第3話 限られた残りの一日(葉月)

 あんなことがあった翌日でも学校には行かなくちゃいけない。もし、失恋が公欠扱いになるなら、今日は絶対に休むのに。

 仕方がないからベッドからのそのそ起き上がる。


 ああ、やっちゃった。


 昨日は気持ちが混乱していて、制服のスカートをきちんとハンガーに吊るさなかった。スカートのヒダが歪んでいる。仕方なく手に取る。でも、まぁ、いいか。そんな日もある。


 かわいく思われたい相手が、自分を置き去りにすることがわかった今、オシャレも何も無い。

 薄いブルーのブラウスを着て、袖をまくる。いつもの習慣で、ベストに手が伸びる。

 ……着ていかなくてもいいんじゃないかな。無理して汗をかく必要は無い。

 スカートをかけてあった机のイスの背もたれに、ベストを投げる。

 こんなに暑いものを来てくる子は、ほとんどいない。


「珍しい! 葉月がベスト着てないなんて」

「変?」

「全然! 今までの方が、見てて暑苦しかったわよ。サッパリしたね。……何か、心境の変化?」

「そういうんじゃ、ないよ」

 女ともだちというのは侮れない。隠していることも、すぐに勘づかれてしまう。

「え、佐伯くん、東京に進学するんだ? すごいねー、四大か。できる人は違うね」

「わたしはできないからさぁ。卒業したら今までのことはないのと一緒だよ」

「バカだな、葉月は。フラれたと思って落ち込んでるの? よく思い出してごらんよ、今までのこと。せーっかく、二人きりにしてあげようって気を利かせてきたのに」

「ありがとう。でも、なーんにもなかったよ。黙ったまま延々、二人で歩くだけで。特になんにもなかったよ。進展なんて何も」

 美和ちゃんはくすくす笑った。

「バッカだなぁ。足元が見えてないんだよ、葉月は」


 そんなことはないと思う。

 席に戻ると佐々木が英語のプリントを写させてくれと頼んでくる。まったく、と思いながらファイルからプリントを出す。

「なんだよー、陸に言っちゃったの? 東京のこと、まだ内緒だって言ったじゃんよ」

「だって。なんて言うか、話題作りだよ」

「話題ねぇ、ふーん。そんなに話題が必要?」

「……あったら、時間を無駄にしないで済むと思う。せっかく一緒に帰っても、特に何もないよりはなんでもいいから話した方が良くない?」

「そうかもしれないけど、陸はそういうヤツじゃないからなぁ。葉月はわかってんのかと思ってた」

 わたしもそうだと思ってた。陸は喋らない。けどそれでいいって、時間を共有できればいいって。

 だけど、それは未来のある場合の話だ。

 お、プリントありがとう、と佐々木が言って、英語の授業が始まる。若い女の先生だ。教壇の上にテキストを広げて、授業を始めます、と声にした。


 通り雨だ。

 ついてない。こんな日に限って、雨なんて降る?

 掃除当番で、玄関を掃く。蒸し暑い。

 まだ雨が降っている中、走って飛び出していく男子たちがいる。まったく男の子って、何を考えてるのかわからない。

 その中の一人に、陸がいた。

「陸! ちょっと待って、傘」

 陸が振り向いてわたしの顔を見る。今日はなぜか背けたくなる。

「帰り、急いでるの? わたし、傘二本持ってるからよかったら使ってよ」

 急いで傘立てから傘を取る。陸の前にそっと差し出す。

「それ、本当?」

「え?」

「二本持ってるって話」

「ああ、天気予報で通り雨が降るかもって言ってたから、折りたたみも持ってるの」

 そっか、とわたしの傘を持って陸は呟いた。何かをじっと考えているようだった。雨はざっと通り抜けて、日差しが見えてきた。

「止むみたいだね」

「傘、ありがとう」

「いいの」

 自転車置き場に向かう彼の背中を、何も言えず、ぼーっと見ていた。後ろからぽん、と肩を叩かれる。

「葉月、佐伯くんに置いて行かれちゃったの? バカだな、そんな顔するくらいなら走れ!」

「掃除……」

「掃除なんかいいから、早く」

 玄関前に放ってあったリュックを肩にかけて、慌てて靴を履く。急ぐつま先で滑りそうになりながら、走る。自転車置き場は正門より奥に入ったところにある。今、走れば、まだ陸は門から出てないかもしれない。


 バカだな、わたし。

 もうダメだってわかってるのに、陸を待ってる。わたしの隣で自転車を引いて一緒に歩いてくれると、期待している。

 もしそうなったとしても、結末は変わらない。陸は東京に行ってしまうし、わたしはこのまま地元に残る。

 わたしたちはバラバラになって、少し傷ついて、落ち込んで、いつかただの思い出になってしまう時が来る。

 思い出なんていらない。今がほしい。


 なんでもないという顔をして、乱れた息を整えながら門を出て坂道を下る。下がりかけてた靴下を引き上げて、歩きながら袖をまくり直す。

 ベストを着ていなくても、走った分だけ汗をかいた。恥ずかしい、おでこに前髪が張りついている。こんなんじゃ追いかけてきた甲斐がない。陸がいるから、陸に見てほしくて、いつもかわいくしたいと思ってたのに――。


 いつもの自転車の音がしない。どの自転車もわたしを通り越していく。走ったけど、陸の方が先でもう行ってしまったのかもしれない。前髪が気になる。指で直す。もう行ってしまったのかもしれない。


 駅まで半分のところまで来てしまった。

 やっぱり、わたしより先に帰っちゃったんだ……。これでまた一緒に帰れる日を一日、無駄にしてしまった。限られた日を、無駄にしてしまった。

 バカみたいにうなだれる。今日も後ろを歩く一年生の女の子たちがキャッキャッと楽しそうに盛り上がっている。

 何台目かの自転車の音が背後から迫って、ああ、陸ならいいのにな、と思うとわたしをやっぱり追い越していく。自転車はわたしを追い越して、急ブレーキをかけた。

「もう帰っちゃったかと思った」

「わたしも陸の方が先に帰ったと思った」

 陸はすとんと自転車から降りて、わたしはその隣まで歩いた。歩幅を合わせて二人で歩き出す。

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