ボロ雑巾
「ぐ」
千佳は苦悶の声をあげた。何かに激突され地面に突っ伏したようだった。視界には舗装されたアスファルトの地面だけが広がっていた。彼女は顔に生暖かいものを感じた。どうやら鼻血が出たらしい。千佳はそういえば鼻血がでたのは小学生以来だな、などと呑気で場違いな思考が頭をかすめたが、何かを踏みつけるような音ですぐに強引に現実に連れ戻された。千佳が地面から顔を引きはがし、前方に目を向けると黒々とした強壮な足が千佳のスマホを踏んづけていた。液晶画面にはすでに蜘蛛の巣を彷彿とさせるようなヒビが入っていた。千佳が呆気にとられていると何者かがその足を持ち上げ、スマホを勢いよくもう一度ストンプした。スマホは真ん中から半分に砕け折れた。中から様々な部品が顔をのぞかせた。何かあったら連絡しろ。そんな常史江の発言が千佳の脳裏をかすめた。
千佳が恐る恐る目線を頭上にやると大男の形をした黒い靄のようなものが聳え立っていた。千佳は一目でその存在が人間ではない事がわかった。悪霊、怪物、妖怪、そんな単語が浮かんでくる。そいつはスマホから目を離し、千佳に視点を絞った。
逃げなくてはならない。一体コイツが何なのか、それは逃げた後で考えればいい事だ。間違いなくコイツは自分を亡き者しようとしている。千佳は両手に力を込め、上体を起こそうとした。だが、その行動は徒労に終わった。
そいつに千佳は左頬に大木のように太い足で回し蹴りをされ、側臥位の姿勢に倒れた。受け身を取る事もままならなかった。レスラーもかくや、といった具合の見事な蹴りであった。あまりの威力に一瞬意識が飛びかけた。
「うぐ」
左頬に凄まじい鈍痛がやってきた。口の中が切れたようだった。些かしょっぱい味が口内に広がった。視点が思うように定まらない。千佳は突然訪れた理不尽でナンセンスな状況に恐慌をきたしたが防衛本能で這って逃げようとした。
ほぼ反射的にそうしていた。しかしそいつはそれを見逃してはくれないようだった。
そいつはめったやたらに千佳を蹴りつけた。化け物とコンクリートの塀に挟まれて逃げる事も適わなかった。蹴り一発一発に殺意が込められているようだった。
キックの嵐が止む頃には、千佳は虫の息になっていた。永遠にも一瞬にも感じられた時間。生き地獄というに相応しい。
「う」
彼女は血反吐を吐きながら思った。ああ自分はここで死ぬのか。それにしてもあんまりな死に方だな。
せっかく学園生活が僅かながら楽しくなってきたのに。せっかく友達が出来たというのに…。
何もドラマチックな死を迎えたかった訳ではないが、こんな人生の幕切れは悲惨過ぎるのではないか?
とはいえ、毎日どこかで人は絶えずこの世を去っていく。たまたま自分は今日、その中の一人に選ばれてしまったのだろうか?どうせ死ぬならひと思いに楽にしてくれればいいのに。
心残りがないといえばそれは嘘になる。今書いている小説だってようやくクライマックスに差し掛かったばかりなのだ。
靄のような怪物は彼女を亡き者にすべく、とどめの一撃を加えようと千佳の頭上にかかと落としの姿勢をとった。あれが直撃すれば自分の頭部はトマトのようにぐちゃりと潰れ、その中身を周囲にミートソースの如くまき散らす事になるだろう。後始末をする人間は難儀するだろうな。千佳はそんな気がした。
彼女の脳に親しい人物達の顔が思い浮かんだ。家族達や、田畑、香織、そして常史江…。
彼はまた、いつもの不愛想な表情を浮かべていた。千佳は何だかおかしく思った。自分が死んだとしったら彼はどんな反応を見せるだろう。歯牙にもかけないだろうか、出来ればほんの少しでも悲しんでくれれば嬉しいのだが。その反応を見られないのが、なんとも無念だ。
足が振り落とされた。
しかし、吹き飛んだのは怪物の頭部だった。ボーリングボールのような物が高速で怪物の頭をこそぎ取る瞬間を千佳は目撃した。怪物はバランスを崩したたらを踏んだ。その直後数多のボーリングボールが空中を飛んできて、怪物の体を削り取った。
怪物は上半身が完全に吹っ飛んで、千佳の右前方に倒れこんだ。
千佳は似たような光景を見た覚えがあった、まさか…。千佳はボールが飛んできた方向に顔を向けた。
数メートル離れた通路の曲がり角の所に、自転車と共にワイシャツの上にベージュのセーターを羽織った季節外れの服装の少年が立っていた。
「遅くなってすまない、大丈夫…では無さそうだな」
彼はそうつぶやくと千佳の方へ走り寄ってきた。
千佳は声にならない声を出した。
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