サルヴァ・メ

@yokotsuyuhara

第1話 黒髪の妖精

 ああ、いいお天気。

 うっかり眠り込んでしまいそうな、柔らかで暖かい日差し。素晴らしい日。 

 あら? いつの間にかうちの水仙は終わってしまったのね。この間まで、庭の隅の林檎の木の下に、小さな楽器のような黄色い水仙の花が並んでいたのに。

 私は白ワインがたっぷり注がれたグラスを持ち上げて、その冷たい感触を唇で確かめる。

 つまらないわ。大好きな花なのに。日当りが良すぎるのかしら? イースターだってまだなのに。お祭りに兎と卵と水仙がないと締まらないじゃない?

 私はガーデンテーブルの端に積まれた、原稿用紙と万年筆にちらりと視線を投げた。

 こんな陽気じゃ、ペンの神様もお忙しいわよね。仕方ないわ。

 私は潔く諦めて、道路を挟んだお向かいの海の色や、通りがかりの顔見知りとの、垣根越しの短い会話を、ワインと一緒に楽しむことにしたわ。

 アイスクリームやフィッシュ&チップスを片手に、いそいそと浜辺に降りて行く観光客や、早目のバケーションを楽しむ人を眺めていると、ふいにペンの神様が降りて来たのを感じた。いつだって前触れなしで、好き勝手にご訪問下さるのよね。やれやれ。ま、文句言えた身分じゃありませんけど。急いでお酒の神様には、一時お引き取りを願った。随分と扱いが粗雑だけど、だってこちらの方のご訪問は唐突でも、比べ物にならないくらい頻繁ですもの。

 それからは息もつかずに、紙に万年筆を走らせたわ。神様の滞在時間は長くなかったけれど、それでも充分なほど。指からペンが剥がれると同時に、ふうーっと長い息を吐く。

 ぬるくなったワインなのに、どうしてこんなに美味しいのかしらね?

 その時、私は門の向こうに妖精が立っているのを見つけたのよ。酔っ払ってなんかいませんよ。両腕いっぱいに、黄色い水仙の花を抱えて、優しく微笑む華奢な女の子。潮風が遊ぶに任せた長い黒髪が、日差しを受けて輝いている。何て綺麗なのかしら。

「遠い東の国から、妖精が飛んで来てくれたのかと思ったわ」

 私は思ったままをすぐに口にするの。けれど風に邪魔をされて聞こえなかったみたいで、え? と彼女は聞き返しながら、門を押して入って来た。

「これ、あなたに」

と胸に抱いた花束を差し出す姿は、まるで舞台に無理矢理上げられた、恥ずかしがり屋の少女のようだった。けれど実際のところこの人、少女どころか三十も下り坂の良い歳なのよねえ。

「まあ、私に?」

 花を貰うなんて何年ぶりかしら? 私は大袈裟だけど、ちょっと感動して受け取ったわ。一人暮らしの初老の未亡人が、花を贈られる機会なんて、日常には多くないのよ。

「頂き物ですけど、あなたが大好きだってこの間言っていたから。お裾分け」

 私は微笑まずにはいられない。私の大好きな妖精が、私の大好きな花を憶えていて届けてくれたの。何て幸せだろうって思ったわ。


「『そこで彼は言った。幸せも癒しも、全ては日常の中に見つかるものだと。生活とかけ離れた幸せなど、所詮はまやかしに過ぎない、と』」

 マ、ル、と呟いて、セシルはキーボードから放した手をきちんと膝の上に重ねた。まるで良く躾けられたお行儀の良い少年みたい。

「これでいいですか?」

「ええ、お疲れ様。さ、一息入れましょ」

「はい。それじゃセーブっと。あ、僕運びますよ」

 セシルは私の手からティーセットの載ったトレイを受け取った。

「どこに運びます?」

「外は曇って来たから、今日は居間だわね。ねえ、バッテンバーグケーキがあるのだけど、好きかしら?」

「うわあ、大好き! 子供の頃、一番好きなおやつだったんですよ。滅多に出て来なかったから特に」

「スーの手作りなの。彼女には悪いけど、私は苦手なのよねえ、このケーキ。残りは持って帰って頂戴ね」

「勿論、喜んで」

 白いマジパンにコーティングされた長方形のお菓子にナイフを入れると、あざやかなピンクと黄色の格子縞模様の断面が現れる。苦手だけど綺麗なのは認めるわ。

「美味しい•••! スポンジの間に杏のジャムが塗ってあるんだけど、これが甘酸っぱくて絶妙」

 何て幸せそうな顔して食べるのかしらと、私はセシルの子供のような無邪気な表情に見惚れた。この子確かもう、二十七? 八? 三十にはなっていなかったと思うけど、こうしているとせいぜい十六、七の美少年にしか見えないのよね。

「ところであの水仙どうしたんですか? 今年は花が早くって、そろそろ終わりがけと思っていたんだけど。綺麗」

 セシルはマントルピースの上、ナイジェルの写真の横で、彼に捧げられるように飾られた花束に目を留めた。

「でしょう? メイが届けてくれたのよ。私が好きなの知っているから」

 私はちょっと得意に言った。

「こんなにたくさん、どうしたんですか?」

「ラ•フォンテーヌの貢ぎ物だそうよ」

 私の良い気分はたちまち吹っ飛んだわ。ああ、やだやだ。

「ああ、ジョルジオ•パルマー氏? あなたが大好きな?」

と、セシルは私の苦々しい気持ちを見透かしていて、ニヤニヤ笑いながら言った。嫌な子ねえ。

「彼ってば最近、随分あからさまですよね。前々からメイを狙っているのは知っていたけど、露骨って言うか」

「今の奥さんとの離婚調停が上手いこと進んでいるのじゃなくて? 何度離婚して結婚すれば気が済むものかしらね?」

と毒づいてみたのだけど、口にしてから自分をあんまり棚上げした発言だと気づいて、恥ずかしくなったわ。

「まあ、二回も結婚した私が言えた事じゃないかもしれないけど」

 口を封じる為に、急いでジンジャービスケットを押し込んだ。でも私、離婚は一回しかしていないわ。あんな胸糞悪いものは一回で充分。

「好きな女の子の気を引く為に、両腕に持ちきれないくらいのお花のプレゼントなんて、可愛いところもあるじゃないですか」

「どうせ店で余らせたか何かでしょう、注文し過ぎたとかね。あれはそういうセコい男よ」

「厳しいなあ」

とセシルはとうとう声を上げて笑い出したわ。

「あなたの小説なら、冒頭で殺されちゃうタイプですよね」

「そうね。そして犯人は主人公の探偵以外の、全ての登場人物なのよ」

「ルースったら、盗作はダメですよ」

「偉大なる先人の功績を超えるのは、楽じゃないのよ」

 私は大袈裟に肩を竦めてみせたわ。

「紅茶のお代わりが欲しいですよね。お湯湧かして来ます」

「じゃついでに、クルミとホワイトチョコチップの入ったビスケットも持って来て頂戴。紅茶の缶の後ろに、新しい箱があるわ」

「そんなところで隠したつもりですか?」

「いいから、いいから」

と、私はセシルを追いやった。もうローファット、ノンシュガーのジンジャービスケットなんかたくさんよ。一仕事終えた時くらい、いいじゃない。脳には糖分が必要だとか何とか言うじゃない。

 ねえナイジェル?

「この箱を食べ切ったらダイエットを始めるわよ。本当よ。見ていて頂戴」

 私はマントルピースの上でうんと優しく微笑む写真の夫にウィンクした。今日も素敵ね。でも毎朝おはようのキスをする度、あなたは私より若くなる。憎らしい人。

「ねえ、セシル。今日はメイ、何時から店に出ているか知っていて?」

 ふと思い立ってキッチンに声を掛けた。

「確か今日は八時からだと思いますよ」

 熱いお湯の入ったポットとビスケットをトレイに乗せて、戻って来たセシルが言った。小憎らしい子。さっき私がナイルに言ったのを聞いていたのね。ダイエット用のジンジャービスケットが澄まして鎮座しているわ。

 まあ、いいわ。これ以上体にお肉をつけたらあの人、次に会った時私が分からないかも知れないものね。でも昔はあの人、よく言っていた。

「ねえ、もうちょっとぽっちゃりして、僕を安心させてみないかい?」って。けれど今の私じゃあ「ちょっとぽっちゃり」を随分超えちゃっているわよねえ••••••。

 そんな私を慰めるようにセシルは優しく言った。

「お茶を飲んでもう一仕事して、それから行って来たらいいですよ」

「そうねえ。チョコレートビスケットを諦めて、終業後の一杯を楽しみに、もう一仕事頑張るとしようかしら」

 私はビスケットと紅茶のカップをそれぞれ手に立ち上がった。クルミのチョコレートビスケット一枚と、一杯のジントニック、どっちがカロリーは上かしら?


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