ババア

翌日、田畑が家から出て、何気なく共用廊下から下を覗き込むと団地の敷地内に裏山の姿を発見した。彼は過去に何度か田畑の家に訪れた事があるため、家の場所は知られていた。田畑の母は彼が生理的に苦手なタイプらしく、何度も「人を殺しそう」とぼやいていた。わかる人間にはわかるものなのだろう。「人は見た目が9割」とはあながち真理なのかも知れない。裏山は田畑に気が付くと彼に向かって手を振った。片手には缶コーラを持っていた。


田畑は冷や冷やしながら階段を降りた。


「何しに来た」


「別に。迎えに来ただけさ。ほらこれやるよ」


裏山はバックから缶ジュースを取り出して田畑に渡した。


「そうだ、こいつもやるよ」


彼はまたまたバックをあさると皮の財布を取り出した。それは裏山の物ではなかった。以前彼の財布を見た事があるので田畑はすぐにわかった。


「何だよそれ」


「学校でボス猿気取りでいる小林とかいうアホいるだろ?そいつの舎弟を一人尾行して消してやったんだ。財布は消さないでおいた。お前にやるよ」


「またやったのか」


田畑は頭を抱えたくなった。ああ、自分は何故こんな男と友人になってしまったんだろう。彼には人の心がないのだろうか。とにかくそんな物は貰う訳にはいかない。


「いらないよ、そんなの」


「あっそ。じゃあ俺が頂いておこう」


裏山は金銭を抜き取るとクレジットカードの類は本人以外は使えないというような事を呟きながら、用済みとなった財布を手から消滅させた。田畑はその面妖な光景に見入っていた。


「便利なもんだぜ」


そう言うと裏山は既に空となった缶コーラを手から離し、蹴り上げた。缶は緩やかな軌道を描いて駐車場近くの芝生に落ちた。


すると近くをうろついていた紫色のパンチパーマの、若作りなレースのワンピースを身に纏った、眼光鋭い初老の女性が血相を変えて二人に歩み寄ってきた。田畑はげっ、と心の中で呟いた。女性は二人の傍まで来ると耳障りな金切り声をあげた。


「あんた達ねえ、ゴミはゴミ箱にって親とか学校から教わらなかったの?どうなってんだ最近の若いのは。迷惑なんだよ迷惑。誰が片づけると思ってんの!?知らないけど!」


女性は田畑の住む団地でも一際口うるさい事で有名だった。というよりもはやクレーマーの域に達していた。何らかの理由をつけて人を糾弾することに、凄まじい情熱を注いでいた。控えめに言ってクソババアであった。


他の住民にやれガキの声がうるさい、やれ態度が気に入らない、やれ夜中に喘ぎ声を出すな、などとイチャモンをつけ、住民からの評判は芳しくなかった。田畑も御多分に漏れず、彼女が苦手だった。というのも以前、彼女の横を通り過ぎる際、舌打ちをした、と妄言を吐かれたからだ。幻覚や幻聴の類もあるのかもしれない。田畑は唾を飛ばしながら、凄まじい剣幕でまくし立てている彼女に長々と罵倒されている内に、人生の意味とは?人は何故生きるのか?などと哲学的な気持ちになった苦い思い出があった。


田畑は何故、自分も裏山と一緒に説教されているのか?と疑問に思ったが、余計な事を言えば話をより長引かせるだけだと判断し、平謝りしようとした。


すると裏山が辺りを見渡し、何かを確認すると無言で女性の肩に触れた。


まさか…田畑がそう思った次の瞬間、女性は田畑の視界から消え失せた。


「嘘だろ!」


田畑は悲鳴をあげた。


裏山は無表情だった。眉一つ動かしていなかった。実に鮮やかで無駄のない動きだった。だが感心している場合ではない。


「じゃあ、行こうぜ田畑。学校に遅れちまう」


裏山は田畑に手招きしながら歩き始めた。もはやババアの事など頭から失せているように見えた。


「もう、こんな事はやめた方がいい」


田畑は無意識の内にそう口ずさんでいた。裏山は歩みを止め、田畑の方を向いた。その表情には困惑の色が浮かんでいた。心底、彼が何でそのような事を言うのか不思議でたまらない、といった顔だった。


「何言ってんだお前」


「きっとすぐに騒ぎになる。君は加減を知らなさすぎる。人を消した数に加減もクソもないが。警察だって本腰を入れて捜査に取り掛かるぞ。そうなったらいくら君でも一巻の終わりさ」


裏山は笑い出した。小ばかにしたような笑みだった。


「心配すんなよ。俺は平気だって」


「君に犯罪者になってほしくはないんだよ僕は」


その言葉には本音も混じっていた。実際彼は腐っても田畑のただ一人の友人だったし、彼が警察に捕まったり殺されたりするのは本意ではない。


「言うに事かいて犯罪者とはひどいな、俺は地域貢献を目指してるだけなんだがな」


「消したものは戻す事も出来るんだよな。僕はいくら虐められようとかまわないさ、これ以上誰も消さないでくれ、そして野田や皆を戻してくれよ、お願いだ」


田畑は必死に懇願した。嘘偽りのない言葉だった。しかし逆効果だったのか、裏山の表情は次第に怒気を帯びていった。


「いいやごめんだね、そんな事は。この話は終わりだ」


裏山は背を向けた。


「頼むよ」


田畑は藁にも縋る思いで彼の肩に手をかけた。その直後、田畑は右の頬に衝撃を受け、地面に尻餅をついた。


裏山に殴られたと気付くまで数秒の時間を有した。

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