第8話

 仕事はいつも通りにこなせたと思う。油断すると無償に腹が立ったり、悲しくなったりするので、あまり考えないようにしていたし。

 私が1週間で辞めるだろうと予測していた田中さんは今のところ続いていて、いつもの私らしくないと言って心配もしてくれていた。見かけによらず芯が合って、優しい子らしい。

 仕事が終わって、ありえない荷物を持っている私を、奥さんも田中さんも心配してくれたけれど、本当のことを話すわけにもいかず、私は「友だちの所に遊びに行くことになってるんです」とごまかして帰路についた。

 そうは言っても、結局私が帰るところなんて、あの家以外にはない。そう分かってはいたけれど、あの女が私が築いたテリトリーを侵略している以上、私が居る場所が無くなってしまったように思えた。勝手に出て行ったくせに、勝手に戻ってきて、私の方が間違ってると言い放つなんて最低!

 私はどうしても帰る気になれず、自宅近くの公園に立ち寄った。薄暗くなってきていることもあって、公園には誰もいない。

 大地が小さい頃、大地をベビーカーに乗せてよく訪れた公園だ。大地は他の子供たちと交代するのを嫌がるくらい、ブランコが大好きな子だった。それでよく喧嘩になって、スミマセン! スミマセン! と謝ったのを思い出す。

 ふと思い出した大地の幼い日々。

 私は荷物をベンチに置くと、ブランコに乗って揺れてみた。最初は足の曲げ伸ばしをゆっくり。それから次第に勢いをつけて。ブランコは次第に大きな揺れとなり、私の身体はかなり高い位置で揺れていた。それを何度も何度も繰り返す。

 そうしているうちにひどく疲れてしまい、私は漕ぐのを諦め、自然の力に任せたまま足をぶらりとさせた。勢いがついていたブランコは、その速度を次第に落とし、揺れているのかも分からないくらいになって、ゆっくりと止まった。それでも私はブランコから降りることなく、鎖を両手で握りしめたまま、地面を見つめていた。

 こういうとき、泣ければいいのに! と思う。誰が見てるとか、どう思われるとか、そういうの気にすることなく、わんわん泣ければいいのに!

 あの人が家を出てからの私は、大地を育てるという責任を背負ったこともあるし、自分の意思とは関係なくリュウと付き合うことになってしまったせいで、感情を出すことがぐんと減った。感情を出せば、そこで負けてしまう気がしたからだ。だから、心の中では悲しいと思っているのに、涙が出ない。私の感情と涙腺はどこかで切れて、繋がっていないのだろう。

「これからどうしよう……?」

 そう呟いてみるも、解決策は思いつかない。

 私はふと思い立って、ベンチに近づくと、バッグの中からスマホを取り出した。和さんの携帯のアドレスは知らないけれど、スマホのブラウザーで開けば、パフーのメール機能にアクセスは出来る。

 和さんに愚痴を聞いてもらおう! そう思った私は、すぐにパフーのメール画面をタップした。

 和さんからのメールはなかったが、見知らぬアドレスからのメールが一通届いていた。タイトルに『掲載のお知らせ』という文字が見え、心臓がバクバクし始める。そのメールを開くと、メールはラブリーの編集部からのもので、私が先月投稿していた恋愛小説「マリッジ! マリッジ? マリッジ!?」が今月の編集部おススメ小説として、サイトのピックアップページに掲載されるというものだった。

「嘘でしょ……?」

 夢を見ているかのようで、足元がふわふわした。編集部からメールをもらったことも初めてだし、ピックアップページに掲載されるのも、もちろん初めてのことだ。嬉しくて天にも昇る気持ちというのは、こういうときのことを言うのだろう。

 この喜びを誰に……? そう考えたときに浮かんだのは、やはり和さんしかいなかった。他の誰でもない、和さんに伝えたい。和さんなら、きっと私と一緒に喜んでくれる。私は弾んだ気持ちで、顔も知らない謎の人物、和さんにメールを送った。


『和さん

 唐突だけど、家出しちゃった。11年前に家出した母が急に帰ってきて、いつも自分がやってるかのように振る舞うのがどうしても許せなくて。大地だって、お兄ちゃんだって、父さんだって、あの人を受け入れてるみたい。私の居場所が無くなっちゃった。でもね、悪いことばかりではないの。さっきラブリー編集部から連絡がきて、編集部のおススメ小説ということで、今月のピックアップページに掲載されることが決まったそうです! 初めてのことだから、よく分かってないけど、嬉しくて泣きそう』


 困ってるのと嬉しいのとをごちゃまぜにしたメール。家出の方は、愚痴ってみたところで解決することではないのは分かっていた。でも和さんなら、私の気持ちを理解してくれるような気がした。今の私を受け入れてくれるのは、私の家族ではなく、リュウでもなく、和さんただ一人だ。それは絶対的な確信があった。和さんは知らん顔はしない。真剣に私のことを考えてくれる。それは大人だとは言えない、子供じみた甘えだと分かってはいたけれど。

 小説のことにしても、和さんなら、私を丸ごと受け入れてくれる気がした。お互いに「書いている」からこそ理解できる喜びだと思うからだ。ネットの世界は、見えないけれど微妙な人間関係が存在している。いくら仲良くしていても、どちらかがその世界で認められたら、そこには嫉妬が生まれ、それまでの仲の良さが嘘のように離れてしまうことがある。私は和さん以外に仲良くしている人がいないので、まだ経験はないけれど、和さんの周囲ではそういうことが起きているのを知っている。

 一般的に考えれば「ピックアップページに掲載が決まった」なんてメールしようものなら、相手からの嫉妬を受け、そこで関係は終わってしまうかもしれない。でも、私と和さんの間は、そんな脆いものではないという自信があった。

 和さんからすぐに返事が来るような気がして、メールを待つ間にそのままスマホで近くのビジネスホテルなどを検索してみた。家に帰れない以上、どこか泊まるところを探さなければと思ったからだ。日が落ちてしまう前にどうにかしないと。

 公園のベンチでひたすら検索をしてみるけれど、急な宿泊はなかなか受け入れてもらえなかった。

 ため息を吐きながら、もう一度パフーのメール画面をタップすると、メール着信が一件。ちょっとだけドキドキしながらそのメールを開くと、私が期待していた通り、メールは和さんからのものだった。


『キラ、おめでとーーーー! ラブリーの編集部に認められれば、あと一歩まで来てるってことだよ。お互い頑張らなきゃね! 私も書かなきゃ! それより、ビジネスホテルとか、どこか泊まるところ見つかった? 泊まるところ見つかったら、メール入れて。メールはずっとチェックしてるから』


 短いメールだったけれど、私のことを本気で喜んでくれていること、心配してくれていることが分かる。私の喜びを自分のことのように喜んでくれる和さんだから、私は好きなのだ。私はそのメールにすぐに返信を送った。


『和さんからいい刺激をもらってるから。ラブリー編集部のメール、保存しちゃう! 絶対何回も読み直しちゃう。ほんとに嬉しいよ~。泊まるところだけど……。それがどこも空いてなくて。友達のところも考えてはみたけど、結婚してたり、子供が小さかったりするから、頼みづらくて。一晩くらい野宿でも大丈夫だよ。もう私、三十路超えてるし!』


 和さんとメールをしているだけで、随分気持ちが晴れてきた。やっぱり和さんは私のエネルギーの源だ。一緒に喜んでくれる相手がいるというだけで、向かうところ敵なし! という気分になる。

 うん。大丈夫。最悪このベンチで寝るのだってアリだと思うし。真夜中や朝方は少し寒くなるかもしれないけれど、凍死をするような季節ではない。

 そう決意するも、和さんからのメールが届く気がして、再度メール画面を開く。そこにはやはり和さんからのメールが届いていた。


『バカ! 女の子が野宿なんてしちゃダメよ! 危ないでしょ! ちゃんと泊まるところを探して。それでだめだったら、私に連絡して。スマホのアドレスと番号、書いておくから』


 これまで、和さんの方から素性が分かるような情報を教えてくれたことはなかった。なのに今、和さんからのメールには、スマホのアドレスと携帯番号が記されている。つまり、それだけ和さんが私のことを心配してくれているということだ。私は、朝から抱えていた怒りも忘れて、無償に嬉しくなってしまった。和さんが教えてくれたアドレスと番号を急いでスマホに登録する。そして今度は、そのアドレスへスマホからメールを送った。


「和さん、キラです。メルアドと番号ありがとう。それに、心配してくれて本当に嬉しいよ。でも、ほんとに大丈夫。 三十路過ぎてる女なんて、誰も女だと見てくれないから。私は適当に過ごすから平気」


そのメールを送った直後、いきなり私の右腕がグッと掴まれた。突然のことに驚き、私は腕を振りほどこうと暴れた。薄暗くなりつつあったこともあり、誰なのかわからなかったのだ。

「やめて! 放して!」

 それでも私の腕はしっかと握られており、相手はびくともしない。一瞬泣きそうになったけれど、相手の声が聞こえ、その涙が引っ込んだ。

「光輝、慌てるな! 俺だよ! リュウだよ!」

 リュウ?

 ゆっくりと顔を上げると、確かにリュウだ。スーツ姿で、息を切らしている。

「大地が俺に電話してきたんだよ。光輝が帰って来ないって。おばさんが突然帰ってきたっていうのもさっき聞いた。お前、なんで俺に電話してこないんだよ? 心配するだろ! 電話だって何度もかけてるのに出ないし! 心配させんな!」

 大地が電話を? ああ、そういえば朝の時点では、家出になるなんて思ってもいなかったから……

「とにかく、家に帰りづらいんなら、俺んちに来いよ。今更、遠慮するような関係じゃないだろ?」

 リュウはそう言って、ベンチに置かれていた私の荷物を持つとさっさと公園を出て行く。私はリュウの背を見送りながら、私とリュウの関係についてぼんやり考えていた。私とリュウは遠慮するような関係ではない。本当にそう?

 疑問に思っていると、手に持ったスマホが震えた。和さんとのメール途中だったことを思い出し、急いで画面を見る。


「女の子に年齢なんて関係ないんだからね? とにかく危険だから、早く泊まれるところを探して。どうしてもだめだったら、本当に連絡をちょうだい」


 和さん……。私はスマホを抱きしめた。このまま和さんに会いに行きたいよ。でも、和さんは謎の人物でいたい人だ。今は究極な現状だから、私のために言ってくれているだけのこと。

 私は和さんに会いに行きたい衝動を押えこみ、再度メールを打った。


「和さん 本当にありがとう。家出は継続中だけど、彼氏に見つかっちゃった。とりあえず彼氏の家に泊めてもらうことにする。また連絡するね」


 文字を打ち終わったとき、公園の入り口の方でリュウが叫ぶ。

「光輝! 帰るぞ!」

 私は何か忘れ物をしたような気がして、ブランコの方を振り返った。でも、そこには何も落ちてはいない。私はスマホを握りしめ、リュウの背を追いかけた。

 手に持ったスマホの振動を期待していたけれど、その日和さんからメールの返信は来なかった。







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