第9話:調布の乱






 調布市周辺を拠点とする靑占会セイセンカイは京王電鉄調布駅から程近い場所に存在する雑居ビルをまるまる1棟を所有し、その2階部分を組の事務所に利用している。組長の浅場諜助アサバ チョウスケ以下5名が所属している小規模な組で、フロント企業として所有している派遣会社が主な資金源となっている。


 「人数の割ににデカいビル持ってますね」和泉は事務所のある5階建てのビルを見上げた。


「派遣会社のオフィスも兼ねてるんじゃないか?」確かにそれなら納得だ。丹波も一緒なってビルを見上げながらそんな話をしていると、電話をすると行って1人車の中に残っていた宮津が2人の背後に立った。


 「使ってるのは3階までで、4階と5階はただの物置だ」宮津はそう言うと表通りに面している入り口ではなく、裏手の非常階段を上がっていった。それに続いて和泉、丹波と順番に上がっていくとスペースの都合上2人は階段の途中で立ち止まることになった。


 そんな2人に行くぞ。と目配せすると宮津は2階の扉を4回叩いた。数秒後、鍵が開くガチャっという音が聞こえ扉が内側に開いた。顔を出したのは如何にもというような風貌の男ではなく、グレーのスーツに前髪を綺麗に分けた会社員と言っても違和感のない―寧ろ暴力団と言った方が違和感のある―格好をした30代くらいの男だった。


 「浅場さんにお会いしたい」


何者なにもんだお前は」男の居る場所からは階段の途中に居る和泉と丹波は見えないようで、お前"等"ではなく単数形で尋ねた。


「防衛省の者だ。お宅で雇ってる金目周一カナメ シュウイチという男が元自衛官でね。少し話を伺いたい」そう言うと男は、ちょっと待ってろ。と言って部屋の中へと消えていった。


 宮津が下にいる2人の方を見て肩を竦めてみせると、如何にもヤクザらしい風貌の男だと想像して会話を聞いていた和泉は体を強張らせた。しかし、直ぐに男の声が聞こえ和泉は緊張を緩める。


 「入れ」男がそう言うと、宮津は2人に目配せをして部屋の中へ進んでいく。続いて和泉と丹波が扉の前に行くと、男は思わずうおっ。と声を上げた。


 「どうも」和泉は軽く会釈するとそのまま部屋の中へと入っていく。それに続き丹波も和やかな顔を男に向けて扉を通った。男はそんな2人の背を怪訝そうな顔で見詰めるも止めることはしなかった。












 応接間のようなスペースに通され、宮津と丹波はソファの前に立って人が来るのを待っていた。


 「すんなりと入れてくれたが、このまま穏便に済むと思うか?」


「多分大丈夫だ」丹波の問いに宮津は口ではそう答えたが、腹の中では懸念を抱いていた。


 「保険に連れて来たのが俺とは贅沢だな」丹波も懸念を抱いていることに気付いているようで、少し含みのある言い方をした。ソファの後ろで部屋の中をキョロキョロと見回していた和泉は、その会話を聞いてより一層不安を募らせる。


 すると、応接間の奥にあるパーテーションの裏から1人の男が姿を現した。グレーのスーツに紺のネクタイといった装いの30、40代の男で、入り口で出迎えた男と同様に一般の会社員を想起させる。この男の場合は銀縁の眼鏡がさらにその印象を加速させた。


 「どうぞお座りください」予想した態度とは違う丁寧な言葉遣いに、和泉は少し緊張を緩める。しかし、それとは対照的に宮津と丹波はより気を引き締めソファに腰を下ろした。


 「浅場さんは今どちらに?」男が口を開こうとしたまさにその瞬間、宮津の方が僅かに早く声を発した。不意を突かれ、男は困惑した様子だったが一先ず宮津の質問に答える。


 「浅場さんは不在です。契約している社員については、私が全て把握しておりますのでご安心ください」浅場と話をさせるつもりはない。そう言うかの如く、男はレンズ越しにその鋭い眼光を向けた。丹波は眉をひそめ不快感を露わにするが、宮津は気に留める様子もなく話を進める。


 「金目周一が元自衛官というのはご存じでしたか?」


「ええ。うちにも一応履歴書というものはあるんでね。内容はほぼ考慮しませんが」


「なら、何故退官したかはご存じですか?」すると男は大きく首を振った。


 「派遣会社というのは何かしら訳ありの人も多いですから、こちらもいちいち前歴を見ることはしません。あなた方官僚にはご理解いただけないでしょうけど」それに対し宮津は、そんなことありません。と首を振った。


「我々も場合によっては前歴よりも能力を重視することがあります。例え道を誤った人間だろうと高い能力を有していれば国にとって有益な存在ですからね」男は意外そうに少し驚いたような表情を浮かべる。しかし、すぐに元の鋭い顔付きに戻った。


 「差し支えなければ退職理由をお伺いしてもよろしいですか?」


「物資の横流しです」男はこれだけでは顔をピクリとも動かさなかった。しかし、宮津が次に口を開いたとき、男は思わず目を見開いた。


 「横流しの先は康安会コウアンカイだったそうです」すると男は突如としてとして動揺した様子で少し俯きながら眼鏡を指で押し上げた。そしてすぐに顔を上げると、合点がいった様子で口角を僅かに上げた。


 「急に連絡がつかなくなったと思ったら、そういう事でしたか」男は今にも漏れ出しそうな笑いを堪えながら天を仰いだ。暫くして笑いの波が収まると、宮津に向き直り淡々と言う。


 「それで本当に聞きたいことというのは?お蔭様でこちらは色々とやることができましたので手早くお願いしますよ」康安会との繋がりを聞き、余計な話をしている暇がなくなった男は宮津に用件を早く終わらせるように迫った。これは宮津にとっても回りくどい話をしなくても済み好都合だった。では。と宮津は本題を切り出す。


 「金目は既に警察が身柄を拘束している状態なのですが」1度そこで言葉を切り顔色を覗うと、男の顔が怪訝そうに目を泳がせたのがわかった。


「彼が言うには、あなた方靑占会にとある物を作らされたそうなんですよ」すると、またも男の顔つきが変わった。今度は目の前にいる3人を順番に睨み付け敵意を向けるような顔つきに。


 「お前ら警察の犬か?」突如荒く、それらしくなった口調が、暴力団の事務所だということを忘れかけていた和泉にここが何処かを思い出させた。丹波もいつでも立てるように手足に力を込める。それでも宮津1人は態度を変えることなく男の目を見た。


 「最初に言ったとおり我々は防衛省の者です。警察とはなんの関係もない」


「だったら何が目的だ?捜査は官僚の仕事じゃないだろう」それを言われると何も言い返せないのが特防隊の辛いところだが、そういう仕事だということには変わりないので無理矢理にでも押し通す。


 「我々はただ金目が何をしようとしているのか知りたいだけです」宮津がそう言うと、男は呆れた様子で大きく溜息をついた。


 「あなた方に教えることは何もございません。どうぞお引き取りください」男はそう言うと立ち上がって宮津を見下ろした。宮津はその目を見返すと、これ以上交渉の余地はないと悟り丹波に目配せをして立ち上がった。


 「お忙しいところどうもすみませんでした」心の片隅にも思っていない言葉を社交辞令的に口に出すと、男は返事もせず黙って出入り口へと通ずる廊下を見詰めた。


 「所詮はヤクザか」今度は心の奥底で思っていたことをわざと男に聞こえる声で背中越しに呟いた。すると、先程にも増して男の表情がそれらしくなり、とうとう使い慣れてるであろう怒鳴り声を上げた。


 「今なんつった?!」その声に呼応されるように、パーテーションの裏から、入り口で出迎えた男ともう1人、あからさまに武闘派の他より一回り大きな体躯をしたスキンヘッドの男が姿を現した。宮津は出入り口の方を向いていた体を眼鏡の男の方に翻すと、その2人の顔を見回し鼻を鳴らし嘲笑した。


 「おい和泉。このお三方に俺が言ったことをはっきりと聞こえるように教えてやれ」急にフラれた和泉は思ふぇあっ!と上擦った変な声を出した。戸惑いながら宮津の方を見ると、宮津は和泉を睨みつけるかのような目付きで見返した。宮津からは目を逸らし今度はヤクザトリオの方に視線を向けると、トリオも和泉を睨みつけていた。


 そのままあたふたしていると、トリオの武闘派が和泉に怒声を浴びせる。


 「とっとと言いやがれ!」泣きそうになりながらもう1度宮津の方を見るが、宮津もトリオとさして変わらない目付きをしており助けてくれそうもなかった。ならば丹波に頼ろう。そう考えたが、背後から感じる殺気を思うとそれも望めそうにない。


 ヤクザとヤクザのような人との板挟みになりそのまま潰されてしまいそうだ。いや、寧ろそうなった方がどれだけ楽だろうか。和泉は走馬燈を見るかのように頭の中で次々と考えを巡らせる。そして、ついに意を決して拳を握りしめた。


 「所詮はヤクザか」和泉はしっかりと部屋中に聞こえるようにそう言った。


「ってこの人は先程仰っておられましたよ」決して自分が言ったわけでも思っていたわけでもないと強調するようにそう付け加え宮津の方を見た。すると眼鏡の男がぎろりと和泉を睨んだ。


 「んだとごらぁ!」そう怒鳴ったのは武闘派の男だった。てっきり眼鏡の男に怒鳴られるものだと思っていた和泉は、余計に驚き跳び上がる。


 「やるかデブ?」宮津は一歩、また一歩と距離を詰めてくる武闘派の男を挑発した。


「お前のダイエットに付き合ってやるよ」武闘派の男は更に怒鳴り声を上げ、今にも殴りかかってきそうに拳を握りしめる。それを後ろで見ている丹波は、どうせそいつの相手をさせられるのは俺なんだからそれ以上やめてくれ。と言いたくなったがここは我慢して言葉を飲み込んだ。


 「そこのチンピラも混ぜてやろうか?」今度は入り口の男に照準を定める。


「殴られりゃこんなことをしている自分がどれだけ馬鹿か気付くだろ」入り口の男も声を荒げ宮津たちに近づいてくる。誰かが最初に手を出せば乱闘になる。まさに一触即発の状態だった。それでも均衡を保とうと眼鏡の男だけは少し冷静さを取り戻した。


 「やめろ。挑発に乗るな」上下関係がしっかりと身に染みているようで、頭に血が上っていてもその声に応え2人は幾分か落ち着いた様子だ。そこを宮津が最後の仕上げにかかる。


 「あんたもちっとは頭がいいように見えたが、それは眼鏡のせいだったみたいだな」眼鏡の男はピクリと眉を顰める。


「話してみれば、ただ眼鏡をかけて自分はヤクザとは違うと思い込んでいるだけだってことがよくわかったよ。本性は他人を見下し自分の方が賢いと思うことで劣等感を感じないようにしているだけの軟弱者だ」宮津はそれだけ言うと心の底からほくそ笑んでみせた。すると眼鏡の男は宮津の眼前まで近付き顔を突き合わせた。その体は怒りに震え目は殺意に満ちていた。


 そして、とうとう堰は切られ殴り合いが始まる。その最初の一撃を繰り出したのは眼鏡の男だった。












 眼鏡の男は突き合わせた宮津の額目掛け首を振り下ろした。頭突きは見事なまでに衝撃を与え、宮津は床に倒れ込んだ。部屋中がシーンと静まり返り、まるで時が止まったかのように全員の動きが静止する。全員が頭突きを繰り出した男と、床に倒れる宮津の姿をただ見ているだけだった。


 そして、宮津が額をさすりながらゆっくりと立ち上がり時間が再び動き出す。眼鏡の男と正対した宮津は待ってました。と言わんばかりににやけながらこう言った。


 「試合開始だ」宮津が1歩踏み込んで放った右ストレートが眼鏡のフレームを折り、ひび割れたレンズと血液が床に落ちた。それを合図として丹波は入り口の男を引き倒し、武闘派の男の前で格闘の構えを見せる。


 鼻を押さえよろよろと上体を起こした眼鏡の男は、手に付いた自身の鼻血を見て激昂し宮津に殴りかかった。宮津は右フックを左腕で外側に受け流すと、がら空きのみぞおちにボディブローを1発、フックをいなした左手で顎関節に掌底を打ち込んだ。


 丹波はまず様子見にワンツーを顔と腹部に打ちこんだ。しかしさすがは武闘派といったところか、全く手応えを感じず筋肉と脂肪に衝撃を吸収されたようだった。今度は武闘派の男の方が大振りな右ストレートを放つ。それを両腕でガードすると、骨に痛みが走った。続いて男はさらに1歩踏み込んで左フックを放った。丹波はそれを身を屈めて回避すると脇の下をくぐって後ろに回り込み、首に手を回してガッチリと固定した。丹波の腕を掴みながら左右に体を振って藻掻く男の膝裏に蹴りを入れ跪かせる。そのまま丹波は首に回した手をジリジリとキツく絞めていく。


 行き成り床に倒された入り口の男は唖然としながら周りをキョロキョロと見回した。そして、流れに着いていけず呆然と佇む和泉を視界に捉えると、ゆっくりと立ち上がり和泉に向けて拳を放った。和泉は男が立ち上がったことに気付くと、バックステップで難なく攻撃を回避する。予想外に機敏な動きをする和泉に驚きつつも男は左ジャブ、右ストレート、更に右回し蹴りと連続で攻撃を仕掛ける。しかし、それも和泉は左右、後方へと体を逸らし難なく躱した。涼しげな顔で回避する和泉に先程とは違う怒りを覚え、男は目一杯足を踏み込み渾身の右ストレートを繰り出した。それでも和泉はいとも簡単に躱した。そして、伸びきった男の右腕を掴むと右手で下顎を上方向に押し上げ、自身の右足を男の右足に掛けそのまま押し倒した。












 白髪交じりの顎髭を薄らと伸ばし、グレーのスーツにオメロオルテガのハットを被った60代前後の男-浅場諜助-は部屋に足を踏み入れた瞬間目を疑った。事務所に残した3人が力なく床に倒れ、それを見下ろす別の3人の男の姿あった。


 康安会が不穏な動きを見せていると聞いてはいたが、まさかもう殴り込みに来たのか。浅場は懐にある拳銃のホルスターに手を伸ばした。


 しかし、3人の中の1人が浅場の存在に気が付き振り返ると、その手を止め重力に従ってダランと下におろした。


 「宮津?!」振り返った男の顔を見た浅場は驚いて思わず名前を呼んだ。


「お久しぶりですね。浅場さん」目を見開いて驚く浅場をよそに、宮津は親戚に挨拶を交わすかの如くあっさりと応答する。


 どっちから話を切り出すのかお互いに手を拱いていると、外からカツカツと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。程なくして入り口から男が駆け込んでくる。この男もまた暴力団というよりも会社員といった方がしっくりくる様な、紺のスーツに赤いネクタイといったシンプルな服装に、黒い文字盤の周りを銀色で縁取った4、5万円ほどのG-SHOCKを身に付けていた。


 「なんだお前らは?」男は目線を切らぬように3人を睨みながら懐に手を入れる。それをすぐに浅場が手を広げ制止した。


 「何の用だ?」


「お宅で契約している社員の1人について聞きたいことがあります」


「金目周一のことか?」間髪入れずに帰ってきた問いに驚きつつも、わかっているなら手間が省けて好都合だと気を楽にした。


 「あの男のこと、教えてやってもいいが、タダでとは言わないよな?」


「交渉には応じましょう」すると浅場は、フッと笑みを浮かべソファに座るように促した。再び宮津と丹波がソファに座り和泉がその後ろで立った。すると浅場も、伸されたヤクザトリオの1人、眼鏡の男の顔にハットを乗っけると椅子に腰掛けた。


 「彼奴らに何した?」


「頭突きを食らわされたんでね。正当防衛ですよ」そう言いながら宮津は前髪をたくし上げ、赤く晴れ上がった額を見せた。しかし、浅場は疑いの目を向ける。


 「お前のやり口は知ってるぞ。どうせそっちから嗾けしかけたんだろ?」


「どうお思いになろうが勝手ですが、先に手を出した方が負けですよ。丸帽(マル暴)を被っているのなら尚更に」浅場は面白くない顔をして3人を見回す。視線を向けられた和泉も、宮津とやけに親しげに話す浅場を不思議そうな顔をして見返した。


 「それで、金目のことだったな」浅場は宮津と目線を合わせ話を切り出す。しかし、宮津がいきなり話を遮って口を開いた。


 「その前にまず、そちらのお望みを聞いときましょうか」


「いいだろう。ただし、値下げ交渉はなしだ」そう言うと浅場は要求を提示する。


 「金目周一、奴の居場所が知りたい」宮津はその話によく耳を傾けた。


「自分で探したいのは山々なんだが、康安会の連中を相手する準備をしなくちゃんらんのでな。頼まれてくれるか?」金目の身柄は未だ警察にあり、送検までもう少し猶予がある。浅場の提示した要求は既に満たしたも同然であり、断る理由も応じるリスクも皆無だ。和泉にはそう思えたが、宮津は何故か顎に手を当て考え込んでいる。そして、暫く経ってようやく宮津が首を縦に振った。


 「わかりました。今週中に突き止めてお伝えします」それを聞いた浅場は頷き、さっきの続きを話し始める。


 「金目が最初にここに来たのは6月の頭だった。アポもなしにいきなり乗り込んできて、金を貸せと抜かしやがった。事情を聞くと自衛隊を退職したらしく、それなら派遣社員にならないかと最低限の生活費と契約書をくれてやった。それからしばらくは、会うたびに仕事をくれってよく働いたもんだ。運送に清掃、あと福島にも行かせたな。そうしてふた月経ったつい先日、奴は急に姿を消した」


「理由にお心当たりはありますか?」その問いに浅場は愚問だと言いたげに笑った。


 「こっちもそれが知りたいんだ。心当たりがあれば奴のことを探してくれと頼まない」そうですか。と宮津は相槌を打つと、今度は自分から話を聞き出そうと質問する。


 「彼がどうして自衛隊を退職したのか、理由はご存じですか?「詳しくは知らんが不祥事を起こしたとは言っていたな」


「では、彼が康安会と関わりを持っているということはご存じないんですね」すると浅場は眉間にしわを寄せ、眼鏡の男が先ほどしたように動揺するような素振りを見せた。


 「それは本当か?」上擦った声でそう尋ねると、宮津は落ち着いた声でええ。と肯定する。浅場は手を組んで目線を右上にやり、しばらく経つと独り言のように呟いた。


 「それで姿をくらませたのか・・・」そして右上へ向いていた目線を宮津に向けると、話し手が再び浅場に変わる。


 「俺は奴を康安会の回し者だとは思わんな。短期間ではあるが奴は働きこそすれ、迷惑をかけることはなかった」


「それは俺も同感です」宮津に肯定されるとは予想だにせず、浅場は驚いて宮津の顔を見返した。


 「少なくともここに雇われてからは、彼はとても従順だった。そうでしょう?」浅場が黙って頷くと更に話を続ける。


「だからこそ、あなたは彼に何かをやらせようとした。違いますか?」すると浅場は、宮津たちがここに何をしに来たのか察したようで、少し口元を緩めた。その表情は、宮津に失望を予感させる。


 「俺は奴に違法なことは何もやらせちゃいない。寧ろ申し訳なく思ってるくらいだ。奴の能力を活かせる仕事を与えてやれなくてな」浅場はそう言って宮津の目を見詰める。その冷たいながらも真剣な眼差しを、宮津は嘘だと思うことはできなかった。


 「そうですか」宮津はそう呟くと膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がった。それに続いて丹波も腰を上げ、和泉の隣に回った。状況を飲み込めずおろおろと視線を右往左往させる和泉は、丹波に腕を引かれ入ってきたドアの方へと歩いて行く。


 「最後に1つだけ」宮津はそう言うと、未だソファに腰掛ける浅場を見下ろしながら口を開いた。


「彼は、1日中働いても毎月の家賃しか払えない。真っ当な道になんか戻れない。そう言っていました」宮津はだからどうとは言わず、ただそれだけを伝えた。すると浅場は顔の前で手を組んだ。そして、顔を下ろしたまま宮津の顔を見ずに独り言のように言う。


 「国は、片足だけでも橋から足をを踏み外せば残ったもう片方の足まで突き落とす。俺たちはそんな奴らを救ってやりたい。たとえ同じ沼の中だとしても、奥底に沈むより、水面みなもから顔を出してもと居た橋を見せてやりたい。俺はそう思っている」


「法を犯してでも、ですか?」


「橋の上から手を差し伸べてくれる者が居ないのなら、沼の底から押し上げてやるしかない。少しでも上へ、手を伸ばせば手が掛かるところまで・・・」浅場も宮津も、それ以上は何も言わず沈黙する。5、6秒の時が経ち、宮津は俯きながらひと言言い残すと、背を向け浅場の前から姿を消した。


 「手を差し伸べてくれますよ。本気で橋の上に戻りたくて、這いつくばってでも泥を落としたのならね」












 駐車場に止めてある白のインプレッサ、宮津はその後ろの席に乗り込んだ。丹波は直ぐにエンジンをかけ市ヶ谷まで走らせる。


 「サシで話して何か引き出せたか?」


「大体のことはわかった」宮津と丹波がシートを隔ててそんなやりとりをしている傍らで、助手席に座る和泉はようやく緊張が解け安堵した様子でシートにへたり込んでいた。その姿を宮津はチラッと視認するとクスッと笑った。


 「実戦は初めてだったか?」


「殴り合いになるんだったら最初っから言っといてくださいよ」和泉は疲れ切った声で泣き言をあげる。い


 「いい首返しだったぞ」丹波が幼い子供に言うような声色で褒めると、和泉はムッとして顔を窓の外に向けた。


 「それで、この後はどうするんですか?」


「後はこっちの仕事だ」浅場と話して何がわかったのか等の詳細は語らず、それだけ言うと宮津は俯いて考え事をはじめた。和泉は横目でバックミラーを一瞥してその姿を確認すると、今度は丹波の方へ話を振る。


 「話が全然見えてこないんですけど」


「俺もそうさ」往々にして他人を置いてけぼりにすることがあるが、まさか丹波もついて行けていないとは思わず、和泉は目をぱちくりさせた。


「大丈夫。宮津のことだ、今自分の中で話を整理してるんだろ」


 車が赤信号に差し掛かり、スピードを徐々に緩め停止する。多少のエンジン音はするものの、先ほどよりは幾分か静かになった車内にすーすーと空気が抜けるような音が微かに響く。丹波と和泉は音の出所を振り返った。2人の視線の先で、先ほどまで目を開けていた宮津が目を閉じ寝息をたてながら、こくこくと船を漕ぐように体を前後に揺らしていた。


 「寝てるし・・・」唖然としながら和泉が宮津を眺める。その横で丹波は微笑しながら和泉に言う。


「寝かせといてやれ。どうせ禄に寝てないだろうし。それに、これからお偉方と口喧嘩をしなくちゃならないだろうからな」


 そうして信号が再び緑色に光ると、丹波は車を市ヶ谷までゆっくりと走らせた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る