第2話:宮津陸仁の休日






 火をかけた鍋から立ち篭める湯気は、味噌の香りを纏いキッチンからダイニング、そしてリビングへと流れていく。まな板の上でトマトを6等分すると千切ったスイスチャードとクレソン、短冊切りの人参が入った木製のボウルに投入した。火を止めたグリルから香ばしい匂いを放つ2枚の鮭を取り出し、四角い白い皿に盛り付ける。


 ログハウスの形をした文字盤の掛け時計をふと見上げると時刻は6時。卵焼きをもう1巻きすると暗めの葉色をした皿に移し6つに切った。


 サラダの入ったボウルと卵焼きの皿をテーブルに持って行く。すると、2階のドアが開く音が聞こえ足音が階段を降りてくる。久しぶりに聞く音に嬉しさを感じながら鮭の皿を両手に持ち、サラダボウルの前に置いた。


 ゆっくりとドアのレバーが下がるのが視界の端に映ると、リビングに背を向け調理器具を洗い始めた。


 そろりそろりと近付いてくる気配が伝わってくる。本人はバレてないと思い込んでいるようなので気付かないフリをして洗い物を続けていると、突如背中に温もりを感じた。その正体は分かりきっているので振り返ることも手を止めることもしなかった。


 腋の下から伸びた腕が胸を締め付ける。温もりの主は頬を膨らませていることだろう。それでも無反応な賄い方に痺れを切らし漸く口を開いた。


 「おはよっ」シズクは後ろに束ねた黒髪を揺らしながら踵を浮かせると、肩の上に顔を置き宮津の耳に向かって甘くしっとりと囁いた。

「おはよう」宮津は少しだけ顔を左に向けると、横目で零の顔を見て素っ気なく答えた。そんな態度に不快感を示すこともなく零は席に座る。


 「今日はお味噌汁に何入れたの?」寝起きだということを感じさせるようなおっとりとした口調で尋ねると、すぐに答えが返ってきた。ただし返ってきたのは言葉ではなく、中が朱色の黒い汁椀だ。


 「シジミと豆腐か~」予想通りで新鮮味がないが不思議と安心感を覚える内容だ。白米が装われた茶碗を両手に1個ずつ持ち、それぞれを零の前と自身が座る場所に置くと宮津は席に着いた。


「零がもっと普段からシジミを使ってくれりゃ他の具も使うんだけどな」


「リクが使うから置いといてあげたの。シジミじゃないと大好きな猫まんまにできないもんね?」


「あれは猫まんまじゃない。猫まんまは飯に汁をかけたもののことで、俺は汁に飯を入れて―」


「いただきます」零は宮津の高説を遮り手を合わせた。宮津も後を追うように手を合わせると、続きを話すことはなかった。


 頬にかかった髪を耳の後ろに掻き分けると、汁椀を顔に近付けふぅふぅと数回息を吹きかける。宮津はその姿をマジマジと見詰めていた。


 「なに?」視線に気付いた零は顔を上げ、宮津の顔を見返した。


「いや、味はどうかと思って」本当は見惚れていたのだが、面と向かって言うには恥ずかしさを覚え咄嗟に嘘をついた。恐らく零には宮津の心中がわかっているだろう。


「いつもと同じ味だよ」可否を計りかねる感想だが、いつも文句を言わずに完食しているのだから好意的に受け取ってよいのだろう。次に零は鮭の身を箸でほぐし口に運んだ。


 「これは鮭?」


「鮭だろ」


「この間はサーモンだって言ってたのに?」宮津は首を傾げ存ぜぬと惚けてみせた。だが、鮭とサーモンの違いについて無駄に長々と話した記憶が鮮明にある。因みに今日のは正真正銘の白鮭だ。


 一品一品にひと言添えていたのでは朝食が冷めてしまうので、それからはしばらく黙って箸を進めた。あらかた皿の上が片付き味噌汁に浮かぶ実を一掃すると、宮津は空になった茶碗を再び白米で満たす。そして箸で白米を掬い2、3回に分けて固形物が無くなった汁の中に投入した。そして白米と汁をよく混ぜ合わせるとさらさらと掻きこんだ。その姿をさっきのお返しとばかりに零が眺める。


 あっという間に汁椀の中を空にすると、ふぅと息を吐きぬるくなった緑茶を飲み干した。湯呑みを置くと今度は2人揃って手を合わせる。


 「ごちそうさまでした」












 食器を流しへと持って行くと洗い物は宮津に任せ、零はリビングの方へ行った。ソファの座面に置かれた服を背もたれに掛けると、着ているスウェットの裾を掴み頭の方に引き上げる。


 くびれがありながらも程よく肉が付いた上半身を露わにすると、すぐに淡いピンク色のノンワイヤーのブラで胸を覆い白のキャミソール、そしてオリーブグリーンのブラウスを着衣した。パンツを下ろすと水色のショーツを僅かに覗かせるが、それもすぐにデニムによって姿を隠した。


 先ほどまで着ていたスウェットを畳んでソファに置くと、テーブルに手を伸ばしテレビのリモコンを取ってソファに座った。スイッチを入れるとチャンネルの4を押す。丁度お目当ての、OBが現役の野球選手にインタビューするコーナーが始まった。


 「昨日試合はどうだったんだ?」


「負けたよ」覚悟はしていたが仄かな期待を裏切られ宮津は少し背中を丸めた。


 思えば、最近の低迷ぶりは球史に残る勢いだ。最盛期には9年連続日本一という圧倒的な強さでプロ野球を牽引してきたチームも、今では日本一どころかポストシーズンに駒を進めることすら危うい状況が続いている。それでも幼い頃から応援しているチームを簡単には見放すことはできない。


 「今度神宮にでも行くか」食器を乾燥機に入れた宮津は、手を拭きながらリビングの方へ歩いて行く。


「いいね。行きたい」


 本当ならこれを予定としたいところだが、そうもいかない現実が今まで幾度となくあった。だから2人はそれ以上何も言わず、黙って寄り添った。


 一緒に過ごすことができるこの時をよく噛み締めるように、2人は静かに身体をくっつけた。


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