黒刃刀姫と黄金雷刀 Ⅷ

「昨日はさんざんだった……」


 空也は開口一番、そんなことを呟いた。目の前には太陽の光を浴びて鈍く輝く銀色の鍋。中では、野菜や肉が水の底で沈黙している。


 酷い異臭を放ちながら。


 昨日、空也はスーパーで買い物をしたあと、そのまま帰宅し、夕食を作り始めた。


 買ってきた材料は、人参、玉葱、ジャガイモ、豚肉。メニューはカレー、のつもりだった。しかし――


「昨夜発生した大規模停電ですが、原因は落雷であったことが判明しました」


 空也は胡乱な目でテレビを見つめる。


 壁際に置かれたテレビが、カレーがカレー足り得なかった理由の答えを告げていた。


 昨夜の晩、この街の八割の世帯が停電にみまわれた。空也のアパートも例外ではなかった。


 停電が起こったのは、普段なら食事を作り、後片付けをして一息ついている時間帯だった。


 空也としては停電ぐらいどうということはない。弊害としては、テレビが見れなくなるぐらいで、やることがなければ寝ればいいし、懐中電灯の明かりで本を読んだりすることだって出来る。


 そう、普段ならば。


 だが、昨日は運が悪かった。少し手の込んだことをしようとして裏目に出た。玉葱を微塵にし、狐色になるまで炒め、つづいて人参、ジャガイモ、肉などカレーの材料を仕込み、あとは煮て、ルゥを入れるだけと言う矢先、停電は起こった。


 空也のアパートはオール電化。つまり、カレーが煮込めない。挙句、停電が復旧するのに一晩掛かった。カレーが煮込めなければ夕食は抜き。そう思い立った瞬間、空也は考えるのが面倒になり、空腹のまま不貞寝した。鍋のまま冷蔵庫に入れるなりすれば、食事は無駄にならずに済んだかもしれないが、もう後の祭り。結局、カレーはカレーになりきれないまま食材としての機能を失い、朝を迎えることになったのだった。


「くっせぇ。どうすんだよ、これ……ただでさえ金無いってのに……冷蔵庫入れときゃよかった」


 異臭が空也の鼻を突くたび、軽い吐き気が催される。空也は、昨日不貞寝したことを悔やんだ。時既に遅し、だが。


「はぁ。もうどうしようもないし、これ捨てて学校行くか」


 もったいないとは思うものの、腐ってしまった食材を元に戻すなんてことは出来るはずもなく、空也は鼻を摘みながら、鍋の中身を処理し学校へ向かうことにするのだった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 空也は、がらりとドアを開けて見慣れた教室に入る。入った瞬間、昨日よりもさらに学生達が浮き足立っているということを、肌で感じることが出来た。


「浮かれまくってるな」


 空也は小さく、ぼそりと呟く。


 始業チャイムがなる前の教室。学生達は思い思いの場所で、友達と、または一人で思い思いの時間を過ごしている。空也はそんな中を縫うように通り抜け、自分の席へ向かった。


「おっす。空也」


 空也が席に座ると、声を掛けてくる人物がいた。この教室で空也に声を掛ける人間など、ほとんど居ないので、それが誰かはすぐに分かった。


「ああ、正志か。おはよう」


 正志は鮮やかな赤い髪を揺らして、空也の方へと向かってくる。


「どうしたよ? テンション低くねぇ?」


 正志は空也の前の席に軽く寄りかかって、顔を覗きこんでくる。空也は視線を逸らして一言、


「昨日の停電が原因で、ちょっとな」


 だるそうに答えた。


「あー、お前ん家オール電化だもんな。停電はきついよな」


「ご明察。文明の利器ってのも考えものだ」


 ふぅ。と頬杖をしながら小さくため息をつく空也。ガスはガスでまた金が掛かるんだよなぁ、などと取りとめもないことを考えていると、正志が前髪をいじりながらぶっきらぼうに言った。


「そういや、昨日の停電なんだけどよ、なんかおかしいらしいぜ?」


「おかしい? なにが?」


 停電におかしいもなにもあるのだろうか。今朝のニュースでは、落雷が原因だと報道していた。空也には特に不審な点はないように思えた。


「ああ。なんかよ、雷が落ちたってのがオフィス街の路地裏らしくてよ、普通、雷ってそんなとこ落ちなくねぇか? 挙句、近くに居た男に落ちたとかなんとか」


 本来ならば、雷は稲妻停止位置と電撃距離の兼ね合いから、高所や背の高いものに落ちやすい。住宅街やオフィス街に落ちたとして、街の高い建物に落ちるはずであり、路地裏に落ちることはまずないだろう。路地裏に到達する前に、ビルや電信柱なりに落ちているはずだ。


「言われてみれば、確かに。そもそも昨日、天気よかったよな。というか昨日の雷に打たれた人がいるのか?」


「晴れてるのに雷が落ちて、しかも当たるなんて、運悪ぃよな。意識不明の重体だってよ」


 全く以って、不運としか言い様がないだろう。通常ならばほぼ落ちることのない路地裏に雷が落ちた上、さらにその雷に打たれたのだから、不運、不幸以外には言い表せない。


 空也と正志が停電について話していると、教室の黒板側のドアが開き、中年教師が入ってきてぴしゃりと一言、


「お前達、席に着け。朝礼始めるぞ。」


 と、言い放つ。


 それを聞いた学生達はぞろぞろと自分達の席に着いた。


「今日はこのあと終業式のため、授業は無いが、だからと言ってだらだらするなよ!」


 教師のお決まりの文句によって、一学期最後の学校生活が幕を開けるのだった。


 相変わらず、太陽はぎらぎらと照りつけ、空気は暑苦しい、夏の日だった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 その後、朝礼は終わり、終業式も滞りなく進められた。校長の意味もなく冗長な話や生徒指導を担当する教師による、決まりきった夏休みの生活指導。無論、夏休みと言う一大イベントの前に、教師達の小言に耳を傾ける学生などほとんどいなかった。寝ている学生も居れば、友達同士でこそこそと雑談をしている学生も居る。どこにでも溢れている、終業式の光景だった。


 終業式が終わると掃除の時間だった。学生達は決められた場所の清掃をする。掃除用具で遊ぶ学生、真面目に掃除をする学生。さまざまな光景が校内で広がっていた。


 そうこうしているうちに、あっという間に時間は過ぎ去り、もう終わりのホームルーム。


 教室は、がやがやと五月蝿い。


「明日から夏休みだが、あまりハメを外し過ぎるなよ! それと、ここ最近天候が安定していないのか、雷が頻発し落雷による被害者も出ている。外出時にはくれぐれも気をつけるように。以上!」


 浮かれきった教室の雰囲気と、自分の学生時代を重ねて、少しばかり懐かしく思いながら、教師は言うべきことを言ってホームルームを締めくくる。


「起立! 礼!」


 クラス委員長の女子が号令をかけて、終わりのホームルームが終了した。


 ホームルームが終わり、学校を出て空也は学生達の波をざっと眺める。


 これから夏休みを迎える学生達の間には地に足がついていないような、そんなふわふわとした雰囲気が充満していた。


 自分もその雰囲気を纏っているのだろうことを感じながらも、そんな学生達をどこかさめた視線で一瞥すると、空也は後ろにいた正志に声を掛けた。


「正志、今日はこれから暇なのか?」


 下駄箱で靴を履き替えていた正志は、済まなさそうな様子で謝る。


「悪い。今日、バイトなんだよ」


「そうか。それじゃ仕方ないな」


「空也はどっか行くのかよ?」


「ああ。暇つぶしに本屋でもいって、立ち読みでもしようかと」


「買わないのかよ?」


 言われた空也は財布を取り出し、全財産を正志に見せた。


「俺が悪かった」


 それを見た正志は、空也の肩にぽんっと手を置いて哀れみの視線を向けて、また謝った。


 全財産は千二十円だった。


 空也は、後一週間を千二十円で暮らさなければならない。本を買っている金など、持ち合わせてはいなかった。


 だからこそ極力金を使わずに暇を潰すための行為として、空也は立ち読みを選択したのだった。


「行かないという手もあるけど、家に居ても暇だからな。適当に金を掛けずに時間つぶしだ」


「先立つものがないのは辛いねぇ。バイトしねーのかよ?」


「バイトか。まぁ、考えとく」


 空也はぶっきらぼうに答えて、校門に向けて歩き出す。


「うわ、テキトー。まぁいいか。じゃあな!空也!!」


 背中に正志の呆れたような声を受けて、空也は学校を後にした。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 空也は駅前の書店に向かう。どことなく普段より足取りが軽い気がする。


 そんなとき、前から女子高生数人が歩いてきた。


「ねぇ、夏休みどうする?」


「海でも行く?」


「いいね! 行こ! 海!」


「行こ! 行こ!」


 そんなはしゃぐ女子高生を眺めながら、空也は何故自分の足取りが軽いのか、理解した。


「俺も、例に漏れず夏休みが楽しみってわけか。」


 空也はふっ、と自嘲気味に軽く笑う。


 時折すれ違う学生は、皆、どこか開放感に包まれたように軽やかに歩を進める。


 夏休みなど、特にどうとも思っていないはずだった空也だが、気付いてみるとどうやら割と夏休みが楽しみだったらしい。


「やることなんてないのにな」


 そんな風に、自分の様子や他愛もないことを考えているうちに、いつのまにか書店についていた。


 この街で一番大きい書店だ。駅周辺のビルに出店しており、地下に専門書類、一階が雑誌や文庫類という造りになっている。駅に近く、また大通りにも面しているため立地がよく、老若男女、多種多様な人が訪れる。 


 空也が自動ドアの前に立つと、ウィーン、と低い微かな唸りをあげてドアが開く。


 紙独特の匂いが、空也の鼻腔をくすぐった。


 空也はこの匂いが好きだった。この紙の匂いを嗅ぐと、気持ちが安らぐからだ。


「やっぱり、本の匂いはいいな。さて、何を読むかな」


 空也は軽く書店の中を見回し、雑誌のコーナーから文庫へと適当に本を取り読んでいった。

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