第7話

 前日の夜遅くまで小説を書いていた私は、目覚まし時計を止めてまた寝入ってしまっていたらしい。ハッとして起き上がると、いつも起きている時間からもう30分以上が経過していた。朝の30分は大きい。

 私はベッドから飛び出すと、リビングへと駆け下りた。慌てふためき飛び込んだリビング。けれど、リビングではいつもと変わらない日常が始まっていた。

 敢えて違うところを探すとすれば、テーブルの上に広がっている朝食が、いつもの朝食とは別に、父が好きな和食も用意されていたことだ。父はお味噌汁を吸いながら私の方を見た。

 キッチンからは何かを炒めている音が聞こえ、コーヒーの香りが漂っている。

「あ、ミツキ、おはよう!」

 茫然と立ち尽くす私を見つけた大地が声をかけてきた。大地はジャムがのせられたトーストをパクついている。大地の前では、コンソメスープが湯気を立てていた。

「どう……なってるの?」

 訳が分からず呟くと、大地がキッチンの方を指さした。

「おばあちゃんが帰ってきたんだよ。すごいよね! ほら、ミツキも一緒に食べようよ」

 大地はジャムが気に入ったのか、満足そうに食べている。

「おばあちゃん……?」

 私は階段の下から動けないままキッチンの方へ視線を動かした。対面式のキッチンではあるものの、ガスレンジの方は見えない。でもすぐにキッチンでの音が止み、両手にお皿を持った女が歩いてきた。

「さぁ、スクランブルエッグとベーコンが焼けたわよ。召し上がれ~」

 大地と父の前にお皿を置くと、そこで初めて気づいたように私の方を見る。

「光輝、おはよう。顔洗ってらっしゃいよ? あなた、コンビニで働いてるんですってね? いつもこんなに寝坊してるの?」

 女は私が知っている人ではなかった。私の母は穏やかで父の後を三歩でも下がって歩いて行くような、大和撫子タイプの人だ。おまけに、朝からこんなにばっちりメイクをしているなんて、まずあり得ない。面影はある。でも、雰囲気も話し方も、私の母であった人とは一致するところがなかった。

「何? どうしたの? ぼんやりして?」

 女はいつもそうしているかのように振る舞い、冷蔵庫から牛乳を取り出してきた。

「大地、牛乳も飲まなきゃダメよ? 男の子は背が高い方がモテるんだから」

 そう言って、私がいつも座る大地の隣りの席に女が座った。父は私と女を見比べていたけれど何も言わない。女も当然その権利があるとばかりに朝食を食べ始めた。

 そこへ、洗面所の方から、ネクタイを結びながら兄が出てきた。私の一縷の望みであった兄だったけれど、兄もまたその女がいることに対して、何とも思っていないらしい。

「俺、早めに出るから。大地、遅くならないように家を出ろよ? 晩飯は家で食べる。じゃあ、行ってきます!」

 ソファに置いてあったカバンを持つと、兄はそれだけ言って出て行ってしまう。私は兄の背を追いかけて玄関へと走った。

「お兄ちゃん! どうなってるの? なんであの人がいるの? なんでみんな普通に接してるのよ? おかしいよ!」

 兄の後ろから叫ぶけれど、兄は急いでいることもあって振り向きもしない。そのまま玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけたところで一度だけこちらを向いた。

「ちょうどいいじゃないか。父さんも退職になるし。これでお前もリュウと結婚できる。じゃあ、行ってくる!」

「何ソレ!」

 カッと頭に血が昇った。

 あの女が出て行ったから。お兄ちゃんが大地を連れて帰って来たから。だから私は仕事を諦め、専業主婦になって……。父さんもお兄ちゃんも、私を何だと思ってるの? 家事をやってくれる代わりが出てきたから、私はもういらない。そういうこと?

 うなだれながらリビングへと続く廊下を戻る。

 リビングのドアを開くと、大地がランドセルを片手に走り出てきた。

「ミツキ、行ってくるね!」

 元気に大地が走って行く。その背に「いってらっしゃい」の言葉もかけられないまま、私は大地の背を見送った。そして重たくなった気持ちを抱え、父とあの女がいるリビングへと戻る。二人は向き合うようにして朝食を食べていた。

「ほら、冷めちゃう。早く食べたら?」

 女は気にすることもなく私に言うけれど、私は話したくもなかった。

「父さん、これはどういうこと? この人が出て行ってからも連絡を取り合ってたってこと? 父さんの退職が決まってから帰ってくるなんて、どうせ退職金狙いなんでしょ!」

 女の方を見ず、父の困った顔へ攻撃をかける。父は困り顔のまま、何かを伝えようと口を開きかけたけれど、女がそれを制した。

「お父さん、待って」

 お父さん? 11年も行方不明だったくせに、何もなかったかのように家族だと主張するの? 女の一挙一動に腹が立って仕方が無かった。女だけでなく、父さんもお兄ちゃんも、大地も、当たり前のように女を受け入れていることに腹が立つ。

「どうしてそんなに怒ってるのよ?」

 女は事もなげにそう聞いてきた。私が怒っているのが理解出来ないというように。

「どうして? あんたのせいで私は……就職も諦めたのよ! おまけに大地を育てることになって、どれだけ大変だったか……。あんたが勝手にいなくなるから、だから全部私が引き受けなきゃならなかったのよ!」

 私の目に涙が溢れてきた。自分でも、こんなに感情的になるなんて思ってもいなかった。いつもなら何気にやり過ごし、感情をたたき起こすなんてことはしない。

 女はふぅと一度ため息を吐いた。私のことを馬鹿にしているかのようなため息だった。

「確かに、私は家を出たわ。でもその後のことは、光輝、あなたが自分で決めたことじゃないの? 私があなたに家事をお願いねって言ったかしら? 大輝の離婚にしても、大地を育てるにしても、方法はいろいろあったはずよ。今は保育園だって、0歳から預かってくれるんでしょう?」

 私は知らず知らずのうちに自分の手を握りしめていた。その手が震えていることに気づく。

「赤ちゃんだった大地はママから引き離された上に、環境が変わって不安になってた。たった1歳の大地を見ず知らずの保育士に預けて仕事に行けると思う? わぁわぁ泣きわめく大地を置いて、知らん顔で仕事になんて行けるはずないじゃない!」

 お兄ちゃんに連れられてこの家に来た大地は、まだ1歳でビクビクしていた。知らない大人の中で不安だったのだろう。夜泣きもひどかった。お兄ちゃんはそれまでの生活でも、大地の面倒を全てママに任せていたらしく、夜泣きをする大地をどう扱えばいいのか全く分かっていなかった。お兄ちゃんは、毎日私に泣きついてきた。そして結局、自分の方が先に寝てしまうのだ。

 私は2時間おきにぐずる大地を抱え、リビングと二階の階段を登ったり下りたり、窓から見える月を眺めたり、そうしてようやく安心して眠る大地にホッとしたものだった。あの頃の大地の不安を思うと、保育園に預けるのが躊躇われたのは事実だ。

「だから! 光輝、あなたが大地を『可哀相』って思ったからでしょう? 自分が面倒見なきゃって思ったのは、あなたの判断でしょう?」

 私はグッと言葉を詰まらせた。この人が言っていることに対して、半分くらいは認めざるを得ない部分があると思ったのだ。でも、この人の勝手な振る舞いは許せるものではないし、私に意見出来るような立場ではないはずだ。この人に言い負かされるなんて嫌だ。何か言い返してやりたい。そう思うのに、言葉が出てこなかった。

 私はリビングを横切ると、そのまま二階へと走った。そして自分が持っている中で一番大きなバッグに、着替えや化粧品を詰め込んだ。スマホの充電器やパソコンも忘れずに。そしてパジャマをベッドに脱ぎ捨てると、バッグを抱え部屋を出た。

 リビングでは、父さんがハラハラした顔で私の方を見ていたけれど、あの女は澄ました顔でご飯を食べていた。私が荷物を抱えているのを見て、父さんが立ち上がった。

「光輝?」

「私、この人とは暮らせない。この人が帰ってくるのなら、私が出て行く」

 父さんは女と私を見比べていたけれど、決断はつかないらしかった。女は私の方を見ることもない。

 私はそのままテーブルを通り過ぎ、玄関へ向かった。アテなんてないけれど、あの人と同じ空間にいるのは絶対に嫌だ。とりあえずコンビニへ行って、その後のことはその時に考えよう。

 私は自分でも感情的になっていることを感じつつ、行き先の決まらない家出をすると決めたのだった。

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