第3話『わがまま』

「暑い……」

「がんばってわたしに奉仕するといい、我が肉体よ」

 わたしに背負われたお姉ちゃんが無責任に元気な声を飛ばす。


「がんばるって言ったって」


 道は悪路だ。というより山道。

 舗装していない土の道は傾斜のある場所だと崩れたりするし、湿ったところに足を運ぶと泥濘にはまったりする。

 そのため、足元には気を付けたいところだけれど、頭よりすこし上くらいの場所には木の枝が張り出していて、お姉ちゃんを背負ってる関係上その両者への注意が余計に必要であり、要するにわたしは注意散漫な状態だ。


「ふふん。わがまま聞くって言ったのは灯火なんだからね」

 お姉ちゃんはえらそうだ。視界の中にいなくてもふんぞり返ってるような表情が目に浮かぶ。


「はいはい。分かってますよう」

 お姉ちゃんのわがままを聞くといったのはわたしだ。

 もっともお姉ちゃんのわがままがわたしにこんなハードワークを強いるとは思っていなかったのだけれど。


 しっとりとした山道は音を吸い取る。

 枝や葉っぱの転がる道を踏みしめてもその音は地面が緩衝材となり耳を突かない。


「ほらほら、足を止めたらそこで試合終了だよ」

「試合じゃないもん……」

 ツッコミを入れようとしてもキレが出ないし声もうまく出せない。


「キレ足りない」

 おっしゃる通りです。


「息切れで我慢して欲しいところ」

 精一杯のギャグもお姉ちゃんの笑顔を呼べたかは分からなかった。

 しかし、お姉ちゃんを背負っているだけならまだしも左手にはお姉ちゃんの荷物の入った鞄を手に持っている。これがまた重くって、このままずっと歩いていたら骨格がおかしくなるんじゃないかと思うほどだ。


「ねえ、お姉ちゃん。なにが入ってるのこれ?」

「PCとね、飲み物とデジカメとか」


「PC? 使っていいの?」

 たしかお姉ちゃんはペースメーカーを埋め込んでいるはずだったのだけど。


「いいよ。主治医さんの許可ももらってるし。ホスピスじゃほんとにネット以外することないよ」

 インターネットをしても問題ないなんて、それは知らなかった。普段はペースメーカーのひとのため携帯を切らなきゃいけないとされる場所もあるのに。


「読書しようよ」

「青空文庫というものがあってだな」

 それは知ってる。なんか著作権の切れた本が読めるサイトとかそういうイメージ。


「まあいいや、早く目的地行こう。ここ真っ直ぐでいいの?」

「うん。そのまま行ったらもう近くだよ」

 山道を目的地へと伸びていく二本の点と線はひとの歩行による轍。

「こうやって山道を歩き、ひとは未来を切り開いたのだよ」

「お姉ちゃんうるさい」


 そろそろさすがに本音が出た。


 さて、お姉ちゃんが知り合いから訊いたおすすめの場所にたどり着いた。

 辺りをほとんど同じ高さの建物や遮蔽物に囲まれていない、展望の開かれた場所だ。南のほうを望むとお姉ちゃんの通う病院が遠くに見えるけれど、それ以外は見下ろす限りが下にあるような気持ちのいい光景。


「ここ、グライダーをする人も結構多いんだって」

「………………」

「疲れた?」

「……そら、もう」


 風の気持ちよさを味わいながら左手と背中の荷物を下ろすと、わたしは息を整えるためにその辺りの芝生に座り込んだ。

 座ってみて空を見上げたらわかる。


「『ここにさ、世界と自分しかいない気分になる』」

 お姉ちゃんは芝居がかった言葉を述べた。

「何の作品の引用?」

「おっちゃんが言ってた」

 誰だよ。

「ホスピスで知り合ったおっちゃんがそういう感想を言ってた」


「へえ。でも、確かにわかるような気がする」

「気分だけ?」

「ここにはお姉ちゃんもいるからね」

「それは言えてるね。じゃあ、ここには世界と灯火とわたししかいないんだよ」

「うん。それでいい。むしろ最高」


 もう言葉も要らないんじゃないかっていうくらい心地が良い。目を閉じても閉じなくても、吹きさらしの場所に伝わる風や、風音と葉擦れの音以外なにも届かない冴えた静けさが五感を優しく撫でていく。


「じゃあさ、わたし今からやりたいことがあるの。少しだけでいいから、席を外してもらえるとうれしい。すごく」


 今日見た中で一番真剣なお姉ちゃんの表情。

「いいよ。ずっとここで目をつぶってる。終わったら呼んでよ」

「絶対に見ない?」

「見たらどうなるの」

「自分の羽で織物をつくって帰るんですわ」

「そんな鳥類みたいな恩返しされても困るよ」

「えへへ」


「……見ないよ」

 本心だった。目をつぶるだけで時間を潰せる場所というのはわたしにとってここがはじめてだった。十数年生きてきてほんとうにはじめて。

「じゃあ、お願いね」

 それから、なんど秒針がめぐったかは意識していない。


「もういいよ」

 お姉ちゃんの声に目蓋を開くとさっきよりすこしだけ傾いたひとつの星が目に入ってきた。

「まぶしい」

「上を見たらそうなるよ」

 お姉ちゃんはちょうど日陰になるよう、わたしと太陽の間に入って手を差し出した。

 わたしはその手を取る。

「あったかい」

「あったかいのは太陽だけかしら?」

「そもそも太陽は勘定に入れてないよ」

 わたしは笑みかける。

 それを真正面から受け止めたお姉ちゃんは、さっきみたいな真剣な表情でこう言った。


「じゃあ、これが最後の手助け。もうわたしを頼っちゃだめだよ」

「……うん」

 答えを聞いたお姉ちゃんは満足そうにわたしの手を引き、わたしはお姉ちゃんの手で立ち上がった。


「ねえ、お姉ちゃん」

「なに、灯火」


「お姉ちゃんはわたしにとってあらゆる未来だったの。ちょっと先に生まれて、わたしにいろんなことを教えてくれて、いつも憧れで……」

 立ち上がったわたしはぽろぽろと零すはずじゃなかった言葉を吐き出した。


「そう」

「でもね、ほんとうは未来なんて関係ないんじゃないかって思ったの」

「どうして?」

「だって、触れるとあったかいでしょ」

「うん」

「そういうのがすべてかなって、思えた」


「考えるな、感じろ。みたいな?」

「ブルース・リー?」

「うん」

「仮にも女の子同士なんだから、もっとかわいい喩えを出してよもう」


「はい、そろそろ黙る。今日の灯火はわたしの身体なんだからね」

 そういう切り札はいつも良いところまで出さないんだから、ずるいなあ。

 お姉ちゃんと荷物の重みをふたたび上半身に感じると、わたしは山道を抜ける道を晴れがましい気持ちで歩いて行くのだった。

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