第15話
帰りの電車では、私も大地も無言になりがちだった。自分の家へと近づいていくのが、こんなにも気が重いなんて。大地は電車で移動する間、ずっと眠っていた。帰り着く現実を見なくて済むように、本能がそうしているのかもしれない。
夕方には自宅の最寄駅に着いた。
12歳になる大地とは手を繋ぐこともなくなっていたけれど、今日は何故か自然に手を繋いでいた。お互いに心細いのかもしれない。
歩けば歩くほど自宅に近づいて行く。そうしてわが家が見えてきた。あそこへ戻るのだ。そう思うと気が滅入った。でも、逃げるわけにはいかない。
私は顔を上げ、なるだけ背筋を伸ばして歩みを進めた。
わが家に着く一歩手前、リュウの家の前で、リュウのおばさんに会った。会ったというよりも、おばさんの様子からして、私を待っていたようだった。
私を見た瞬間、安堵の表情が見えたけれど、その視線はすぐに逸らされた。
「こんにちは。どうしたんですか?」
様子がおかしいおばさんが気になって声をかけると、おばさんは大地をチラリと見た。大地のことが気になって話せないということなのだろう。
「大地、先に入っててくれる? おじいちゃんに言って、倉庫から水槽を出してもらいなよ」
メダカの瓶を抱えた大地は不安そうに私を見たけれど、大丈夫という意味を込めて頷く。大地もまた頷き返し、私の手から自分の手を抜くと、自宅の玄関へと向かった。
大地が玄関に入ってしまったのを見届けるが早いか、おばさんは「わあああああ」と声を上げて泣き出した。何がなんだか分からない。
私は慌てておばさんの肩を抱いた。
「おばちゃん! どうしたの? 何があったの?」
おばさんはチューリップ柄のエプロンで目頭を押えながら、ただ「ごめんねぇ」「ごめんねぇ」を繰り返すだけだ。
「ごめんねって何が? 何があったの? どうしたの?」
私はただ尋ねることしか出来ない。
夕焼けが広がるその空の下で、私とおばさんは影を伸ばしながら二人佇む。
そのうち、おばさんも落ち着きを取り戻してきたらしい。嗚咽が小さくなり、私の方を向いた。でも、その視線はすぐに落とされる。こんなにも動揺しているおばさんは初めてだ。
「リュウ、転勤するんだって」
おばさんが嗚咽の合間に言った。
転勤? 転勤の話しなんて聞いたことがない。
「え? いつ?」
私が聞くと、おばさんは「やっぱり言ってないのね……」とまた涙で目を潤ませた。ますます訳が分からない。
「今週中には転勤先に引っ越すって。それに……」
「それに?」
言いよどむおばさんの言葉が気になり聞き返すと、おばさんは信じられない事実を告げた。
聞いた瞬間、背筋を冷たい汗が流れた。おばさんを気遣うことすら出来なくなって、その後、耳が聞こえなくなった。目の前にいるはずのおばさんが見えなくなって、おばさんにどう返事をしたのかも覚えていない。
気づいたら、私は自分の部屋にいた。持っていた荷物がずるずると腕をつたって落ちて行く。そしてそのまま、私は床へと崩れ落ちた。
私はなぜこんなにショックを受けているのだろう。結婚のことをずっとあやふやにして、はぐらかしてきたのは私だ。この間だって「結婚しよう」というリュウの言葉に頷くことが出来なかった。だから、こうなることは当然の報いなのだ。
なのに、私は……私は狡い。自分の中の汚さに吐き気がする。
リュウが私に直接教えてくれなかったことを責めるなんて出来はしない。私にはリュウを責める権利なんてない。
床にペタリと座り込んだ私の耳に、おばさんの声が再び響く。
「リュウ、転勤するんだって。それに、会社の後輩と結婚を前提にお付き合いするから、その方と婚約するって……。光輝ちゃんのことはどうするのって聞いても、はぐらかしてばかりで……。光輝ちゃん、ごめんなさいね! ほんとにごめんなさい! 10年もお付き合いしてきたのに、あんな息子で、ほんとごめんなさい!」
おばさんは何度も何度も私に頭を下げていた。そのおばさんを見ていたのに、私は何も反応出来なくて……。
リュウはずっと私のことを好きだと言ってくれると思っていた。私がどんなに焦らしても、リュウは待っていてくれる。そう思い込んでいた。最悪、別れることになったとしても、別れを切り出すのは私の方で、当然リュウはそれを受け入れる側だと思っていた。
リュウが私を見限るなんて、絶対にない。リュウは私のことが好きなのだから。
私はその気持ちに胡坐をかいて、変な自信を持っていた。
でも、リュウにも限界がきたのだ。これ以上、待てない。これ以上、嘘をつけない。これ以上、騙し合えない。
「リュウ、ごめん……」
振る側だと思い込んでいた私が、リュウに振られた。その事実に傷つけられてもいたけれど、きっとリュウは私よりもっと傷ついている。こんな決断をさせたこともだけれど、最後までリュウは私を守ってくれた。私が結婚に踏み切れなかったことを周りに悟らせないように、自分が悪者になってくれたに違いなかった。それだけ大事にしてもらったのに、何故私は……涙が滝のように溢れてきた。
リュウに申し訳なくて、悲しくて、切なくて。どう吐きだせば流れていくのか? 今、私がするべきことは何なのか? 自分に問いかけても、答えは出てこない。
涙が流れるままに泣きじゃくっていると、スマホにメール着信の音がした。混乱しているというのに、ナゴミさんからかもしれないと思うと、すぐにメールを確認したくなってしまう。
メールはやはりナゴミさんからのものだった。
『もう家には着いたかな? 大地の様子はどう? キラは大丈夫?』
昭和テイストの家でパソコンに向かっているナゴミさんが浮かんだ。会う前だったなら、こんな風にナゴミさんを思い浮かべることもなかった。今はすぐにナゴミさんの顔を思い浮かべることが出来る。煙草を吸っているところや、真剣にキーボードを叩いている顔も。
ナゴミさんに依存してはいけない。そう思いつつ、私はスマホに文字を打ち込む。
『家に着きました。リュウが転勤すると聞いたところです。それに、会社の後輩と婚約するんだそうです』
そこまで文字を打つと、送信ボタンを押した。
ナゴミさんに伝えたところで何も変わらない。だけど、ナゴミさんなら、今の私を救ってくれる気がした。
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