第18話

 必要事項を記入し、私の印鑑を押した婚姻届は、保証人の欄にコンビニのオーナーの名前を加えて、ナゴミさんの元へ送り返した。

 オーナーも奥さんも「こういうことは、ご両親に頼んだ方がいいんじゃないの?」と心配そうだったけれど、私のことは私が決める。そう決心したこともあって、あの二人にではなく、オーナーに頼むことに決めた。

 何も変わらない生活でもあるし、しばらくの間私の結婚については家族に伏せておくつもりだった。会ったばかりの人と結婚したなんて、反対されるに決まっている。そういう事情も含んだ上で、大地にも口止めをしていた。カード5枚での契約だ。

 けれど、大地は意味深な態度で、みんなの前で怪しげな行動ばかり取っている。私としては、いつどこでポロリと口にするのか不安ではあるけれど、今のところ父さんやあの人にバレてはいない。

 婚姻届を送り返してから2日後「市役所に提出したよ」というメールが届いた。「婚姻届」が正式に受理され、私とナゴミさんは夫婦として認められたということになる。

 その日の夕方には、花束と小さな小包が送られてきた。送られてきたのは結婚指輪と真っ赤なバラの花。会わないまま結婚し、自分で左手の薬指に指輪を嵌めるなんて、ちょっとどころではなく変わった結婚だと思う。

 それに、あの! と言うと失礼極まりないけれど、何とも言えないTシャツにダメージジーンズ、裸足に雪駄という恰好のナゴミさんが真っ赤なバラの花を贈ってくれるなんて、意外すぎて笑えた。

「愛と言えば、バラだろ?」

 ナゴミさんは至って真面目にそう言っていたけれど、これも絶対にウケ狙いだと私は思う。

 ナゴミさんからの指輪はぶかぶかで、いかに私たちがお互いのことを知らないのかを知らしめたけれど、それでも、ナゴミさんと結婚したことを後悔なんてしていなかったし、私は自分なりの幸せを得たと思っていた。

 私とナゴミさんの結婚によって変わったことといえば、私の本籍地がナゴミさんの住所になったことと、苗字が変わったことくらいだ。

 住所も今のままで困りはしなかったのだけれど、後々のことを考えて、私がナゴミさんの住所へ転居したという形を取ることにした。だから私は、一度も引っ越しなんてしていないし、今のところその予定もないのに、元々住んでいる今の家に単身赴任しているような形になっている。郵便物だって、今後は「池野様方 槇田光輝」で届くことになるだろう。

「槇田光輝」

 そう、私の新しい名前だ。今は夫婦別姓だってアリだし、ナゴミさんは別姓でも構わないと言ってくれていた。だけど私とナゴミさんの結婚には今のところ大きな変化がない。だからせめてもの実感が欲しくて、私はナゴミさんの姓を名乗ることに決めた。コンビニの名札も、「槇田」の名札を作ってもらっている最中だ。正直「槇田さん」と呼ばれても、まだピン! と来ないし、自分が結婚したことだって夢のようなのだけれど、「槇田さん」と呼ばれると、ちょっとだけ照れくさい。

 そんな毎日を送る中で、毎夜二23時になると、夫であるナゴミさんから電話がかかってくるようになった。夫婦の日課といったところだろうか? その電話のために、ナゴミさんは私専用のスマホを買って送ってくれた。「ファミリーパック」というプランに入っているらしく、ナゴミさんと私の通話は無料になる。だから、ナゴミさんとは好きなだけ電話での会話が出来た。

「もしもーし? 槇田さんの奥さんですかー?」

 そう言ってかかってくる電話にも随分慣れた。夫婦らしいことは何もない私たち。私たちはただ紙での契約を交わしただけだ。それでも結婚していることになるのだから、なんだか不思議だなと思う。

 それから間もなくして、小説投稿サイト「ラブリー」のピックアップページに、私が書いた小説「マリッジ? マリッジ! マリッジ?!」が掲載された。ピックアップページの威力はすごく、それまで作品を読者登録してくれる人はほんの数人だったというのに、ピックアップページに掲載された途端、読者登録が一気に増えた。

「キラ、すごいじゃん! レビューの数もプレビュー数もすっげぇ伸びてる!」

 和さんは私以上に喜んでくれ、仕事の合間にサイトをチェックしてくれているらしかった。こんな風に驚きも喜びも、和さんが私と共有してくれるから、一人の時よりも倍以上の嬉しさがあるのを感じる。それは私にとって、何よりも幸せなことだった。

 そして毎日の電話では、それまで同様に、自分たちが書いている小説のこと、文章の書き方、表現の仕方などを飽きることなく語り合った。メールという文字ではなく、声で交わされるそれらに、私はよりナゴミさんに近づけた気がしていた。実際の距離は遠くても。

 ただ「おやすみ。またね」そう言って電話を切るときは、無償に寂しさを感じてしまう。


 そうして父さんが退職の日を迎えた。その日はちょうど土曜日で、私も休みということもあり、この日は家族全員が家にいた。

 会社に行く必要などないというのに、父は毎日朝早く目が覚めるらしい。朝早くからすることもなく、いつもリビングのソファに埋もれ、テレビを見ている始末だ。そんな父をキッチンから見つめるあの人の表情はとても優しい。

 11年もの時間を別々に過ごしてきたはずなのに、この二人はまた「夫婦」として生活している。何か思うことや不満などはないのだろうか? そう私は思うけれど、二人の時間は静かに流れているように見える。

 そしてこの日、兄と籍を入れた麻衣子さんが家族として加わった。麻衣子さんは私より3つ下の28歳。妊娠5か月だそうで、二人の結婚式は赤ちゃんが生まれてからということになっている。

 それまで食事の時は、ダイニングテーブルの6つの椅子のうち、四つしか使われていなかった。でも今は、6つの椅子全部に誰かが座り、テーブルを狭いとさえ感じる。

 何なのだろう? 家族って。

 自分の席で食事を進めていると、兄と麻衣子さんのやり取りを眺めていた大地が、兄であるパパの表情を眺め、満足そうに笑って提案した。

「ねぇ、このテーブルと椅子って狭くない? この際だから、新しいのに買い換えようよ! 来年には妹か弟が生まれるんだしさ」

 父さんもテーブルを見渡し「そうだな」と同調する。

「じゃあ、せっかくだから今日にでも家具を見に行ってみる?」

 父さんを外に連れ出すいい機会だと思ったらしいあの人が声を弾ませた。

「そうしようよ! ね、パパもいいでしょ?」

「麻衣子はどう? 体調は?」

 即答しない辺り、完全にお兄ちゃんは麻衣子さんの尻に敷かれている印象を受ける。そんな二人を見て、大地はニコニコと笑った。

「部屋に入りきるか微妙だけど、出来れば10人くらい座れるテーブルにしようよ!」

 大地の提案に、私はギクッと身体を震わせた。まさか、ここで?

「ミツキの旦那さんのナゴミさんだって一緒に座れるようにしたいしさ!」

 大地が放った一言で、その場にいた全員の視線が私へと突き刺さる。

 聞いてないよ? どういうこと?

 言葉は何もなかったけれど、沈黙の中、それらの言葉が浴びせられているのを感じた。おまけに大地が「あ、ごめーん! しゃべっちゃった! ミツキに口止めされてたのにー」という無駄なひと言まで付け加えたせいで、空気がより悪くなったのは否めない。

「あはは。近いうちに話そうとは……思ってたのよ?」

 そう言ってはみるも、父さんなんて完全に怒っている。

「相手はどこだ? どういう仕事をしてるんだ? 年収は?」

 矢継ぎ早に質問攻めに合い、私は閉口する。

「勝手に結婚するなんて言語道断だ! 相手を連れて来い!」

 父さんはそう言って、箸をパチン! とテーブルに置いてさっさと自分の部屋へ行こうとしたけれど、その父さんをあの人が止めた。

「お父さん! 光輝だけ自由がないなんて理不尽ですよ。私たちだって好き勝手してきたんですから。光輝が決めた相手なら、問題ないじゃないですか!」

 一度立ち上がった父さんが、唇をワナワナさせながらも椅子に座りなおした。ここにも妻の尻に敷かれている人がいることにおかしくなる。

「大地、あなたはそのナゴミさんって人に会ったことがあるの?」

 あの人の問いに、大地は無邪気に答える。

「うん! ほら、この間俺たち一泊で旅行に行ったでしょ? あの時ナゴミさんちに泊めてもらったんだー」

 楽しげな大地の視線の先には、水槽で泳ぐメダカの群れが見える。

 大地のおしゃべりめ! そう思ったけれど、大地の口から漏れ出てしまった言葉を口の中に戻すことなどできはしない。私は無言で通そうと決めた。でも、またもやあの人が大地に尋ねる。

「で? どうして結婚したのに、光輝はそのナゴミさんの所へ行かないのかしら? 大地は知ってる?」

 狡い! この人は私を育てただけあって、私のポイントを押えている。これではこの人の思うツボだ。

「そんなことどうでもいいことでしょ? 私には私の理由があるっていうかー」

 どうにかして煙に巻こうとする私を遮って、大地が答えた。

「ミツキは俺のことを心配してここに残ってくれてるんだと思う。俺を育ててくれたのはミツキだからさ。ほら、パパは頼りないし? 学校のことだって、友だちのことだって、サッカーのことだって、俺の面倒を見てくれたのは全部ミツキだから!」

 大地が真っ直ぐに私を見つめてくる。その目から私も目を逸らすことが出来ず、見つめ返すしかない。

「ミツキ、ナゴミさんのとこに行きなよ。俺は大丈夫だから。俺、もうお兄ちゃんになるしさ。『自立』しないと!」

 自立なんて言葉をどこで? そう言えば、この間も貧乳なんて言葉を知ってたっけ? 

 知らない間に、大地がこんなことまで考えるようになっていたことに驚く。いつまでも子供扱いしてたらダメなんだな。大きくなったんだな……感慨深いものがあって、胸が詰まる。

「光輝、甘えてばかりでごめん。俺が大地の父親なのに、俺、何にもしてなくて……」

 お兄ちゃんがようやく現実を見たように思える。これまで私にまかせきりで、父親らしいことなんて一つもしていないお兄ちゃん。

「光輝さん、私も努力しますから。大輝さんと大地くんのこと見守っていきますから」

 麻衣子さんは私より年下だけど、戸籍上は義理の姉ということになる。お義姉さんって呼ぶべきなのだろうか? そんな疑問が頭をよぎる。

「ね? ミツキ、俺はもう大丈夫なんだよ。今度はミツキが家族を作る番!」

 子供である大地に大人びたことを言われ、悔しい気持ちも芽生えたけれど、この大地の告白は、大地が考えて仕組んだことではないかと気づいた。大地なりに私のことを心配してくれたに違いない。

 もう! 大地のくせに!

 大地の頭を小突きたい衝動に駆られたけれど、今は大地の好意に甘えるべきだ。ここまで大地がお膳立てし、私を『自立』させようとしてくれているのだから。

「分かった。それじゃあ、ナゴミさんと話し合って、向こうが受け入れてくれるようなら、私、ナゴミさんの所に行くね」

 そう言ってみると、大地は「チッチッチ!」と人差し指を揺らした。

「そこも確認済みだから大丈夫! 荷物は後から送ってあげるから、今日にでも行っちゃえばいいよ」

 大地は笑っているけれど、私には現実的な問題もある。

「ちょっと待って! コンビニだってあるし、いろいろ手続きとか……」

 言いかける私に、お兄ちゃんが続けた。

「コンビニはオーナーと相談して、しばらく麻衣子が入ることにしたから。子供が産まれるまでは麻衣子が責任もって入ることになって……いたっ!」

 得意げに話していたお兄ちゃんが顔を顰めた。右側から大地が。左側から麻衣子さんが。お兄ちゃんは両方の足を踏まれたらしい。

「あー、もう! パパってなんでそう口が軽いの! これだからママにも離婚されるんだよ! 麻衣子さんにだっていつ愛想尽かされるか分かんないよね! 最悪!」

 大地の口ぶり、お兄ちゃんの話し。さっきからのあの人の大地への無茶ぶり。父さんの怒り……?

「もしかして、みんなグルなの?」

 それまで怒った表情だった父さんが、我慢できないという表情で吹き出した。たっぷんたっぷんのおなかを抱えて笑っている。

「だから言ったろ? 大輝が一番口が軽いって!」

「そういうお父さんだって、演技力としては怪しいものですよ?」

「ごめんって。ついうっかり……」

「うっかりじゃないよ! せっかく感動的に送り出せるいい場面だったのに!」

 口々に言い合う私の『家族』

 あぁ、もう! バカだなあ。私の家族は!

 私は涙の溜まった目を見られないよう、その場に立ち上がると、みんなに頭を下げた。

「みんな、ありがとう! 私、行くよ。ナゴミさんのところにお嫁に行く!」



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