邪心

「常史江、アンタさっきの話どう思ってるの?」


放課後の教室で千佳は常史江と二人、窓側の席で向かい合って座談していた。他の生徒達は帰りのホームルームが終わるとスピーディーに姿を消したので室内には彼らしかいなかった。日は西に傾き始めている。


「考え中だよ、ただ、彼の言ってる事が本当だった場合の事も視野に入れておく必要はあるかもしれない」


常史江は一呼吸おくと付け加えた。


「想像したくはないがこの前みたいな状況にならない保証もないしな」


千佳は先日の屋上での常史江と裏山の闘争を想起した。もう二度とあんな場面に出くわすのはゴメンだった。


「あんな奴の言う事信じるのかい?」


千佳は彼の心に訴えるように言った。何せ、裏山はかつて自分達の命を奪おうとしてきた危険人物なのである。そんな彼の眉唾な話をやすやすと信じられなかった。千佳は裏山のような異常な思考回路の持ち主よりも香織を信じていたかった。香織とはまだ少ししか話せていないが彼女に人を傷つけるような事ができるとは到底思えなかった。


「信じたとは言ってないさ、ただ頭には入れておいた方がいいかも、と言ってるんだ」


常史江はドライな口調で言った。千佳は目を伏せた。何だか少し冷たいな、千佳はそう思った。だが、返す言葉はなかった。彼の言っている事はもっともだったからだ。


千佳が気を落としていると常史江は窓の外の木漏れ日に目を細めながら言った。


「まあ、そんな噂話くらいで付き合いをやめたりはしないさ。俺も彼女が危ない奴には見えないしな」


千佳は少しホッとした気持ちになった。やはり常史江も自分と同じ気持ちだったのだ。そう思って何だか嬉しくなった。


「だが、もし何かあった時はすぐに連絡してくれ」


その時、教室の戸口を一人の生徒が入ってきた。二人は同時に目を向けた。渦中の人物である香織だった。彼女は髪を靡かせ、向日葵のような笑顔を見せ二人に近寄った。


「二人とも、邪魔していいかしら?」




「千佳さん、昨日はあの本を紹介してくれてありがとう。とても面白いわね、もう半分ほど読んでしまったわ」


千佳と香織は高さ5メートルほどの横断歩道橋の上で会話していた。香織は錆びついた柵にもたれて眼下の道路を虚ろに眺めながら言った。その道路は交通量が多く、何度も乗用車が現れては消えた。その度にごうごうと、風を切る音がした。


千佳は彼女の横に並んで言った。


「ほらね。アンタならそう言ってくれると思ったよ。ていうか、チカでいいってば」


千佳はすっかり裏山の忠告を忘れ、香織との会話に没入していた。それほどまでに彼女との会話は楽しいものだった。


しかし、些か香織の様子が昨日と違って見えた。どこか、思い詰めているというか、何か気になる事があるのだろうか?千佳が香織のメランコリックな横顔を眺めていると、香織が口を開いた。


「千佳さん、常史江君とは…その、付き合っているの?」


「な、なんだい、いきなり?」


千佳はドギマギした。やはり他人からはそんな風に見えるのだろうか。少し複雑な気持ちになった。だが、間違っても彼とはそんな仲ではない。


「アイツは…友達だよ。何でそんな事聞くんだい?」


「いや、気になっただけよ。二人とも、凄く仲が良いみたいだから。ねえ、千佳さん、ラインのアドレス、交換してくれるかしら」


千佳は言われた通り、香織とアドレスを交換した。


「もしよければ、常史江君のアドレスも送ってくれる?」


千佳は少し考えたが、常史江はそれくらいでとやかく言ってこないだろうと判断し、つたない手つきで彼の連絡先を香織の携帯に送信した。


「ありがとう、千佳さん」


香織は、その日一番の笑みを見せた。




それから数日が経過した。香織は一人、学校の帰り道である急斜面の坂道を沈んだ顔で歩いていた。


千佳は書店に用があるというので常史江と同じ道を帰っていった。


香織はここ数日、常史江に対する思いが更に激しくなっていくのを実感していた。夜になればクロにどうすれば彼が振り向いてくれるだろうかと相談した。無論クロは何も言ってくれなかったが。なけなしの勇気を振り絞って香織が常史江に話かけても、彼は「ああ」とか「そう」とか炭酸が抜けたサイダーのような気の抜けた返事を返すばかりで(まあこれは誰に対してもだったが)香織は余計にやきもきする一方だった。


前に千佳は彼とは恋人同士ではなく、友人だと言っていたが、実際の所どうなのだろうか。二人はいつも付きっ切りだったので香織は疑わしく思った。今頃、千佳は彼と楽しく談笑しているのだろうか。いいムードとかになっているのだろうか。見つめ合ってキスとかしているのではないのだろうか。香織は妄想が膨れ上がった。そう考えるとやっかみで気がおかしくなりそうだった。千佳は香織にとって友人でもあったが同時に恋敵でもあったのだ。完全に一方的なライバル視だった。甚だ迷惑である。


ふと、香織は千佳に悪いと思いつつ、もしも彼女がいなくなれば常史江は自分に振り向いてくれるだろうか、という邪な思考が頭に浮かんだ。


その時だった。香織は名状しがたい感覚を覚えた。その感覚はクロが現れる際、決まって感じるものだった。香織の背中に悪寒が走った。香織はクロの名を呼んだ。返事はない。まさか…。


香織は最悪の事態が頭を過り千佳に電話をかけつつ、来た道を駆け足で戻った。




そのころ、千佳は数分前に常史江と別れ、単身で書店へ向かっていた。突然ポケットの中で着メロのヘビメタが流れるとともにスマホが振動したので、千佳は電話に出た。香織からだった。なにやら興奮している様子であり息が荒かった。


「千佳さん、今どこ?!常史江君は傍にいる?」


「書店に向かってる最中だよー。常史江とならさっき別れたけど…どうしたんだい?」


「なんてこと、お願い千佳さんどこかに隠れて」


香織が電話越しに声をはりあげたので千佳は驚いた。


「隠れるって、一体なに…」


千佳は体に衝撃を感じ、その直後視界が一回転した。

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