第6話

 コンビニから帰宅すると、いつもは20時にしか帰宅しない父の大作が、既にリビングのソファに埋もれているのが見えた。今日は大地はサッカー教室なので、まだ帰っていない。

 具合でも悪くなったのだろうか?

 その疑問を投げかけようとしていると、父が私がいることに気づき、私の方を向いた。なんだか疲れている顔だった。

「光輝、父さん、来月で定年なんだ。誕生日が来る5月20日付けで退職になる。その前の1か月間はのんびり出勤でいいらしくてな。今日は午後から有休を取ってみた」

 退職……?

 思いもしていなかった事実に驚く。私自身がもう31歳という年齢になっているのだから、父だって年を重ねているはずなのに、もう還暦という年齢になったのだと驚く。でも、それはなるだけ顔に出さないように心がけ、私は少し微笑んだ。

「そっか。これまで頑張ってきたんだから、退職後は好きに過ごせばいいんじゃない?」

 私が言うと、父は複雑そうな顔になった。

「好きに……ねぇ。これまで仕事しかしてこなかったからなぁ。どう過ごせばいいのか全く分からん」

「父さんがやりたいことをやればいいんだよ。例えば、盆栽とか、釣りとか……さ」

 思いつく趣味を言ってみたけれど、これまでの父にマッチするような趣味だとは思えなかった。父に合いそうな趣味を考えて見たけれど、全く浮かばない。本当に仕事しかしてこなかった人なのだと思ったけれど、落ち込ませるわけにもいかず、私はなるだけ弾んだ声を出した。

「ボランティアとかもいいんじゃない? 父さん、人の役に立つことがしたいって、少し前に言ってなかった?」

「ボランティアか……」

 11年前に母の聡子が失踪してから、父さんはずっと一人だった。兄の大輝は、母さんは若い男と駆け落ちでもしたのだろうと言っていた。だから、父さんにだって恋愛をする権利はある。そう思って、母を探し出して離婚し、別の人と再婚してみたら? と勧めたことがある。でも父さんは、頑なにそれを拒絶した。

 出て行った母のことが忘れられないのか、何か事情があるのかは分からなかったけれど、とにかく父さんは、今でも母さんのことを待ち続けているらしかった。あんな勝手な母をなぜそこまで一途に思い続けられるのか、私には理解できない。

 リビングを横切りキッチンへ入ると、私は買ってきたばかりの食材を冷蔵庫へと入れ始めた。

 父さんは見るでもないテレビを目の前にして、ぼんやりとソファに座っている。その姿を見て、年を取ったなぁと思った。

「なぁ光輝、俺も定年を迎えるし、お前ももう自由になっていいんだぞ?」

 突然放たれた意味不明な言葉に、私は冷蔵庫の扉を開けたままで振り返った。

「これまで、俺や大輝のためにいろいろなことを犠牲にしてもらったが、そろそろお前の幸せを考えるべきだろう。もっと早く解放してやるべきだったと反省しているんだ」

「犠牲なんて……」

 どう言えばいいのか分からないまま、私は黙り込んだ。

「そろそろリュウと籍を入れたらどうだ? これだけ長く付き合ってるんだ。リュウとそういう話だって出ているだろう? リュウはいい子だ。リュウになら、父さんも安心して嫁に出せる。お前だって幸せになる権利はあるんだから」

 結婚=幸せという図式。自分が家にいるようになるから、私はもう不要ってこと? 卑屈な考えだと思いはしたけれど、私は急に腹が立ってきた。

 なぜみんな、結婚したら幸せだと言い切れるのだろう? 結婚が幸せではないことくらい、父さんだってよく知っているはずなのに。

「付き合ったら結婚しなきゃいけないの? 結婚がゴールなの?」

 急にキレた私に、父さんはたじろいだ。

「絶対に結婚しろと言っているわけじゃない。だけどリュウだって望んでいるだろうし、中島さんちだってそのつもりでいるんじゃないのか? それに、お前はリュウのことが好きだから、付き合っているんだろう?」

 今度は私が言葉を詰まらせる番だった。

 リュウの母であるおばさんの顔が浮かぶ。おばさんは、顔を合わせるたびに私に訴えてくるのだ。

「ねぇ光輝ちゃん、そろそろうちに来てくれる覚悟は出来た? リュウのお尻に火を点けて、さっさとお嫁に来ちゃってよ」

 おばさんは勘違いをしている。私とリュウが結婚に至らない原因は、リュウが決断できないせいだと思い込んでいる。でもそれは違う。リュウは私が頷きさえすれば、すぐに決断するだろう。リュウが踏み出せないのは、私の気持ちを知っているから……。

「とにかく、結婚については私とリュウの問題なんだから、口出ししないで!」

 次の言葉が出てくる前に私が話を終わらせたので、父は黙り込んだ。

「ただいまー」

 元気な声が聞こえ、廊下を走ってくる音がした。大地がサッカー教室から帰ってきたのだ。私は慌てて風呂場からタオルを引っ張ってリビングに戻ったけれど、既に遅し。泥んこの大地の足によって、リビングにはいくつもの足跡がついていた。

「大地! サッカーのあとはすぐにお風呂って何回言ったらわかるの!」

 私はいつものことながら、大地が靴下を脱ぐのを急かし、床にくっついた足跡を消すべく、モップを取り出した。

「急いでたんだよ!」

 大地は靴下を脱ぐと、その場でユニフォームまで脱ぎだした。

「ちょっと! 脱ぐのはお風呂場で脱ぎなさい! また泥が落ちるじゃないの!」

 非難する私の声なんて聞こえていないかのように、大地はその場で興奮気味に声を上げた。

「今日の紅白戦でさ、俺、3点もシュートを決めたんだ! キーパーは慶(けい)くんだったんだけど、ちょっとの隙を抜けてバッチリ入ってさ。俺、将来サッカー選手としてやっていけると思うな」

 シュートを決めたのがよほど嬉しかったのか、大地はかなり興奮していた。将来どんな職業に就くかなんてまだ考えてないと言っていたくせに、今日はちゃっかりサッカー選手になるつもりのようだ。

「もう! 分かったから、お風呂に行きなさい! これ以上、ここに泥を落とさないで」

 私が声を荒げたので、大地は「ちぇっ」と舌を鳴らして、お風呂場の方へ向かおうとした。けれど、リビングを出る前に、父さんが大地へ声をかけた。

「大地、ちょうどいい機会だ。お前にも聞いておきたいことがある」

 真面目な顔で手招きする父さんに、大地はおずおずとまた元の位置に戻ってきた。パンツ一丁の間抜けな恰好で、肩には脱いだユニフォームを引っかけている。

「何?」

「お前も、もう来年は中学生になるんだ。自分の事は自分で出来るな?」

 父さんの言い方に、私は嫌な予感がした。

「もし光輝が嫁に行ったとしても、この家で、おじいちゃんやパパと協力してやっていける。そうだろう?」

 大地は一瞬呆気にとられた顔をしていたけれど、瞬時に私の方を振り向いた。

「ミツキ、リュウくんと結婚するの?」

 純粋な瞳に射抜かれそうな錯覚。私は慌てた。

「違うのよ。おじいちゃんもパパも、何故か私を早く結婚させたがってるだけ。まだ結婚なんて話しは出てないし、当分するつもりもないから心配しないで」

 そう言ってみるも、父さんは大地を味方につけようと考えているらしく、話しをまた繰り返した。

「光輝がいなくても、男3人でやっていけるよな?」

 念を押す父さん。大地は一度俯いたけれど、すぐに顔を上げた。

「リュウくんと結婚するのなら、ただ隣りの家に住むだけじゃん。会えなくなるわけじゃないし、これまでの生活とそんなに変わらないよ。俺のことが心配で光輝が悩んでいるのなら、俺のことは気にしなくて大丈夫だよ。それに、俺がパパとおじいちゃんの面倒くらい見るから!」

「そうだよな! 大地、そうだよ!」

 父さんは嬉しそうな顔をしていたけれど、大地はそれだけ言うと「お風呂に入ってくるね!」と駆け出して行った。

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