第17話

 翌日から、私は今まで通りの毎日を続けた。続けられるように努力した。

 今更だけど、リュウが支えてくれていた部分に大きな隙間が出来ているのを感じた。恋人としてリュウが必要だったのかは分からないけれど、私にとって大事な人だったのは確かだ。私はナゴミさんが言っていた「いなくなってからしか分からない」という事実を目の当たりにしていた。

 数日前、あの人と久しぶりに会話をしたとき「これからは家事は自分が引き受ける」そうあの人は宣言した。その宣言通り、その後家事は全てあの人が仕切ってくれている。そのため、私にはそれまでにはなかった時間が出来たけれど、今時間が出来ることは正直辛かった。時間があると、どうしてもいろいろなことを考えてしまう。

 その悪循環を断ち切りたくて、私は空いた時間を小説を書く時間に当てよう! とパソコンに向かってみるのだけれど、あんなに楽しかった小説もひどく味気なく感じて作業が全く進まなくなってしまった。

 脳が働かない。楽しくない。考えたくない。

 それに、忙しいのか? ナゴミさんからの返信がない。

 これまでも、1週間くらいの音信不通は珍しいことではなかったというのに、私はナゴミさんからの返信を待ちわびていた。

 ナゴミさんまで私を見捨ててしまうの? その不安が常に付きまとう。だからといって、ナゴミさんにしつこくメールを送ることはしたくなかった。ナゴミさんが嫌がるのは分かっていたし、私たちの間でのルールに違反するような気がしたからだ。

 17時過ぎ。コンビニを出て、何気にスマホを見るとメールが届いていた。

 もしかしてナゴミさん? 

 期待してメールを開いてみると、メールはリュウからだった。リュウからのメールなんて、どれくらいぶりだろう。毎日顔を合わせていた私たちにメールなんて必要なかった。この10年の間に、会わなかった日なんてなかったのだから。

 ギュッと胸が軋んだけれど、見ない訳にはいかない。リュウからのメールの件名は「ごめん」になっていた。

『光輝、顔も合わさずに出て行ってごめん。今日、引っ越しが完了した。少し前から転勤の話しが出ていて、何度も光輝に話をしようと思ったんだけど、出来なかった。本社へ3年ほど行ってくる。その後の赴任先は未定。婚約のことも驚かせたと思う。でも、俺は自分の家庭が欲しい。光輝と一緒になるのが俺の希望だったけど、光輝が望まない以上、俺一人では出来ないもんな。10年も諦め悪く付きまとって悪かった。光輝も、どうか幸せになってほしい。そしていつか、顔を合わせて話が出来たらと願ってる』

 ここ最近、リュウの様子がおかしかったことを思い出した。いつもより疲れている様子で、やたらと「疲れた」を連呼していたリュウ。甘えたがるのはいつものことだけど、甘え方が違ってた。私は何にも考えてなかったけど、あの時リュウは苦しんでたんだ。転勤のことも、私たち二人のことも。

 こんなときでも、リュウは自分が「付きまとっていた」という表現で私を守ってくれている。実際は、私が狡いことをしていただけなのに。こんなに優しい人なのに、私はどうして受け入れることが出来ないのだろう? 

 リュウからの文面を読み終わって、リュウが今日引っ越しを終えたのだと悟った。私が仕事に行っている間に済ませるように配慮してくれたのだろう。そんな風に冷静に考えている自分がいて、涙は出なかった。私はなんて薄情なのだろう。

 自分に呆れながらも、本社への転勤ということは栄転になるのだろうし、婚約するということも喜ばしいことだと思った。リュウの門出はお祝いするべきだろう。

「おめでとう。リュウ……」

 スマホに向かって呟く。

 今すぐ平気な顔をして会うのはムリだろうけど、本当にいつかきちんと向き合って、「元気だった?」って笑える日が来るといい。その日に向かって、私も前を向かなければならない。私は決意を新たに、しょげてばかりじゃいられない! と自分に気合を入れた。

 コンビニの入り口近くに停めてあった自転車を押して道路まで出たところで、自宅の方から大地が走ってくるのが見えた。

「ミツキー! ミツキー!」と叫び、左手に何やら封筒を掲げている。その勢いからして、何か特別なことが起こったことを窺がわせた。

「ナゴミさんからー!」

 その名前を聞いたとたん、私は自転車を放り出し、走り出していた。

 ナゴミさん! ナゴミさんからの!

 大地の手から封筒を受け取る。ナゴミさんからの手紙は、普通の白い縦長の封筒だった。裏返すと「和」と一文字だけが記されている。宛名には私の本名と自宅の住所。

「どうして? 私、本名教えてないはずなのに……」

  思わず心の声が漏れてしまう。それを聞いた大地が得意げに、ニカッと笑った。

「俺が教えたんだ」

「え?」

「ほら、ナゴミさんとコンビニ行って、メダカを捕まえてきたでしょ? あの時に、ナゴミさんに聞かれたんだ。書くものがなかったから、ナゴミさんが持ってたコンビニのレシートの裏に書いたんだぜ?」

 そうなの? じゃあ、本名を知らないのは私だけってこと? なんだか複雑な気持ちになる。そんな私の気持ちに気付かない大地は、私に早く封を切るようにと急かした。

「ナゴミさん、何なの? 何の用事で手紙なんて送ってきたの? なんて書いてあるの? ねぇ! 早く! 早く開けてよ! 俺、気になって仕方ないから、ここまで持って来たんだからさ!」

 封筒はしっかり糊付けがされていた。手でビリビリと破るのは気が引けたけれど、大地と同様、私も早く中身が見たい。

 この際、仕方ない! 

 私は封筒の上部分をビリビリとちぎるようにして封を開けた。お世辞にもキレイとは言えない開け方だ。そして、緊張しながら封筒の中身を取り出す。中から出てきたのは一枚の紙だった。その紙がいくつにも折られて入れられていた。その手触り、紙の質感が独特で、まさか! という思いが芽生える。

 いくつもに折られた紙をその折られた順を逆に広げていく。全てを広げると、その紙は両手に広がるくらいの大きさだった。とても薄い紙で、ペラペラ。でも、その意味と存在感は、とてつもなく大きかった。私の手で広げられた紙を覗き込んでいた大地が驚きの声を上げた。

「ミツキ、コレ、『コンイントドケ』っていうヤツじゃないの?」

 大地の片言での読み方が、私の中にもしっくりと落ちる。

「うん。コンイントドケみたいだけど……これって本物なの?」

 本物? これって本物の『婚姻届』? 何しろ、これまでコンイントドケなんて縁もなく、書いたことはもちろん、見たことすらない。

「本物だよ。ほら、この『夫になる人の欄』ってとこに、『槇田和史』って名前が書いてあるもん。これって、ナゴミさんの本名でしょ?」

「マキタカズフミ……?」

 ダメだ。驚きすぎて、脳まで情報が届かない。何が起きているのか、全く理解できない。

「他には何か入ってないの?」

 大地に言われ、封筒をもう一度覗いてみたけれど、他には何も入っていなかった。私の脳は止まっているけれど、大地はこの状況をしっかり飲み込んでいる様子だ。

「そっか! 分かった! ナゴミさんはミツキと結婚したいんだよ! そういうことでしょ?」

 私がナゴミさんと結婚?

 槇田和史と書かれた欄の隣り、『妻になる人の欄』は空欄になっている。ホント? 私と結婚したいって、ナゴミさんは本当にそう思ってくれてるの?

「とにかくさ、ナゴミさんに電話してみたら? どういうことなのかちゃんと聞かなきゃ」

 大地はテキパキとそう言うけれど、私にはとてもそんな勇気は出ない。

「大地、ちょっと待って。混乱してるから、もう少し落ち着いて、それからにする」

 この状態でどう電話しろと言うのか? ナゴミさん、婚姻届が送られてきたんですけど、私と結婚したいんですか? って? 無理無理無理! 

「ミツキが出来ないんなら、俺がしてやってもいいぜ? スマホ貸してよ」

 大地が私のバッグの中を漁ろうとするのを慌てて遮る。

「大地! 止めて! ちょっと待ってって! 今はムリ!」

 二人でバックに手を突っ込み、攻防戦を繰り広げていると、中からピリリリリリ~と派手な音が流れた。何でこんな時に! そう思ってスマホを掴むと、表示されていたのは「和さん」の文字。私はその名前を見ただけで固まってしまった。そんな私に構わず、大地が素早くスマホを奪う。

「大地!」

 私が叫んだときには時すでに遅し。大地はスマホをタップして、通話を受けていた。

「はいはーい! もしもし? うん! うん! 今ね、俺がコンビニまで持ってきてさ。そう! それでたった今見たとこー。うん! えー?」

 大地は楽しげにナゴミさんと話している。私だってナゴミさんと話はしたい。でも、何を話せばいいの……?

「えー、だって、ナゴミさん、胸が大きい人が好きって言ってたじゃん!」

 考え込む私の横で、大地は私を見て笑っている。

「俺、小さい頃から見てるけど、ミツキの胸は貧乳ってヤツだよ?」

 貧乳なんて言葉をどこで覚えてきたのか? 私はカッと頭に血が昇り、大地の手からスマホを奪い取って耳に当てた。私の耳にナゴミさんの声が聞こえてくる。ナゴミさんは楽しそうに笑い、その声はとても明るかった。

「問題ないって! キラの胸は、俺が夢と希望でめいっぱい膨らませてやるし!」

 かあっと頬が熱くなる。何て恥ずかしいことを言っているんだか!

「ナゴミさん!」

 私の声が聞こえたらしい。スマホの向こうで「げっ!」と慌てた声が聞こえた。

「子供になんてこと言ってるんですか! 大地に変なこと教えないでください!」

「あー、スミマセン……」

 お互いに無言になる。コンイントドケのこと、話さなきゃ。そう思うけれど、切りだし方が分からない。

「キラ?」

 呼びかけられて、シャキンッと背筋が伸びた。

「一回しか会ったことがないのに、結婚っていうのも変かなとは思ったんだけど、俺本気だから。リュウくんと別れたばかりのキラに付け込むような気がしないでもないけど、もう後悔はしたくないからさ」

「ナゴミさん……」

「特に何かを変える必要はないんだ。このままでいい。苗字だって住んでるところだって、変わらなくていいと思ってる。ただ、キラには俺がいるってことと、俺にはキラがいるってこと。それを約束したかったっていうか」

 ナゴミさんが懸命に訴えていることを頭の中で整理する。つまり……?

「このままの状態で籍だけ入れよう。そういうことですか?」

「まぁ簡単に言えばそうなるかな? キラは大地のことが心配だろう? だから、大地がもう少し大人になって、キラがもう大丈夫だって思えたときに、俺と一緒に住むとか諸々は考えてくれたらいいと思ってる。それまで俺は、遥か彼方からだけど、夫としてキラを支えていくよ」

「付き合おうじゃなくて、まっすぐ結婚でいいんですか? ナゴミさん、私のこと知らないですよね? 後悔しませんか?」

 何かの書類の確認事項のようだと思いながら、ナゴミさんがどうしてすぐに結婚しようと思ったのかが知りたかった。電話の向こうで和さんが笑う気配。

「知ってるよ。キラのことは。確かに会ったのは一回きりだけど、俺たち三年もメールのやり取りしてきたじゃん? キラの良さは俺がよく知ってる。キラが書く小説や詩の中にだって、キラっていう人物が表れてる。だから俺は、リュウくんみたいに待つなんて悠長なことはしないで、さっさとキラを俺のものにしちゃおうと思ったワケ。離れていても、籍を入れておけば、キラは俺のものじゃん? それくらい俺はキラを必要としてる。距離なんて関係ないよ。俺たちは夫婦としてお互いを支えて行ける相手だと思う。まぁ、キラにしてみれば、女だと思ってた俺が実は男で、一回会っただけで結婚っていうのはあまりに唐突だろうけどさ」

 こんな申し出は、普通であれば受け入れられることではないと思う。結婚って、夫婦が同じ姓になって、一緒に住んで同じ空間を共有し、一緒に生活していくものだという認識がある。でも私は、ナゴミさんとならアリだと思えた。

 10年付き合ってきたリュウとはムリだと思ったのに、たった一回会っただけのナゴミさんとならアリ。しかも、普通の夫婦では考えられないような結婚をしようというのだから、私もナゴミさんもかなり変わっている。それでも、今度はリュウのときのように悩むことはなかった。

 一度息を吸い、ふーっと吐きだし、私は一気に告げた。

「ナゴミさん、こんな私ですが……よろしくお願いします」

 さっきまでの緊張が嘘のようだ。こうなることが当たり前のような、そんな気もして。

 私たちの会話を聞いていた大地が「わあお!」と叫び、コンビニへと駆け出して行く。おそらくコンビニの奥さんに報告するつもりなのだろう。

 大地のおしゃべりめ! そう思いながらも、私の心がふわふわと満たされていくのを感じた。 

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