第3話

 手に持ったスーパーの袋がガサガサと音を立てる。両手に袋を下げた私は、リビングのテーブルへ向かった。私の背後から、玄関のドアが閉まる音とやっぱりガサガサという音が聞こえる。

 コンビニの帰りに毎日スーパーに寄ってはいるものの、四人分の食材は結構な量だ。今日は牛乳が安かったので、ついつい三本も買ってしまったって後悔した。

 今年12歳になる大地は、私とそう変わらない背丈に成長している。子供だと思っていたけれど、やっぱり男の子で、買い物袋も重い方を持ってくれていた。

「あー、重かったぁ」

 袋をテーブルに投げ出す。

 リビングのテーブルには、朝食べきれなかったトーストがお皿に乗ったまま放置されていた。

「ミツキ、また食べかけてる! 行儀悪っ!」

 大地も牛乳が入っている袋を両手で持ち上げ、テーブルへ置いた。そこに私の食べかけを見つけ、小舅のように嫌味を言ってくる。

「仕方ないでしょ? 朝はほんと忙しいんだから!」

 大地の言葉にカチン! ときて言い返しても、大地は気にすることもない。

「そう言いながら、どうせネットしてて時間が経ってたんでしょ? パパが言ってたよ? ミツキはヲタクだって。いつまでも夢見ててしょうがないって」

 お兄ちゃんってばそんなことを? 私がこういう生活をしてるのは誰のせいだと?

 私は口をつぐんで、冷蔵庫へ食材を仕舞い始めた。ここで口を開いたら、大地を責めてしまいそうだったからだ。けれど、私が口をつぐんだために、大地は自分の失態を悟ったらしい。いつもは帰宅後すぐにゲームをしたがるくせに、今日はいそいそとランドセルを部屋に運びこんだ。そしてすぐにノートや教科書、プリントを持って下に降りて来た。帰ってすぐに宿題に取り掛かるなんて珍しい!

「俺、宿題終わったら風呂掃除してくるね。おじいちゃんが帰ったらすぐにお風呂に入れるようにさ」

 宿題も早めに済ませて、お手伝いまで? 

 こういう風に気を使っているのを感じると、私ってまだまだだなと思う。私が大地の本当の母親であれば、大地はこんなに気を使うこともないだろうし、私がもっと母親らしく接することが出来ていれば、子供らしく素直に育ったかもしれないのに。

 大地と同じレベルでしかない自分が恨めしい。もっと大人にならなくちゃ。そう思いながら、大人っていくつになれば大人なんだろう? と今更なことが浮かんだ。

 今晩、和さんにメールで送ってみようかな?

 ここのところ、何か疑問に思ったり不安になったりすると、私はすぐに和さんにメールを送るようになっていた。和さんは私に遠慮などすることもなく、思ったこと、言いたいことをアドバイスとしてメールで送り返してくれる。もちろん、返事の中には、私的に嫌なことが書かれていることもあるのだけれど、そういう場合でも、的を得ていることが多かった。

 つまり、私が触れられたくない部分、自然に見ないように蓋をしてしまう部分を、和さんは見事に見つけてしまうのだ。それは見たくないけれど見なければならない場所なので、私はいつも和さんの指摘を受けて反省する日々を送っていた。こんなに素直に自分が見せられるのも、反省が出来るのも、お互いに会ったことがないからかもしれない。

 ただ、和さんという人物は、メールを交換するようになって3年が経った今でも、謎に包まれた存在だった。私は本名や住んでいる場所を明確にすることはないものの、自分のリアルについてあまり隠すこともなく晒していた。でも、和さんはそういう部分を全て見えないように隠すのが上手かった。和さんがどの辺りに住んでいるのかも、家族がいるのかも、一人暮らしなのかも、私は全く知らない。知っているのは、和さんの職業がフリーライターであることと、和さんが運営しているブログのことだけだ。

 知りたいという気持ちがないわけではなかったけれど、和さんの「先入観を持って欲しくない」という意見を尊重した結果、それ以上踏み込まない方がいい。そう私は判断した。しつこく聞いたり、和さんを知ろうと詮索することで、和さんに嫌われて、和さんを失うなんてことになりたくなかったのだ。それくらい、私にとっての和さんは重要なポジションを占めていた。

「ねぇミツキ、今月のグランプリの結果はもう出たの?」

 リビングのテーブルに肘をつき、全くヤル気のなさそうな大地がキッチンにいる私に話しかけてきた。

「あんたには関係ないでしょ? 宿題しなさい」

 お米を研ぎながら、あぁ、また大人げないことを言ってる。そう思ったけれど、ネット世界のことは、出来ればリアルな人には触れられたくない。

「小説を書くのって、そんなにおもしろい?」

 大地の声に顔を上げると、大地は興味津々という顔で私を見ていた。

「俺、作文だけでも大変だって思うのに、ミツキはかなり長い小説を書くんでしょ? 辛くない? パソコンに文字を打つのだって時間かかりそうだし」

 私は思わず笑ってしまった。ワナビと呼ばれる小説家志望の私たちにとって、「書く」ことは生きる意味でもあり、目標だと思う。もちろん、私とは違う理由で書いている人もいると思うけれど、私は「書く」ことでストレスを発散し、「書く」ことで自分をアピールしているつもりだった。何より今の私にとって、「書く」ことは唯一の楽しみでもあるのだ。

「大地にはまだ分からないかもしれないけど、小説を書くの楽しいよ? 自分の世界観を持てるし。そういう世界に浸ってるから、あんたのパパは私のことをヲタクって言うんだろうけどね」

 私はお米研ぎを再開した。

「いいじゃん。ヲタクで。俺だって、ゲームヲタクだよ? 誰だって何かのヲタクの要素は持ってると思うしさ」

「へぇ……」

 まさか大地からこういう言葉が出てくるとは思わなかった。イマドキの小学生や中学生は「ヲタク」をバカにするものだと思っていたし。

「ミツキは小説家になるの?」

「そうだね。そうなれたらいいと思って努力はしてるつもりだよ」

「そっか。あのさ、俺、もう来年は中学生だし、自分のことは自分でするようにするからさ。ミツキは自分がやりたいことを優先していいよ?」

 大地はそう言って宿題を始めた。これまでこんな話しをしたこともなく、どうして急に「自立宣言」が出たのか、私には理解出来なかった。でも、黙って宿題をしている大地が急に大人っぽく見えて、少し寂しくなってしまう。こういうの、親離れっていうのかな?

「大地は将来どういう仕事がしたいとかってないの?」

 宿題中の大地に話しかけるのはよくないと思いつつも、聞きたくなって声をかけてみた。大地が顔を上げる。

「まだ何にっていう希望はないんだけど、誰にも迷惑かけないで、一人で生活できるようになるのが目標かな? 出来れば、パパとミツキくらいは養ってあげられるようになりたい」

 あまりに可愛らしすぎる発言に、私は動揺してしまう。

「バ、バカね! あんたがそんなこと気にしなくていいんだって! それに、そこはパパと私じゃなくて、パパとおじいちゃんでしょ?」

 私は大地を10年育ててきた。1歳の頃からずっと側で育ててきたのだ。だから、子供を産んだことはないけれど、私にとって大地は息子も同然だった。その大地にこんなことを言われたら、涙腺が緩みそうになる。

「ぼくが大人になる頃までおじいちゃんが生きてれば面倒見なきゃならないだろうけど、それは微妙じゃん?」

 やけに現実的な話しになり、私は思わず吹き出し、緩みそうだった涙線から涙がひっこんだ。

「そういうのははっきり言わないの! おじいちゃんの前で言ったら、おじいちゃん悲しむよ?」

「分かってるよ。だから、ミツキにしか言ってないじゃん」

 大人のような発言をするかと思えば、どこかはまだ子供。12歳って、そういう年齢なのだろう。

「ねぇ、おばあちゃんに会うことってある?」

 突然話が変わり、私は動揺を悟られまいと俯いて、お米をジャカジャカかき混ぜた。大地の祖母、私の母の聡子は、11年前に家出をしてそれっきりなのだ。

「さぁね。あの人は出て行ったきり連絡もしてこないから」

「会いたいって思うことはない?」

「ない」

 即答すると、大地が黙り込んだ。

 あ……宿題を再開した大地の顔がこわばっていることに気づく。

「大地は会いたいの? ママに」

 大地にとって、この家庭環境は特殊だと思う。一般的には、両親が離婚した場合、子供は母親側に引き取られることが多い。でも、大地の母親は、大地を捨てて仕事を選んだ。元々キャリアウーマンとして活躍していた人らしいから、仕事への未練を捨てきれなかったのだろう。

「会いたいわけじゃない。ただ、会って、どうして俺を捨てたのか聞いてみたいとは思ってる」

 私の方を見ず、ひたすらノートに鉛筆を走らせながら、大地が言った。

『どうして私を捨てたのか聞いてみたい』

 その言葉は私の中で共鳴する。親に捨てられた子供なら、みんなが抱えている思いだと思う。

「そうだね。それは私も聞いてみたいよ。大体、あんたのママと違って、あんたのおばあちゃんは理由も言わずに出て行って、そのままだからね。おじいちゃんと離婚したわけじゃないし、何がどうなってるのかぜひ聞いてみたいわ」

 ハタチになった春。私は短大を卒業して、地元の小さな会社に就職が決まり、事務として仕事を始める予定だった。それまで専業主婦だった私の母は、私の就職が決まったことをそれは喜んでくれていた。なのに、就職が決まって数日後、母は私たちに何も告げることなく消息を絶ってしまったのだ。父は何も言わなかった。理由も、行先も、何も分からないまま、ただ母がいなくなったという事実だけが残された。

 それだけなら、私の生活は一変しなかったかもしれない。父と私の二人だけの暮らしだったなら、あのまま就職して仕事を続けることも出来ただろう。でもそこに、兄の大輝が大地を連れて出戻ってきた。

「ミツキ、育児を手伝ってくれよ? 俺一人で仕事をしながら大地を育てるなんて、出来っこない。生活費やもろもろの経費は俺が出す。だから……」

 一度にやってきた「事情」に、私は就職を諦めるしかなかった。不器用な私が、仕事をしながら自分の子供でもない大地を育て、家事をこなすなんて到底自信がなかった。

 大地が保育園に入るまでの2年間。私は仕事をせず専業主婦として大地の面倒を見た。経験もなく、何がなんだか分からない育児に、ノイローゼになりかけたこともあったけれど。

 そうして大地が保育園に入った頃合いを見計らって、私は近くのコンビニでバイトを始めた。兄の大輝はそれなりのお小遣いを払ってくれてはいたけれど、それに甘えてばかりもいられないと思ったからだった。

 あれから8年。何も分からなかった1歳の大地が12歳になって、こんな話しまで出来るようになった。子供の成長は早い。

「ミツキはおばあちゃんのこと、恨んでる?」

 恨む? そんな言葉では片づけられないくらいだ。恨むというより、憎んでいる。その表現の方が絶対に正しい。

「大地は? ママのこと恨んでる?」

 私の感情は悟られないように気を付けながら、大地に聞いてみる。大地はやっぱり私の方をみないまま一言「分かんない」と答えた。

 そうだよね。分からないよね。

 私たちは無言になった。お互いの頭の中で、いろいろなことが駆け巡っているのだと思う。私たちはその思いを言葉にすることなく、お互いに無言で自分の作業を進めた。

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