第16話

 ナゴミさんからの返信はなかった。

 私は泣き疲れて、眠ってしまっていたらしい。

 部屋をノックする音が聞こえて、フッと目を覚ました。もう辺りは暗くなっている。カーテンの向こうに続くベランダに灯りは点かない。リュウは今日も帰ってこないのだろう。

 コンコン! またドアがノックされた。

「……はい」

 返事をすると、電気のスイッチが入れられた。中に入って来たのはあの人だ。急に眩しくなった為に、私は目を細めた。

「何? 勝手に入らないで」

 声に棘を含ませるけれど、私は弱り切っていた。いつものように強く拒絶する力が出ない。

 あの人は遠慮することなく部屋に入って来ると、部屋の真ん中で丸まっていた私の前にしゃがみ、私の顔を覗きこんでくる。私の顔は相当ひどいことになっているはずなので、誰にも見られたくはなかったけれど、私はその視線を払いのけることも出来なかった。

「リュウくんのこと、聞いたわ」

 この人に同情されるのだけは嫌だった。なのに、今の私には反発するパワーさえなくなっている。

 あの人は私の頬にそっと触れ、涙で貼り付いた前髪を払ってくれた。

「私ね、家を出たことを謝るつもりはないの。あの時家を出なかったら、私は私じゃなくなってたもの」

 静かな空気の中に、あの人の声が溶けて行く。こんなふうにこの人の声を聞くのはどれくらいぶりだろう?

「私、お父さんと結婚してからは専業主婦だったでしょ? 子育てをしている間は毎日がむしゃらに時間と闘ってたから、何も感じなかったし、疑問に思うこともなかった。でも、大輝とあなたが成人した頃から、私の日常には変化が無くなっていったの。あなたたちが帰ってくるのをひたすら待っているだけの毎日だった。そんなとき、友だちから『仕事をしてみないか?』って誘われたのよ。お父さんには反対されたわ。それも、大反対! 母親は家を守るものだって。でも、何もない日常が私には耐えられなくなってしまって……。それで家を出たの」

 10年ぶりに聞く声は、私の根底にあるものに繋がっている。そのせいか、私の耳にはその声がひどく心地よく聞こえた。

「あなたたちと暮らしながら仕事をするという選択もあったとは思うわ。だけど、お父さんが反対している以上、私はこの家から仕事に出ることが出来なかった。だから家を出ることにしたの。家を出ると言ったとき、お父さんは私に『一人で生活できるわけがない』と笑ったわ。だから、見返してやりたかったの。あの人を」

 あの当時、父さんとこの人の間でそんなことが起きていたなんて、気づきもしなかった。私にとって二人は、いつも仲が良く、おしどり夫婦と呼ばれるものだと思っていたからだ。この人が家から解放されたがっていたなんて、思いもしなかった。特別な日じゃなくても、ケーキやクッキーを焼いてくれ、それがとてもおいしくて、私の友だちからも「光輝のお母さん、いいお母さんね!」そう言われるのが自慢だった。でもあれも「日常」に変化をもたらすための工夫だったということ?

「大輝が離婚して大地を連れて帰ってきたことも噂で聞いたわ。でも、そこで帰ったら、お父さんに『ほら見ろ』って言われる気がして帰って来れなかった。光輝、あなたには苦労させる結果になってしまったけど、私はあの時家を出て良かったって思っているの」

 つまり、父さんは母さんが家出をした理由を知っていたということ? 10年もその理由を話すことなく、父さんは沈黙を貫いてたってこと?

「お父さん、私が出て行った理由、何も話さなかったそうね。バカよね。二人で意地を張って、11年も別居するなんて」

 あぁ、訳が分からない。だから? だから、私にどうしろって言うの?

「私ね、今、エステサロンで働いてるの。友達が経営しているサロンなんだけど、今はその2号店を任されてて、とても充実した日々を送っているわ」

 エステサロン? あぁどうりで……。メイクや服装が派手になっているのが納得できる。

「リュウくんと付き合ってるって聞いて、驚いたのよ。あなたがリュウくんのことを恋人として好きだなんて、そんなことあり得ないと思って。でも、きっと私が家を出たことが原因なんだろうと思い当たったわ。私は家を出たことを間違ってないと思っているけれど、私が家を出たことで、あなたの人生を狂わせたのよね……?」

 私の目から涙がこぼれた。丸まっているせいで、涙が耳の方へ流れ落ちて行く。次々にこぼれる涙で耳が塞がってしまいそうだ。

「ごめんね、光輝。私が母親でいることよりも自分らしさを求めたから……」

 私は身体をさらに縮こませた。泣き顔を見られたくなかった。顔が見えないように、なるだけ丸くなる。

「でも、もう大丈夫。私は私らしさを手に入れたし、お父さんを見返すことも出来た。それに、大輝たち、近々ここへ同居するつもりだって言うの。大地のためにはその方がいいだろうって。人が増えるとそれだけ大変になるけど、これからは私が前のように家事もやっていく。もちろん仕事も続けるわ。だから、光輝は自由になっていいのよ?」

「……自由?」

 縮まっていた身体を緩め、斜め上を見上げると、あの人が頷くのが見えた。

「家のこと、大地のこと、お父さんと大輝のこと。そういうこと全てを『しなくちゃ』っていう思いから自由になってほしい。そう思ってるの。私が自分のことを優先したしわ寄せが全て光輝に行っちゃったから、今度は私がそれらを引き受けるわ。だから、光輝、これからはあなたがやりたいように生きて行けばいいのよ」

 大地を育てながら、どうして私には自由がないんだろうって悩んだ時期があった。自分の子供でもないのに、どうして私が? って。あんなに憧れた自由が、やっと手に入るというのに、そこにはなんだか虚しさしか残らないような気がした。

 この人を許せるのかもまだ分からない。でも、この人なりの理由があって家を出たことは理解出来た。自分らしくいたいという気持ちは、私だって持っている。コンビニと家とを往復するだけの毎日に、私だって疑問を持っていたのだから。

「少し……考えさせて」

 どうにかそれだけを言うと、あの人は少し微笑んだ。

「そうね。すぐに決めることでもないわね。そうそう、大地からお土産をもらったわ。どこに行ったのか心配してたけど、お友達のところに行ってたんですってね。さっき、大地が話してくれてた。お菓子もあるし、一緒にお茶でもどう?」

 大地を安心させるためには、階下に降りるべきだろうとは思った。でも、今は立ち上がる気力がない。

「今日は……ムリ。明日には元に戻るから。だから……」

「分かった。ゆっくり休んで」

 11年ぶりのあの人との会話。ナゴミさんと約束したように、ちゃんと向き合うことが出来たのだろうか? そう思ったけれど、私の頭の中はぐちゃぐちゃのごちゃごちゃで、誰がどう思っているのかなんてことを考える余裕すらなかった。

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