第5話最終話『SUN』

「冬目先輩、珍しいですね。今回はアナログで描いているんですか?」

 キャンバスに向かうわたしを見て美術部の後輩であるユウちゃんは興味深げに声をかける。

 イーゼルに架けられたわたしの絵は今日もいつもと同じモチーフを描いている。


「うん。なんか気が向いてさ」

「せっかく油彩なんですから今回くらい出展しましょうよー」

「うーん」

 ユウちゃんの提案が悪いわけではないのだけど、ついつい首をひねってしまうわたしがいる。


「こだわりでもあるんです?」

 首をかしげて無邪気に問いかけるユウちゃんの振る舞いは、女のわたしから見ると容姿次第ではグーパンチしたくなるようなタイプのかわいさだ。

 質実剛健を地で行く簡素な部室はキャンバスみたいな地味なデザインで、彼女はそんな背景に浮き立ちすぎるくらいよく映える。

「なんていうか、そういう目的じゃないんだ。そもそも上手くなりたいとか認められたいとかもないからなあ」

「そーゆうもんですか?」

「そーゆうもんだよ。わたしの場合」


 あまり考えずにキャンバスへ色を塗りかさねていく。乾性油と油彩絵の具を混ぜたときの独特な匂いがわたしのパレットからしていて、悪臭というわけではないのだけどなかなか慣れない。


 慣れない匂いといえば、お姉ちゃんとキスしたときみたいな薬品の匂い。


 大学に入るまで気付かなかったのだけれど、わたしは香水すら含めて強い匂いのするものが苦手らしい。

 でも、ほのかにひとから漂う匂いは好きだ。

 体温と同じくらいには好きかもしれない。それは汗だとか老廃物の匂いだとか生々しいことを言われると引いてしまうこともあるけれど、お姉ちゃんと丘に登った日の背中の方から伝ってくる「ひとの匂い」はわたしにとって忘れられないもののひとつだ。


 そうそう。

 忘れられないものはまだまだ沢山ある。


「じゃあ、どういう目的で先輩はこれを描いているんですか? いつも同じ風景ばかりですよね。セザンヌみたい」


 ユウちゃんが興味を持ってしまったこの絵だ。


「あー」

「サント……サン……三都主アレサンドロさん?」

 敬称かよ。せめて選手って言ってあげようよ。


「サント・ヴィクトワール山」

「ですですっ」

 わたしが言えた義理ではないけど、どうして美術部に来たんだユウちゃん。

 以前その質問をしたときは「先輩がいるからですよー」と冗談を言っていたけれど、考えてみれば彼女が絵を描いてるところを一度も見たことがない。

 不純な理由というやつかも知れないけど、あまり深くは考えないようにしたい。もっともわたしだって純粋な動機で絵を描いているとは言えないかも知れない。


 この絵は、お姉ちゃんが丘の上で描いた「遠い未来の景色」と同じ構図で描かれている。


 お姉ちゃんは当時素人だしなにひとつ凝ったことはしていない。

 PCの描画ソフトで描かれてはいたものの、意識せず一点透視図法になっている他には特別な技術はない。


 給水塔が軌道エレベーターとなり、幾何学の星港から色とりどりの宇宙船が飛び立っている以外は今となっては懐かしさもいくらか含む、わたしの街の景色だ。


「やっぱり、こういう連作描いちゃうようなところって大好きな場所なんですか」

「まあ、そうかな」


「好きだから、描くみたいな?」

「うーん、ていうかまあ、記録だよ。定点観測記録写真みたいな」

「あー。東京の数十年をずっと同じ場所から撮りました的なやつありましたね。でもそれだったら写真でいいんじゃないですか?」

「そこはまあ、情緒ですよ。情緒」


 それを描いているのは、実はまだお姉ちゃんが存命中にこっそり覗いてしまったPCのデータが元となる。お姉ちゃんと丘に登った日、お姉ちゃんがPCを持ってきてたことに疑問をいだいたわたしは、デスクトップにあったふたつのファイルに興味を持ってしまいそれを開いたのだ。

 そのひとつは画像データ。まだ下塗り程度しかされてない「遠い未来の景色」だった。


「ところでー……ひとつ気になったんですけどー」

「なに、ユウちゃん」

「この絵の端にいる女のひとって先輩ですか?」


「あー。えーっと」

 言葉に詰まってしまう。


「後ろ姿だけなんですけど、なんだか雰囲気が似てるなあと思って」


「そう?」

「なんだろう、目のひたむきさみたいなものが」

「後ろ姿だよ?」

「そういうのって後ろ姿のほうがよく分かるんですよ」


「へえ」


 目聡いというと嫌な言い方だけど、さっきから観察力を見せている彼女らしい感覚だな、とわたしは思った。


 さて、もうひとつはテキストデータだ。お姉ちゃんからわたしに向けて書いた実質的な遺書。

『このデスクトップに、白紙の画像データを送ります。わたしの名画を糧にして、あなたの未来をそこに描き足して。それで、全部終わったらわたしと答え合わせしよう。なぎさ』


 簡素な内容過ぎて、丘に登った日から数カ月後、実際にそれがわたし以外にも公開される頃にはその内容を暗誦できるようになってしまっていた。


「ところで」

 ちょっと記憶を振り返るように目を閉じていたところ、開いたらすぐそこにユウちゃんの顔が迫っていてびっくりしてしまった。


「うーん、ないしょ」

「がーん。どうしてですかー」

「その質問に答えちゃうと、答え合わせのとき怒られちゃいそうだから」


 まあ、きっと答え合わせはまだやって来ないだろう。自分が望む限りはお姉ちゃんが喜ぶように長生きするつもりだ。

「答え合わせってなんです―?」

「それも、ないしょ」


 口にチャック。しようと思ったけれど、それは自分の口だけにとどめておいた。

「……先輩はずるいですー」

「しってる」


 だってさ、


 ――だってそこは、お姉ちゃんに似たんだもん。

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mizutohi cataclysm 白日朝日 @halciondaze

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