黒刃刀姫と水氷蒼刃 Ⅷ

「は? え? 正志!? おい!? どこいったんだ!?」


 空也は目の前で起きたことが理解できないでいた。


 つい先ほどまで隣で言葉を交わしていた友が、ふと目を離した隙に忽然と姿を消した。目を逸らした時間などほんの数秒にも満たない間だろう。その僅かな時間で、人一人が消えたのだ。


「おい! 正志! 居ないのか!?」


 尚も空也は叫ぶ。正志も同じ状況に陥っており、空也を見失っているのだがそんなことは空也にはわからない。いきなり人が消えるという事態にただただ困惑するしかない。


「空也! 落ち着いて! この靄、普通じゃありません!」


 空也の傍で黒亜が叫ぶ。どうやら黒亜は無事のようだ。黒亜は勤めて冷静に状況を分析する。


 夏の昼間に視界を覆うほど濃い靄。しかもすぐ近くにいた人間すらも見失うほどの。明らかに異常事態だった。そして、こんな異常な現象を発生させる原因を、黒亜はすぐに思い至る。


「空也、これは恐らく刀人の力です!」


 そう、自身と同じ刀人の力以外に考えられなかった。相手の狙いがわからないが、自分たちと無関係と切って捨てるにはあまりに楽観的過ぎるだろう。


「そういうことかよ……てことはあんまりぼーっとしてるわけにもいかないよな。黒亜!」


「はい!」


 空也と黒亜は互いに歩み寄り、手を取る。


「抜刀!」


 空也の雄叫びとともに、漆黒の闇が二人を包み込む。闇が晴れると、空也の手には一振りの漆黒の刀。抜刀された黒亜の姿だった。


 空也は正眼に構え、呼吸を落ち着ける。


 ――どこからくる


 心の中で呟き、神経を研ぎ澄ます。肌に纏わりつく靄はじっとりとして不快だ。一瞬、目の前の靄が不自然に揺れる。


「そこに、誰か居るのか!?」


 目の前に向かって声を張る空也。すると、数瞬の後、艶っぽい少女の声が周囲に響き渡った。


「あっはぁぁぁ、んふふふふ! やっぱり私と同じ帯刀者の力ぁ! 空也が同じ存在だったなんて、これって運命よねぇ!」


「だ、誰だ!?」


 自分の名前を知っていることに空也は驚く。どうやら相手は空也のことを知っているようだが、空也は響いてくる声に聞き覚えはなかった。


「あぁぁぁ! もう我慢できなぁい! 早くあたしのものにぃぃぃ!」


 会話がまるで成立しない。響いてくる声は、なにやら熱にうなされたように独り言を捲くし立てている。空也には過剰な反応を見せているようだが、空也と会話する気などさらさら無いようだ。


「くそ、なんなんだ!?」


 相手の意図が掴めず狼狽する空也。何時どこから敵が襲ってくるかも分からない状況に、徐々に神経をすり減らしていく。その時、また再び目の前の靄が揺らめいた。


「そこにいるんだろう!? こっちからいくぞ!」


 今の状況に痺れを切らした空也は、地面を蹴前方へ飛び出すと揺らめく靄へと峰打ちを放つ。だが、空也の攻撃は虚しく空を切る。


「そぉんなにあたしに会いたいのぉ? でもぉ、ざぁんねぇん!」


 少女の声は楽しげにからからと笑う。声は当たりに反響して正確な居場所がまるで分からない。しかし、次の瞬間――


「あたしはぁ、こ・っ・ち!」


 酷く甘い、優しい声が空也の右の耳元で囁かれる。艶かしい吐息が耳に触れ、鳥肌が立つ。


「うわ!?」


 反射的に刀を右薙ぎに切り払う。だが、またしてもその刃は空を切り、刀が作る空気の流れに靄だけが流されていくだけだった。


「こっちだってばぁ! ん~!」


 今度は逆の耳元で囁かれ、しかも左頬を生暖かい何かでべろりと撫で上げられる。


「うわ!?」


 今度は左側を切り払うが、やはり何も手応えが無い。左頬をシャツの袖で拭う。なんとも言えない、生臭さが鼻を突いた。どうやら頬を少女に舐められたらしい。


 空也は、理解の追いつかない相手の行動に戦慄する。攻撃してくるわけでもないが、かと言って空也に対し異常な執着を見せる相手。冷や汗と鳥肌が治まらない。


「なんなんだ!? あんた! 一体何が目的なんだ!?」


 恐怖を誤魔化すように声を張り上げる空也。すると、目の前の靄がすっと晴れ渡り、奥から一人の少女がゆっくりと歩いてきた。


 少女の水色の横髪がゆらゆらと揺れる。後ろ髪はショートで快活そうな印象を与えるが、水色の瞳に宿した妖しさが全てを打ち消していた。


 そして、手にはまるで水が刀を模ったかのような刃を持つ刀が握られていた。


「んふふふふふふ! そりゃ空也を私のものにすることかなぁ」


 少女はその桜色の唇を淫靡に吊り上げ、恍惚とした表情で答えた。会話としては成立しているが、空也には内容が一切理解できなかった。


「言ってることが全然わからねぇ……」


「ふふふ。わからなくてもいいの。私は私のしたいようにするだけだから」


 そう言って嗤うと、少女は再び姿を消す。


「っ!?」


 刀を構え直し、空也は周囲を見回す。が、少女の姿を捉えることは出来ない。


「無駄よ? この水霞天幕は距離感を狂わせるの。こんな風にね」


 そう少女の声が聞こえたかと思うと、鼻と鼻が触れ合わんばかりの距離に突然少女が現れる。


「っ!?」


 空也は溜まらず手にした刀の峰を少女に振るう。勢い良く振るわれた刀は少女を横薙ぎに真っ二つにするが、手応えは一切無い。上下に分かれた少女の像は靄の中へと消えていく。


「無駄無駄。そんなのじゃ当たんないよ? ふふふふ」


 その後も少女は空也を嘲笑うかのように出没と消失を繰り返す。どうやらこの靄の中では少女に圧倒的に分があるようだ。


「空也! このままでは!」


 黒亜がすっと現れ、周囲を警戒しながら叫ぶ。


「わかってる! 一か八か、黒滅で吸い込む!」


 このままではいつ相手の気まぐれで襲われるかわからない。であればこそ、莫大な威力の雷を飲み込んだ黒滅を発動させれば、靄を吸い込みこの状況を打破できるかもしれない。空也は黒滅を発動すべく神経を刀に集中させる。


「ふーん、黒滅、ねぇ……」


 少女は冷めた声で冷静に事態を見守る。


「……蒼。妨害しないの?」


 蒼と呼ばれた少女の脇に、長い水色の髪で左眼を覆った幼女が現れる。どうやら蒼の刀人のようだ。


「大丈夫だよ、すい。空也の力の確認も仕事だし。それに力の本質を理解してない奴の刀なんて怖くも無いよ」


「……そう」


 睡は物静かに答えると、再び姿を消す。


「さて、お手並み拝見かな?」


 蒼は手の中で刀をくるくると弄びながら、空也の持つ黒い刀に力が集束していくのを感じる。


「こんな靄、飲み込んでやる! 黒滅!」


 空也の手元に、強大な力が集束する。力はやがて漆黒の巨大な球体を形作り、球体は中心へと渦を捲きながら周囲の空気を吸い込み始めたのだった。

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