君のいる夏を閉じて

夏祈

君のいる夏を閉じて

 ひらり、ひらりと舞う袖が、扇風機の風に吹かれて揺れた。開けた窓の向こうに広がる空は快晴。蝉の声だけが響く、騒がしくも静謐な夏だった。明るい茶色に染めた髪を結って、花を模した髪飾りを付ける。今日の私は最高だ。最高でなければ、たった一度だけ会う彼に顔向けなどできないから。窓を閉めて、玄関へ向かい、下駄を履く。そして鍵を開けた扉を開いた瞬間、思わず目を閉じてしまいたくなるほどの祭囃子が耳を貫いた。


 彼との待ち合わせはすぐ近くの公園で、慣れない下駄と制限された歩幅で歩く。早く、はやく会いたかった。どれだけこの日を待ち望んでいたか、どれだけこの日のためだけに生きてきたか。きっと、毎日顔を合わせる大学の友人も、親しく話をするバイト先の後輩も、愛してくれる両親も、誰も知らない。それでいい。それで、いい。

 公園のベンチに座る、紺色の浴衣姿を見つけて、彼の名を呼ぶ。顔を上げ、こちらを向いた彼は、花が咲くような笑顔を浮かべて立ち上がった。

「久しぶり」

「……久しぶり。変わらないね」

 泣いてしまいそうな私の言葉に、彼は頷く。そしてそっと差し出された手を、私は恐る恐る握った。ひやりとした指が、手のひらが、まだ私の手を受け止める。こればかりは、何度したって慣れなかった。このまぼろしみたいな時間が、本当にまぼろしであるのだと、証明されてしまう時がいつか来る気がしてならないから。


 からん、からんとアスファルトを鳴らす歩幅は小さく、目的地へ着くのはいつになるのか。それでも文句も言わず、私の手をとり歩く彼を見つめる。視線に気付いたのか私の方を向いて、不思議そうに撥音を零す。あぁ、それすら愛おしくて、失いたくはなかった。

「すきだよ」

 気付けば私の口は勝手にそんなことを漏らしていて、彼はそれに数度瞬きをした。祭囃子と騒めきが、いつの間にか近くにあった。空は赤く染まり始めて、彼の顔に陰影を作る。眉を下げて、そっと笑むその表情が、どうにも心に刺さったまま離れそうも無い。もしも時を止めて、ずっと今このままであるのなら、それは幸せなのかと考えてみた。

「ありがとう」

 ──多分、幸せなのだろう。

「どういたしまして」

 私の幸せは、貴方がいて触れられることだ。


**


 ──花火大会の日の、みんなそわそわした空気が好き。みんなが同じ方向を向いて、同じように目を輝かせる、あの日が。

そう言った私を初めて誘ってくれたのは、確か三年前、高校三年生の夏だった。最初で最後、初めて一緒に行った花火大会だった。まだ何も言わずに手を繋ぐような間柄じゃなかった頃の私たちだ。終わりかけの夏休み、受験勉強を少しだけ抜け出して、浴衣を着た。母が締めてくれた帯のきつさ、下駄で擦れる指、降りるのに苦労した実家の階段。全て覚えている。からからと音を立てて、彼の待つ近くの公園へ急ぐ。先に着いていた彼はベンチに座っていて、私の姿を見つけると立ち上がり、微笑みながら近付いて来る。そんな彼が、たまらなく愛おしかった。

行こうか、と声をかけて、私の半歩先を歩く。彼の後ろ姿はすらりと高く、浴衣の紺色は夕暮れの赤に映える。私はこの日、彼に好きだと伝えたのだ。


**


 手を繋ぎ、隣に並びながら目指した目的地はもう目の前だった。お盆に行われるこの花火大会は、終わり行く夏の風物詩でもあった。

「夏休みは実家、帰らなかったの?」

 少し高い目線から彼が問う。私はそれに頷いて、それに続く言葉を考えていた。帰らないも何も、実家は毎日帰ろうと思えば帰れる場所にある。夏休みだからと、特別帰るような場所でもないのだ。

「でもお盆だと親戚とかと集まったり」

「そういうのは特に無いし、私はあなたと過ごしたかったの。──それじゃ、だめ?」

 咄嗟に出た言葉に、愛想は乗せられなかった。どうしたって、私は彼といたかったのだ。その選択を、彼から否定するようなことをして欲しくはなかった。

「だめじゃ、ないよ」

 私は彼の手を強く握る。こんなに暑い夏の日なのに、彼の手は相変わらず冷たくて。ひんやりして気持ちいいね、なんて、冗談すら口に出来なかった。それを言ったのなら、彼はきっとこの手を離してしまうから。


 会場の河川敷に着いて、私はりんご飴を一つ買った。私を見て微笑む彼の表情が、どこか懐かしくて泣きそうになったことは、きっとずっと言うことは無い。会場の橙色のランプに照らされて、きらきら輝くりんご飴を、袋から出して少しだけ舐める。

「本当にりんご飴が好きなんだね」

 にこにこと頷く彼に、私も幸せな気分になりながら、薄くなり始めた飴に軽く歯を立ててみた。

「いつも食べてるもんね。初めて行った時も、その次の時も、────」

「去年、は、行けなったもんね、ごめん」

 どうしても外せない用事があって、私は実家に帰っていた。そのせいで、去年は一緒に花火を見ることが出来なかったのだ。しょんぼりとした表情を見せる彼の口元に、いたずらでりんご飴を押し付ける。驚いて上げた悲鳴も、呑気に一口舐めて、美味しいと笑う顔も、その全てが好きだった。

「去年は仕方なかったけどさ、来年も、再来年もずっと一緒に来よう?」

 私の言葉に、彼は曖昧に頷いた。悲嘆を無理やり押し込んで笑顔を作ったような、ちぐはぐな顔だった。あぁお願い、そんな顔をしないで。繋ぎ直した手にもう一度力を込めて、込めて。何度握っても変わらない体温。人混みの中で、そこだけがどうしようもなく、冷たかった。


 小さなレジャーシートを広げて座り、もう少しの打ち上げ開始を待った。辺りはすっかり暗くなり、会場の騒めきは最高潮。手にしたりんご飴はもうほとんど私のお腹に消えていた。興奮を煽るアナウンスとBGM。皆が同じ空を見上げて、今か今かと打ちあがりの瞬間を待つ。そこにいる全員の、期待に溢れた表情、笑顔、二度とは無い非日常。その全てが好きだった。

 ────死んだ後の世界があるなら、そこでは延々花火大会の日を繰り返していたい。

 いつか呟いた私の言葉に、確か君は、同意をしたのだ。

 高い空を見上げて、口元に隠せない微笑みを乗せる彼の横顔を覗き見た。花火よりも、何よりも、彼の全てだけを焼き付けていたかった。りんご飴の最後の欠片を口に消して、そこに歯を突き立てる。一際大きなMCのアナウンス、そして打ち上がる光の花、くっきりと陰影を作る彼の顔。夏の終わりへのカウントダウンはとうに終わり際で、きっとこの光が散れば秋風が吹く。終わらないでと引き留めることなど、私には出来やしない。

「すき」

 伝えなければ死んでしまうかのように、私の口はぽろりと言葉を零す。花火の音にかき消されていたと思ったそれは、案外隣ではそうでも無かったようで。私の方を向いた彼の、泣きそうな目が、引き結んだ唇が、胸を刺して、抜けない。

「──……ありがとう」

 私のその言葉に、彼も好きだと返してくれることはもう無いことなど、わかっていたはずなのに。それは彼を困らせるだけの、私の自己満足の言葉なのだと、痛いほど知っていたはずなのに。


**


「好き」

 打ち上がった花火と同時に、彼を見ないまま呟いた。きっと聞こえていない。だから、帰り道にちゃんと言おう。そう思っていたのだ。

「……本当に?」

 私を見ながら、花火の薄明かりでもわかるほど顔を染めた彼が、囁くようにそれだけを言った。声は震えて、目を見開いて、信じられないという思いをいっぱいにその顔に乗せて。それを見ていれば、さっきまでは何とも思っていなかった自分の発言が、急に恥ずかしいもののように思えてくる。

「ほ、んとう──だよ。……そうじゃなかったら付き合ってもいないのに、二人で花火行こうなんて、言わない」

 急に回らなくなった舌でなんとか紡いだそれは、酷くみっともなかった。それでも彼は、花が咲くように笑う。

「うん。俺も、好きだよ」

 そうしてどちらともなく繋いだ手は温かくて、涼しくなった夜には愛おしいほどの温もりだった。


**


 MCがフィナーレと叫ぶ、夏の終わり。いつの間にか頬を伝っていた雫を、彼は何も言わずにそっと拾い上げた。その行為も、手つきも、優しくて、涙は止まるどころか溢れてくる。私の耳元で、大丈夫? と問う彼に、大丈夫と返す。来年も、その先もあるから。一時この別れが寂しいだけだから。だからお願い。

 君も、そんな悲しい顔をしないで。


「……今年で、終わりにしよう?」

 夜空で閃いた最後の光が、彼に降る錯覚を見た。



「──いや、だ」

「ごめんね」

「なんで、だって今年も会えた、去年はあんな制約があるなんて知らなくて会えなかったけど、一昨年だって会えた。だから来年も、その後だって会えるでしょ」

「会えるよ。俺はずっとこの日にいる」

「じゃあ、」

「これ以上、ひかりの人生を奪いたくない」

「……そんなの、君のエゴじゃない。私は君に会いたい、ずっと会いたい一緒にいたい」

「エゴだよ。だから俺は、今からずるいことを言う」


 一生のお願い。俺を忘れて。


 ──わかっていた。今いるこの場所が、幻想だということも。これだけ言い争うように話しているのに、周りの誰も私たちを気にも留めない。見向きもしない。これは私たちに、いや、いま向き合っている彼のために用意された、ただの虚像の舞台であるのだと。

「──……ずるいよ」

「……うん。ごめんね」

 彼が立ち上がり、私に手を差し出す。その手をとったら、もう全て終わり。私は彼のいない世界を生きていくことを、同意したことになるのだろう。謝ってほしかったわけではない。これからも一緒にいて欲しかった。それだけだった。それが出来ないことも、心のどこかでわかっていた。

 だから、私は彼の手を握る。温度の無い冷たい手。血の通わない、鼓動の無い手を。



 帰り道、彼の手をずっと握った。どうか今だけは、離れないように。握れば握るほど、体温を奪われていくその手を、私はどこかで知っていた。彼が灰に還る、その前に。

 私の家の前に着き、彼はそっとその手を離す。もう縋ってはいけない。もう、手を伸ばしては、いけない。遠くに花火の余韻の音楽が聞こえる。まだお祭りは終わらないらしい。

「……もう会えないの」

 私の問いに、彼は曖昧に笑うだけ。本当ならばこの時間は、存在しないものだから。

「俺はずっとあの場所にいるから、また花火を見た時には、一緒に見ていることになるよ」

 ね? と首を傾げる。気休めで、子供騙しで、最高に優しい幻想。それでも、彼の隣を歩くことはもう出来ないし、一緒に同じ空を見上げることも出来ない。けれど私は、これからその優しい嘘を抱きしめることしか出来ないのだ。

「いつか、また一緒に花火、行こうね」

「……本当は、忘れて幸せになって欲しいんだよ。でも、行くならなるべく未来が良いな」

「うん……頑張るよ。──好きだよ。ずっと好きだった」

 鍵を開けて一歩。室内へ歩みを進める。音楽が少しだけ遠ざかる。

「ありがとう」

 もう一歩。彼との間に明確な境界線が出来る。彼は微笑む。悲しみを隠せてもいない表情で。

「どうか、幸せになって」

 ドアが閉まり出す。彼の姿が確実な壁に隠されていく。頬を伝うものがあることに、今更気付く。

 ばたり、と閉まった扉が、私を現実へ引き戻す。ドアの方を向いて立ち尽くしたままの私には、座るという考えすら無い。俯いた顔から、ぽたぽたと涙が床に零れる。静寂の部屋だった。さっきまでの騒めきが、まだ耳に残っていた。彼の声も、顔も、触れた手の感触も、まだ覚えていた。これから、長い時間をかけて忘れていく。

 涙を拭いて、下駄を脱いだ。赤く擦れた足が仄かに痛みを訴えて、あの時間は紛れもない現実だったのだと告げる。振り返って、もう一度その扉を開きたかった。でも、それは出来ない。彼は忘れて欲しいと言ったから。嗚咽に似た吐息が漏れて、独りきりの部屋の静寂を破る。帯を解いて、浴衣をするりと肩から落とす。開けた窓から、夏の終わりが通った。

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