性獣現る

「聞いてクロ、私彼を好きになってしまったかもしれない」


香織はベッドにもたれながら天井を見つめそう呟いた。彼、というのは常史江の事である。以前から彼女は学校の廊下などで常史江の姿を見る度、胸をときめかせていたが、今日初めて彼を間近で見て、香織は彼に恋に落ちてしまったわけだ。だが、緊張のあまり、今日は一言も話しかける事が出来なかった。香織の人生で初めての事だった。テレビの歌番組で煌びやかな衣装を身に纏ってそつのないダンスを踊る口パク男性アイドルグループよりも、海外で年収5億円以上を稼ぐハリウッドスターよりも、香織には彼が輝いて見えた。完全にまいっていた。彼の容貌や声、雰囲気全てが香織の理想といってもよかった。香織は自分が彼に横抱きされる姿を想像しながら枕に顔をうずめて足をバタバタさせた。クロは黙ってそれを見つめていた。気色の悪い妄想がひと段落すると、香織はクロに向き直った。


「私なんとかして彼を振り向かせてみせるわ。応援してくれるかしら?」


クロは頷いた。彼に拒否権はないのだ。


「ありがとう、あなたがいれば百人力よ」


そう言って香織は立ち上がってクロに抱き着こうとした。だがその瞬間クロは泡沫の如く消え去った。勢いあまって香織は姿見に顔から突っ込んだ。そのまま俯せに倒れこむと姿見が上に横倒しになってきた。


「ぐえっ」


その時、偶然トイレに立ち寄った香織の父が、香織の部屋の前の廊下でその物音を耳にしたが、俺には関係ない、俺には関係ない、と念仏のように唱えながら通り過ぎて行った。


香織は静かに姿見を壁にそっと立て直すと、むっとした顔で言った。


「ひどいじゃないクロ、いきなり消えるなんて」


香織は部屋の蛍光灯を消灯させるとベッドインした。


「まあいいわ、おやすみクロ」


暗くてよく見えなかったが、クロが頷いた気がした。




翌日、鮭と味噌汁に白米、牛乳という質素な食事を手短にすませると、香織は両親にそっけなく挨拶し、家を出た。長々と食事していると四十肩の父が最近学校どうだ?彼氏とか出来たか?などと馬鹿の一つ覚えのように聞いてくるので長居はしたくなかった。


外に出ると、自宅のカーポートの近くに何やら不審な動きをする男の姿があった。野田だった。野田は香織を見るやよお、よお、と落ち着きなく声をかけてきた。鼻の下が伸び切っていた。香織は心底うんざりした。何のようだろうか?それにどうやって住所を知ったのだろう?香織は露骨に渋い顔をした。野田は興奮気味に香織のそばまで歩いて来た。


「何の用?何で家を知ってるの?」


「いや、ちょっとな…学校の奴に聞いてよ…」


そう言いながら野田はフガッと豚鼻を鳴らして笑い始めた。香織はため息をした。朝っぱらから嫌な物を見てしまった。


「そう、じゃあ」


香織は面倒になって野田の横を通過した。彼のようなつまらない凡夫に構っている時間と心の余裕は無かった。


「あ、ちょい待てよ」


野田は執念深く香織の横に並列して話しかけてきた。さらにそれだけでは飽き足らずこの性獣は、ちらちらと香織の胸やスカートから覗く太ももを盗視し、唾を飲んだ。


「やっぱりお前の事あきらめきれねえんだよ俺は」


香織がお高くとまっていると野田はしびれをきらしたのか、鼻水を垂らしながら香織の前方に立ちふさがってそう言った。香織はこれ以上邪険に扱うと血迷って何をしでかすかわからない、と判断し、少し相手をしてやる事にした。


「この前言ったでしょ、あなた私のタイプじゃないのよ。お引き取り頂けるかしら?」


野田は涙目になって香織の前で地に頭をつけた。


「俺の何がいけないんだよう、教えてくれ、俺は変わる、お前の為に変わって見せる、俺は本気だ、お前に見捨てられたら多分、俺は死ぬ」


野田は必死に哀願した。だが、下から香織のスカートの中を上目遣いで覗き込むのを怠らなかった。香織は彼のそんな滑稽な姿に吹き出しそうになった。こんな情けない姿を見せられて、一体どこのバカが付き合いたいなどと思うのだろうか?下らない泣き落としが通用するとおもっているのだろうか?


「やめてよそんな事、悪いけど私あなたとは付き合えないわ、好きな人がいるのよ」


「誰だよそいつ、堀谷か?それとも井上か?わかった清田だろう?あんな奴らよりも絶対に俺の方がお前を幸せにしてやれるって!」


野田はまくしたてた。彼が挙げた人物は皆そこそこ整った顔立ちの持主だったが、いずれも香織は興味がなかった。彼女の理想とは程遠かった。


「全員違うわ、もう諦めてくれる?」


香織はその場を去ろうとした。野田は立ち上がると彼女の腕を掴んで引き留めた。


「後生だから頼む」


香織は彼のあまりの二枚腰に堪忍袋の緒が切れた。


「くどいわよ」


香織がそう呟くと、彼女の背後にクロが出現した。


「ぎゃおっ、何じゃこいつはっ」


野田はクロの姿に悲鳴をあげ、香織を自身の前に引っ張り肉壁にしようとした。なんの躊躇もなかった。クロはその剛腕で野田の手首を握りしめると、香織から引きはがし、猛烈な力を混めた。


「びゃあ折れる折れる」


野田は金髪を振り乱しながら大暴れした。激痛のあまり小便も漏らしているようで、ハウンドチェック柄のズボンの裾から、黄金色の液体を垂れ流した。香織は焦ってクロを静止した。


「クロ、もういいわ放してやって」


香織がそう言うとクロは素直に力をゆるめ、野田を開放した。


「ひいっ」


野田は腰が抜けたのか、失禁しながらその場にしゃがみ込んでクロを凝視した。足がチワワのように小刻みに震えている。クロは香織の背後にすっと姿を消した。


「何なんだよそいつ、何でお前そんなのと…」


野田は香織を指差して言った。動揺で言葉に詰まっているようだった。


「これに懲りたら私の事はあきらめてくれる?」


「冗談じゃねえ、化け物に取り憑かれてる女なんて、こっちから願い下げだぜ!」


野田は背中を見せると水滴を滴らせながら一目散に走り去っていった。


残った香織は一人、驚いていた。確かにあの蛆虫に掴みかかられた時、心の底から彼を疎ましく思ったが、クロを呼び出したつもりは無かった。無意識下で彼に頼ってしまったのだろうか?まさか、『あの時』と同じ事が起きるとは…、何か胸騒ぎがする。


香織は一抹の不安を抱えつつ、学校に向かった。

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