いしんでんしん
夜、淡いピンクを基調とした壁紙にペーパーフラワーが飾り付けられたガーリーな部屋で、香織は花柄をあしらったベッドに腰かけていた。静かだった。聞こえるのは時計の針の音と、虫の声くらいだった。
香織は本を読み耽っていた。勿論、千佳のすすめで借りた小説だった。半ば千佳に調子をあわせて借りてしまったのだが、読んでみるとなかなかどうして読ませる内容だった。
ちらりと枕元の棚にあるデジタル時計に目を向けると10時を指していた。香織は名残惜しそうに栞を挟んで本を閉じた。
「ねえクロ、いるんでしょ?」
香織は目の前の誰もいない空間に声をかけた。するとその声に呼応するかのように、香織の座っているベッドと真向かいにある姿見との間の空いたスペースに全身が影で覆われているかのような人物が出現した。クロ、と呼ばれたそれは、ものも言わず仁王立ちの姿勢で香織を見下ろしていた。香織は親し気にクロに微笑みかける。
「クロ、私あなたの他にも友達が出来たわ。それも二人も。あ、見てたかしら?」
クロはうんともすんとも言わなかった。
「もう無口なんだから、もしかして嫉妬してる?」
そう言って香織はベッドに寝転がった。
クロが香織の前に初めて現れたのは香織が4歳の時だ。幼稚園に入園して、周りに馴染めず香織が所在なさげにしていると、突如香織は奇妙な感覚に襲われた。その日は体調を崩し、早退した。
その日から数日後、いつものように香織が園庭の隅で一人佇んでいると、視界の隅に黒っぽい影のような何かが映った。何だろう、香織が目を向けると曖昧模糊としているが、香織と同じくらいの大きさの、人の形をしている靄のようなものが立っていた。
香織は少し驚いたが、何故か恐怖は感じなかった。それどころか、香織はその存在にシンパシーのようなものを感じた。
「あなたも友達がいないの?」
そいつは何も答えなかった。だが、香織は心のどこかでそいつが自分と同じで一人ぼっちだということを悟っていた。何も根拠は無いが、幼心にそう思った。
他の園児達には見えないのか、皆滑り台やシーソーに夢中だった。彼らの浮かれた顔に香織は苛立ちを覚えた。
「何が面白いんだろう、あんなの。ねえ、あなた、名前はあるの?」
返事は無い。
「じゃあ、私がつけてあげる。クロ、あなたはクロよ。よろしくクロ」
クロはそこで初めて頷いた。それが香織とクロの出会いだった。
それからというもの、クロは香織の前によく現れるようになった。園で、家で、外出先で。
どうやらクロは香織が会いたいと願うと、どこからともなくやってくるようだった。
クロが現れる時は、独特の感覚がするので彼女はすぐわかった。
家族や他の園児、そして保育士たちにはクロが見えない様子だった。そのためクロに話しかけてていると父親によく注意されたし、園児達からは奇異の目に晒されたが、香織は意に介さなかった。
しばらくして、香織がまた園でクロに話しかけていると、滑り台の上から声が聞こえた。
「お前、また独り言かよ。俺のじいちゃんよりひどいぜ」
香織をよくからかう少年だった。彼はせせら笑っていた。香織が何か言い返そうと思った時、香織は少年の背後にいつの間にかクロが立っているのに気付いた。クロは少年を突き飛ばした。
少年は落下して肘を打ちつけた。
「うわあ、助けてくれ」
少年は手足を振り回して大暴れした。近くの園児達は、はじめこそ少年の様子を見て笑っていたが、彼の腕があらぬ方を向いているのにきづくと、すぐにパニックになり、保育士が駆け付けた。てんやわんやの大騒ぎである。香織はその光景を見ながら、一人ほくそ笑んだ。
「ありがとうクロ」
クロは頷いた。香織にとって障害となる者を、クロは徹底的に排除する気のようだった。
少年はやはり肘を骨折したらしく、暫くの間、園を休んだ。香織はクロがいてくれるなら何も怖いものはないな、そう思った。
香織が年齢を重ねるにつれ、クロも成長しているようで、最初に現れた際は香織とほとんど変わらない身長だったが、香織が14歳になるころには、クロは180センチを優に越していた。
そしてひとつ問題が浮上した。香織以外の人間にも、理由は不明だが、クロが見えるようになってしまったのだ。そのせいもあってか、香織はクロに悪いと思いながらも、人目のない場所でしかクロを呼び出さなくなった。
クロは一体何者なんだろう。香織は時々そう思う。他の人間にも見えたり、触れられることから、ただの香織の妄想や幻覚ではない事は確かだった。自分と似たような境遇の者がいないか、ネットなどで情報収集をはかったが、有力な情報は得られなかった。彼(正確には性別も不明だが)については、わからない事づくしだったが、ただ一つ確実に言えるのは自分の味方だ、ということだ。
絶対に逆らわないし、自分の全てを肯定してくれる理想の友人だった。クロは何も言葉を発さないが、香織とは以心伝心の仲、というやつだったのだ。
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