか。そう考えていると、2人とも閉口したまま再び気まずい空気になった。


 両者共に言いたいことはあるのだが口に出すことができず、お互いの足下ばかりに視線を送る時間が続く。そうして再びこの空気を変えようと、今度は悠二の方から話をきりだした。


 「兄ちゃんは元気にしてる?」


「最近お疲れ気味だけど、元気だよ」そっか。と悠二が満足そうな顔をすると、遥は少しムッと頬を膨らませた。


 「たまには悠二くんから直接連絡してあげてよ。悠一ユウイチ先生、いっつも悠二くんのこと私か悠陽さんに聞いてくるんだから」それに対し悠二は苦笑いし、わかった。と誰が見てもそうとわかる生返事をした。すると遥は、まだ何か言いたそうに口を尖らせる。


 説教されるのかと思い、悠二は身構える。しかし、どれだけ待っても、遥はファイルを小脇に抱えてもじもじと指先を弄くるばかりで、一向に口を開こうとしない。


 これを好機とみて、悠二は明日家に来ないかと誘いの言葉をかけようとした。しかし、よくよく考えてみれば今日、今から言っても休みをとれる筈がないし、よしんば休めたとして、日頃多忙を極める遥の折角の休息日を奪うわけにはいかない。そう思い、悠二は言葉をグッと飲み込んだ。


 壁に掛かった時計にチラッと目をやると、時刻は3時半。そろそろ遥も仕事に戻らなければならないだろう。


 「それじゃあ、もう帰るね。仕事頑張って」悠二はそう言うと遥は名残惜しそうに、うん。と頷いた。


「悠二くんも頑張ってね」そして最後にもう1度、悠二に屈託のない笑顔を向けた。






 家に帰った和泉は、着ていたワイシャツの袖を再びハンガーに通し、突っ張り棒にぶら下げる。そして、また部屋着姿に戻ると、床に散乱した書籍類や書類の整頓作業を再開した。


 時刻は6時過ぎ。本を棚に並べ、書類をクリアファイルに入れて、机に置いたブックエンドに立てる。床に並んでいた数々の紙類は姿を消し、あるべき場所に綺麗に収まった。


 今日の任務を完遂した和泉は、ソファの上に寝そべり体を沈める。そのまま瞼を閉じると、夕食を摂ることもせず、和泉は夢の中へと歩みを進めた。





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