第2話『ずるい』

「おかえりなさい。病院にタクシーは呼ばなくて大丈夫だった?」

 帰宅したわたしたちに気づいたお母さんが洗面所からやってきて声をかけた。


「だいじょうぶ。ゆっくり歩いてきたし、灯火もいたから」

 軽いVサインをつくって母に応えるお姉ちゃんは、歯茎も見えそうなくらいの笑顔を形づくる。

「そう。部屋におふとんは敷いておいたから」

「助かります〜」

 ぱたぱたと去る足音はリビングの方へと続いてゆく。どうやら、まだすこし家事が残っているのだろう。

 

 ホスピスから一時帰宅の許可をもらって家に帰る。

 大事ではないにせよ準備があるのは当然のことかも知れない。


「しかし、お姉ちゃんはずるいなあ」

「だからしってるよう」

 笑顔でわたしの非難を受け流す。その上、お姉ちゃんは頭までなでてきた。

 お姉ちゃんはこういうことができる人間だ。わたしだと同じ言葉を言ってもそうすっぱりと安心してもらえない。ひとを信頼させるのがわたしなんかよりよっぽどうまい。


 わたしとお姉ちゃんは同じ部屋で過ごしている。

 ふたりで荷物を部屋に下ろすと、なぜだかすぐに部屋の真ん中にあるお布団が目に入った。


 おひさまの匂いと混じって消毒液の匂いが少しだけした。

 心臓の病だからほんとうは消毒なんてそれほど関係ないのだろうけれど、ひとに見えない場所で万全を尽くそうとするあたり、お姉ちゃんとお母さんはよく似ていた。


「ねえ」

 お姉ちゃんは悪そうな笑顔でこっちに目配せをする。何度だって言うけれど、ずるい。

「ばさー」

 自分で効果音をつけながらお姉ちゃんはふかふかの布団へと飛び込んでいった。

 わたしも横になったお姉ちゃんの隣に寝転がって、目を合わせる。


「ほんとうにだいじょうぶ?」

「だいじょうぶだよ……ほら」

 そういうとお姉ちゃんはわたしの手をお姉ちゃんの胸に、お姉ちゃんの手をわたしの胸に当てる。

 とくん、とくん。とくん、とくん。

「ね。ふたりとも動いてる」

 薄手のサマーセーター越しに伝わる鼓動は、確かな生を感じさせてくれる。

「うん。生きてる」

 なぜだろう。顔の真ん中あたりが火照っていくのをわたしは感じる。

 もしかしたら顔は赤くなっているのかも知れない。

 そう思ってお姉ちゃんの顔を真正面から見てみると、その顔もやはりチークを落としたような朱に染まっていた。 


「そうだね。でも、なんだかドキドキする」

「手、離す?」

「いや」

「わたしもだ」


 にへへ、とふたりで笑った。


「こうしてるとさ、鏡合わせみたいだね」

 わたしはお姉ちゃんと同じ表情ができてるなんて思えないけれど。

「そうかなあ」

「なのに、ドキドキするんだよ」

「ふしぎだよね」

「ふしぎだけどさ、ドキドキするほど怖くなるんだ。どれだけドキドキしていいのかって、わからなくなっちゃってて」


 それだけ言うとお姉ちゃんは寝返りを打つように顔を背けた。

 その背中が珍しく隙だらけだったので、わたしは思わずお姉ちゃんの背中に抱きついた。


「わたしもこわい」

「うそだあ」


 後ろから抱きつくって、こんなに相手の体温が伝わってくるのかと驚いてしまう。さっきみたくお姉ちゃんの胸に触れたときともすこし違う、身体全体から発してくるやわらかな鼓動が、わたしの感覚器官ほとんどを使って届いてくるみたいで、まるでお姉ちゃんの一部になってしまったみたいだとわたしは思った。


「うそじゃないよ。全部いっしょ」

「……」


 きゅっと抱く力を強めたけれどお姉ちゃんは言葉を返さない。


「ねえ、灯火」

 時計が一周するくらいの沈黙を経たあとようやく口を開いたお姉ちゃんは、わたしに向き直るとわたしの右手を取ってお姉ちゃんの腕を掴ませた。

「どうしたの?」

 それから、お姉ちゃんはわたしの手をそのおっぱいに当てて、腰に当てて、おしりのあたりに当てて、そうして頬に当てた。

「ぜんぜん違うよ。なにもかもがまるっきり違う。手首はやせ細っているし、ノートパソコンを入れたバッグも両手じゃなければ取り落とす。身体のいたるところがあなたみたいにふにふにじゃなくて、やがて死ぬの」


 こんな言葉を優しい笑顔で言うお姉ちゃんの心がわたしにはわからなかった。


「わたしも死ぬよ」


「死なないよ。病気じゃないもの」


 知っている。お姉ちゃんの身体に触れるたびわたしはそれを感じとる。でもわたしにとってお姉ちゃんがいなくなることは未来を失うことだ。


「お姉ちゃんがいないと生きていけないよ」

「じゃあ、なおさらわたしとは違うよ。わたしは灯火がいてもいなくても死ぬもの」

 お姉ちゃんはわたしの頭を撫でながら穏やかにそう告げる。


「ねえ、お姉ちゃん」

「どうしたの?」

「――だいすき」

「しってるよ」


 お姉ちゃんはわたしたちの下に敷かれた掛け布団を巻き寿司の海苔のようにしてふたりを包む。それからゆっくりと顔をわたしに近づける。吐息の熱、ひとの身体が放つ熱、汗に消毒液、いろんな匂いが感覚器に届く。最後に届いたのは味覚というのか触覚というのかわからない、くちびる同士の触れる感覚だった。


「でもね、わたしの答えは口にしたらわがままになるから、口にチャックをするの」

「わたしの口で?」

「同時のほうが、都合がいいでしょう?」

 真っ暗でよく見えなかったけれど、お姉ちゃんの下にあったわたしの顔にはぽつりとひとしずくだけ水滴が落ちてきた。


「やっぱりずるい。あと、お姉ちゃんのくちびる薬品くさかった」

 初めてのキスが薬品くさいだなんて、世の女子たちの夢を奪ってはしまいかねない。


「幻滅した?」

「でも、その答えはわがままになるから、言わない」

「灯火もやっぱりずるいんだ」


「そこはお姉ちゃんに似たんだよ」

「はいはい、リビングに行こう。お父さんたちもわたしの顔を見たがっているから」

 その言葉が合図みたいになって、わたしたちはくるんだ布団をきれいに広げなおすと立ち上がる。


「ねえ、お姉ちゃん。ひとつくらいならきっとわがままもよろこんでもらえるかも知れないよ?」

 枕担当のをお姉ちゃんに手を差し出しながらわたしはそう言った。

 お姉ちゃんはすこし答えに迷ったけれど、諦めたように笑顔で言葉を吐き出した。

「じゃあ、明日一日でいいから灯火の身体を貸して。やりたいことがあるから」


 姉の予想していなかった言葉に対し、返答に迷ったのはこちらの方だった。

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