水氷蒼刃編

黒刃刀姫と水氷蒼刃 Ⅰ

 とあるホテルの一室。ベッドが軋む音と、肉が打ち付けあう生々しい音が部屋に響く。ベッドの上では一人の黒髪の少女が中年の男に組み伏せられていた。部屋にはむせ返るような獣欲の匂いが充満している。


 中年の男は切羽詰ったような声をあげ、少女もそれに呼応するに嬌声を発する。しかし、男の余裕の無さとは裏腹に少女の顔には呆れたような冷めた色が浮かんでいるが、男がそれに気づくことはない。


 ――早く終わらないかなぁ。後がつかえてるからあんま時間かけてらんないんだよね。後何人か相手しないとノルマ達成できないし。稼いで帰んないとママに殴られる……。


 少女は自身に覆いかぶさる男を冷めた瞳で見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。だが、男はそんな少女の思いを知る由も無く、ただひたすらに少女の上で動き続けるのだった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「やばいやばいやばい! 最っ悪っ! あの親父が時間かけすぎなんだよっ! 大して上手くもないくせにっ! 絶対ママに殴られる……!」


 少女は財布の中身を確認し焦った様に頭を掻き毟り、目を血走らせながらぼやく。そこには使金が詰まっているが、母親に課せられたノルマを満たすには十分ではなかった。


「やだやだやだ……殴られるのだけは……」


 少女は自身の親指の爪を噛みながら、祈るようにつぶやく。だが、祈るだけでこれから待つ運命を変えられるのならば、少女はとっくの昔に救われているはずなのだが現実はそうではなかった。


 少女はなんとか母親に殴られることを回避しようと頭を働かせるが、焦れば焦るほど頭は真っ白になっていき、結局、自宅のアパートに着くまで何も思い浮かぶことが無かった。いっそ帰らずに逃げてしまおうかとも思うが、そうした日にはさらに酷い折檻が待ち受けているのは目に見えている。それに、逃げたところでいく当ても無い。


 少女は震える手で玄関のドアノブを握る。周りは蒸し暑くうだる様な夜だというのに、金属で出来たドアノブだけは酷く冷たく感じられた。ドアノブをゆっくりと回し、扉を開ける。大きな音は立てていないはずなのだが、


「やっと帰ってきたの!? さっさとこっちに来い!」


 と、部屋の奥から怒号が飛んできた。少女は一瞬びくりと身を竦ませるが、すぐに靴を脱ぎ捨てて奥へと駆けて行く。殴られることは目に見えていたが、もたもたしていたら母親の機嫌を損ねるだけだというのは長年の経験で理解していた。キッチンと他に二部屋があるだけの大して広くも無いアパートの奥に、少女の母親が居た。


「さっさと見せな!」


 少女がおずおずと財布を差し出すと、母親はひったくるように財布を取り上げ中身を乱暴に取り出して確認する。紙幣が擦れる音だけが部屋に響く。母親は金額を数え終えると、少女の前に無言で立ち、平手打ちを食らわせた。少女は頬を押さえへたり込むと、さらに追い討ちを食らわせるように母親は腹に蹴りを食らわせる。


「少ねぇよ! 何やってたんだい!?」


「ぐぇ! ごめん、なさい! ごめんなさい!」


 これが少女の日常だった。表向きは一応学校に通ってはいるが、夜な夜な街に繰り出しては身体を使って男から金銭を受け取り、それが少なければ母親に殴られる。多くても母親の不機嫌を買えば蹴られる。悪夢のような家庭環境だった。援助交際だって自分の意思ではなく母親に強制されている。そうして稼いだ金は母親の浪費に消えていった。


「またやっているのか……」


 少女が亀のように丸まって嵐のように続く暴力から身を守っていると、玄関の方から男の声が聞こえてきた。男の声がした瞬間、永遠に続くかと思われた暴力は止み、その代わりに母親が艶かしい声を上げた。


「あぁん! おかえりぃ」

 

 母親は少女から興味を男の方へ移すと、その胸に飛び込みしなをつくる。


「この子がいけないんですよ? 言う事を守れないから……」


「なんでもいいが殺すなよ」


「はぁい」


 そうして男と母親は連れ立って隣の部屋に行ってしまう。少女は丸まったまま、目の前の畳を見つめ涙を流していた。父親が生きているときは何不自由なく、母親も怒りやすい人ではあったがそれでも幸せな家庭だったはずだ。それが父親が事故で死に、女手ひとつで家庭を支えなければいけない状況になって母親は変わってしまった。子供一人を育て、生きていくことに対する重圧に耐えられなかったのだろう。始めは怒ることが多くなり、次第に暴力が増えた。


 そしてストレスを発散させるために浪費が増え、家計はあっという間に火の車になった。少女も学校に通いながら必死でアルバイトをしたが追いつかなかった。そんなときに、母親はある研究――刀にまつわるもの、ということだけ少女は聞いていた――をしているという男に出会い、入れ込んでいった。


 その男は研究の協力者を探しており、少女は協力を請われた。少女自身は怪しげな研究に協力することなどとてもじゃないが気が進まなかった。しかし、母親は男に見捨てられないために少女に協力するよう命令する。この頃にはすでに母親からの暴力は常習化し、母親に逆らうという選択肢など出てこなかった。結局、少女は母親の言う事を聞くしかなく、渋々研究に協力することとなった。といっても今のところは肩に得体の知れない注射を打たれただけで、後は身体検査をする程度であった。研究所らしき場所に行く度、男は「対の刀人はまだみつからないのか!?」などと他の研究員を怒鳴り散らしていたが、少女にとってはどうでも良いことだった。


 一つ変化があったとすれば、いつの間にか右胸に雫型の水色の痣のようなものが浮かび上がっていたくらいか。年頃の少女の身体に気味の悪い痣があるというのも同情すべきことであるが、そんなことがどうでも良くなるようなことを少女は強いられていた。


 男と母親が消えていった部屋から嬌声が響いてくる。いつものことだ。隣に娘が居ようとお構いなし。男と母親が情事に耽っているのだ。少女は必死に耳を塞ぐが、どうしても漏れ聞こえてしまう。多感な時期に実の母親とよくわからない男の濡れ場を毎日のように聞き続けることは、少女の倫理観を捻じ曲げてしまうには十分だった。


「やだやだやだやだ……次は私だ……また今日もやられるんだ……」


 少女はがちがちと歯をならしながらぶつぶつとつぶやく。男は母親との情事が済むと、次は少女にその行為を強要していたのだ。ここでも逆らえば母親に殴られ、痛めつけられる。少女に救いは無かった。


 そんな地獄のような毎日がこれからも続くと、そう思っていたある日、少女の境遇が一変する事態が起きる。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 その日も、いつもどおり少女は何人かの男を相手にし、憂鬱な気持ちでアパートに帰ってきていた。がちゃり、とドアノブを回し玄関を開ける。いつもならばここで怒号が飛ぶはずなのだが今日はそれがなかった。代わりに奥から何かを言い争う声が聞こえてきた。


「……?」


 少女は後手でドアを閉めると、しばし玄関で佇む。玄関には男物の靴と母親がいつも履いている靴が脱ぎ散らかされている。いつもいる人間以外の靴はなかったが、だが明らかに聞き慣れない男の声が一つ混じっていることに少女は気づいた。


 少女はゆっくりと歩を進めキッチンを横切ると、わずかに開けられた襖の間から恐る恐る中の様子を伺う。


「なんなのよあんた!」


 母親の金切り声が耳を突く。少女の目に、へたり込む母親と厳しい目つきで目の前の人間を睨む男の姿、そして見知らぬ白髪の男が右手に真っ白な刀身の刀を握り、男と対峙してる光景が飛び込んできた。白髪の男の傍らには水色の髪の着物を着た幼女が佇んでいる。


「その水色の髪! 水氷――がっ!」


 男が何かに気づく。だが男が何かを言い終える前に、白髪の男が刀の峰で男の頬を殴り飛ばしていた。


「余計なことは喋るな。お前はただ俺の問いに答えればいい。……帯刀者はどこだ?」


「ははは! やっと、やっと見つけたぞ! これで私も――」


 男は目の前に居る水色の髪の少女に血走った眼を向け、歓喜に打ち震える。白髪の男の問いなどもはや眼中になかった。白髪の男は目を細め男に近づくと、手にした刀で太腿を貫く。


「ぎゃああああ!」


「きゃああああああああ!」


 男は痛みによる悲鳴を、母親は目の前で刀で人が斬りつけられた恐怖による悲鳴を上げていた。その光景に対する恐怖を抱いたのは母親だけでなく、当然その光景を覗いていた少女自身も恐怖に身体が支配されていた。


「ひぅっ!」


 短い悲鳴と共に、どすんと尻餅をついてしまう少女。白髪の男がその音を聞き逃すはずがなく、刀を男の太腿から引き抜くとその勢いのまま横薙ぎに襖を切り裂く。


 真っ二つに両断された襖が無残に崩れ落ちると、腰を抜かし恐怖に震える少女と白髪の男を遮るものがなくなってしまう。


「この家の娘か? 見られたのなら――」


 消すまでだ。と言かけて、白髪の男は自身の服の裾が引っ張られていることに気づく。水色の髪の幼女がくいくいと服を引っ張っていた。


「どうした? いや、そうか。この娘がそうなのか。ならば――」


 白髪の男はそこまで言って、刀をへたり込む少女目掛けて左上から袈裟切りに振るう。少女は己の死を覚悟し目を瞑るが、痛みが襲ってくることはなかった。代わりに胸元が少し涼しくなったのを感じ、少女は目を開ける。そこには露になった自身の胸元があった。


「やはりお前が帯刀者だったか」


 白髪の男は少女の胸元にある雫型の痣を見ると、一人で納得したように呟いた。少女は見知らぬ男に胸元を見られた羞恥心から、がばっと両腕で胸元を隠す。少女はわけが分からないまま、涙目で白髪の男を睨んだ。


「気概はあるようだな。の帯刀者としては及第か。お前はどうだ?」


 白髪の男は少女の視線など意に介さず、幼女の頭を撫でながら問う。幼女はこくりと頷くと、とことこと歩き少女の傍に屈み手を取る。


「え? え? なに?」


 急に幼女に触れられ、少女は困惑する。不審な男と幼女が急に現れて意味不明な単語を話す上に、いきなり接触されては困惑するなと言うほうが無理があるだろう。だが、そんな少女の様子など気にすることも無く、幼女はその消え入りそうな幼い声で、


「……抜刀、して」


 と囁いた。その声には不思議な安心感があると少女は感じていたが、その思いを吹き飛ばすような怒号が飛ぶ。


「そうだ! 抜刀だ! 抜刀して!」


 叫んだのは太腿から大量の血を流し、苦悶の表情を浮かべた男だった。男の叫びを聞いた瞬間、少女を激しい頭痛が襲う。


「あぐっ!」


 少女はこめかみを押さえながら脂汗を浮かべ荒い呼吸をする。眼前が紫色に明滅し、思考も上手く纏まらない。しかし、一つだけ自身の中に確たる想いがあることを実感する。それは、男を護らなければならないという想いだった。


 少女は傍に居た幼女の手を取ると、苦しそうに呟く。


「……抜、刀!」


 その瞬間、二人は水流に包まれる。渦巻く水流が収まると幼女の姿は消え、代わりに髪が水色に染まった少女が、刃渡り七十センチほどでほとんど反りのない透き通った水色の刀を手にしていた。


「どうだ?」


 超常的な現象が目の前で起きている上に、男が不穏な発言をしていたというのに白髪の男は全く動じることなく虚空に問う。すると、刀から幼女の霊体が現れ応える。


「……いい感じ」


「そうか」


 白髪の男と幼女が周りを無視して話を進めていると、男が堪らず声を上げる。


「何をしている! 早くその男を始末しろ!」


 男の叫びに呼応するかのように、少女は頭を押さえながらゆらりと刀を構える。今まで自分のことを弄んできた男を護ろうと、白髪の男の前に立ちはだかっていた。少女からすれば憎んでもおかしくない扱いを受けて護る義理も理由もないというのに、今の少女には男を護ること意外考えられなかった。

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