黒刃刀姫と黄金雷刀 Ⅵ

 秋は、衰弱していた女性を病院へ連れて行くために、土手を歩いていた。


 救急車を呼ぶことも考えたが、如何せん、秋は携帯を持っていない。引きこもりの出来損ないが、携帯を契約できるだけの金銭など微塵も持ち合わせているはずもなく、親も出来損ないの息子に携帯を持たせる理由が無かった。そして、周りの誰かに助けを求めようにも、声をけるだけの勇気が持てない。


 結果、秋の腕の中には、右手で頭を、左手で膝裏を支えるように女性が抱えられている。所謂、お姫様抱っこの形だ。


 腕に掛かる重みは、とても人間一人分とは思えないほど、軽かった。引きこもりの秋でも、休み休み行けば、なんとか病院へたどり着けるだろう軽さだった。それに不思議と、この女性のためなら、秋はどこまでも頑張れる気がした。


 一陣の風が二人を撫でる。まだいくらか肌寒い春の風。秋は、水に濡れた女性が冷えないように、なるべく風が女性に当たらないよう小さく女性を抱えていた。


「主様。私は……一人で歩けます。主様にご迷惑をかけるわけには……」


 女性は、腕の中でこそばゆそうに小さく悶えながら言った。


 女性とはいえ、身長は秋と同じか少し小さいくらい。女性の力でも、引きこもりで鈍りきった軟弱な秋の腕くらい、全力を出せば振りほどけるはずだ。しかし、女性はそうはしなかった。というより、出来なかったのだろう。


 話す分にはそれほど問題ないようだが、それにしても衰弱した様を見せられたら、とてもじゃないが一人で歩かせるわけにはいかなかった。


「い、いいから。そんな弱りきった、体であ、歩けるかよ。び、病院まで連れてってやるから」


「病、院……?」


 女性は、不思議そうな表情を浮かべた。


「病院だよ。し、知らないわけじゃないだろ? か、風邪とかひいたらいくとこ……」


「言葉だけは」


「えっ!? じ、じゃ、風邪とか、怪我とかしたら、どうしてたんだ?」


「別にどうとも。働き続けました。私が奉公していた家にしてみれば、奴隷のような存在が一人二人壊れようとも差し支えなかったのでしょう」


 女性は苦虫を噛み潰したような表情で答えた。


「ほ、奉公?奴隷?」


 上手く話が噛み合わない。


 今の時代に奉公だの奴隷だの、国によってはあるのかもしれないが、秋のいるこの国では、少なくとも数百年前ぐらいに存在したであろう言葉だった。


 どうやら女性は相当に文化圏が違うところから来たらしい。


「……そ、そもそも、な、なんであんなところに? こ、このご時勢に、じ、尋常じゃない……」


 秋は女性を発見したときからの疑問を投げかけてみる。


 川で行き倒れていた女性。


 出会ったばかりの秋のことを主様と言い出す上に、奉公だの奴隷だの、今の時代背景には到底そぐわない言葉を連発している。解けない疑問が、秋の中に浮かんでは、海底に溜まるヘドロのように堆積していった。


「倒れていた理由、ですか? 仕えていた家に捨てられ、始末されそうになり逃げた……からです」


 女性は何事も無かったかのように答えた。


「す、捨てられて、に、逃げた?し、始末?」


「はい」


 秋は女性の言葉の意図が掴めなかった。


 捨てる――不用の物として投げ出す、見限る。当然、言葉の意味は知っている。


 だが、その言葉を人に、しかも例示ではなく、そのままの意味で適用するということに違和感を覚えた。挙句、始末までされそうになったと。言っている意味がわからなかった。


「い、いやいや、す、捨てるって……。物じゃないん、だからよ……」


 女性は、俯いて消え入るような声で呟く。


「物です。私は。今まで人としての扱いなど、受けたことはありません」


「は? え?」


 秋は言葉に詰まった。もはや時代錯誤などというレベルではない。


 人一人がモノとしての扱いを受けていた。それはもう、秋の理解の範疇を超えている。


 現代の法制度の下において、そんなことがあり得るはずがないという思いと、自分が知らない世界では、日常茶飯事のように行われていることなのかという思いがごちゃ混ぜになって、呆然とするしかなかった。


 女性は、なおも話す。


「私は幼い頃、森の中に捨てられ、ある旧家に拾われました」


 女性は遠く、悠然とそびえる山々を、秋の腕の中からじっと見つめていた。


 山の向こうにでもその旧家とやらがあるのだろうか。秋には見当もつかなかったが、秋もなんとなく山麓の方向を眺めた。


「その家で、私は昼夜を問わず働かされました。着るものは襤褸切ればかり、食べ物も残飯を漁って食べつないで、時には同じ下人の男共に嬲られ辱められ……わずかな睡眠時間は馬や豚と同じ小屋で寝ました。冬は、動物達の体温に何度助けられたかなぁ」


 女性は壮絶な過去を、親が子に昔話をするような、とても穏やかな口調で話し続けた。


「そんな生活がどれほど続いたでしょうか。気付けば、私は十九になっていました」


 女性は一呼吸置く。秋の腕を握る手は微かに震え、力が込められていた。秋には、女性が次に何を話すのか、予想はついていた。


 平日の昼下がり。川の流れは穏やかで、水面は静かに揺れる。二人が歩く土手には、土筆が暢気に顔を覗かせていた。女性の口からは、秋の予想通りの言葉が紡がれた。


「そして、私は……捨てられました」


「…………」


 一陣の風が、無遠慮に二人を撫でた。


 太陽は、鬱陶しいほどに街を、世界を、明るく照らしていた。


「新しい奉公人が見つかったと言い渡され、最後には猟犬と猟師の練習台にされました。命からがら山中を彷徨い、山を降りようにも麓の者達からは疎まれ、行く当てもありませんでした。洞穴で雨水とわずかに手に入る木の実で飢えをしのぎました。屋敷からの猟犬と猟師は飽きたのか追ってくることはありませんでしたが、雨が降りしきる中、足を滑らせて崖から転落しました。そこからの記憶はありません。気付いたら目の前に主様がおられたのです」


 二人の間に、沈黙が流れる。秋は何も言えなかった。


 当然だった。そんな壮絶な人生を、秋はドラマか時代劇の中でしか聞いたことがなかった。現代においてそんなことがあるなんて、想像さえしたことがなかった。想像することなどできなかった。


 秋の住んでいる世界は、秋から見たら、とても色あせていて、くだらないものにしか見えないけれど、それでも平和ではあった。


 だが、女性のいた世界は違う。明日の食べ物にも事欠く毎日。衣食住が保障されているなんて、とてもじゃないが言えない世界。


 住んでいる世界が違いすぎて、秋は女性に掛ける言葉を持ち合わせていなかった。


 ただ、無言で病院に向けて土手を歩くしかなかった。


 空はこんなに晴れていて、河はこんなに静かにゆったり流れているのに。


 世界は、空の下で一つじゃなかった。


 世界がとても欺瞞に満ちているような気がして、全てが嘘のように思えて、やるせない感情が溢れ出しそうだった。


「……主様?」


 黙って歩き続ける秋の様子を見て、何か機嫌を損なうことをしたと思ったのか、女性が恐る恐る声を掛けてきた。


 女性が不安そうな表情で自分を見上げていることに気付いた秋は我に返る。


「え、あ、な、なんでもない……」


 何を言っても只の気休めにしかならない気がして、女性を気遣う言葉はやはり出てこなかった。代わりに、もう一つ疑問に思っていることが口をついていた。


「と、ところで、さっきから、お、俺のこと『主様』って言ってるけど、ど、どういうこと?」


 この女性は秋に会ったときに、まるで絵本の中の王子様を見るかのような目で秋を見つめ、そして秋のことを『主様』と呼んでいた。


 秋には、見ず知らずの女性から主と呼ばれるようなことは、先ほど助けたことを加味しても、全く身に覚えが無かった。というより、引きこもりをしている身にそんなことがあり得るはずが無いのだが――。


 実際、女性に主と呼ばれている。


 秋にしてみれば、美しい女性に主と呼ばれて悪い気はしないのだが、それにしたって、いまひとつ釈然としない。


 しかし、そんな秋に対して女性は、何を可笑しなことを言っているんだという風に小首をかしげ、さも当然のようにきっぱりと答えた。


「主様が私の主様であることは、生まれたときより決まっているのです」


「は? う、生まれたときから?」


「はい。そうです。生まれたときからです」


 秋は目眩がした。


 もしかして、とても大変な人を助けたのではないだろうかと。実は今までの話はこの女性の妄想で、かなり電波な人なのではないかと。


 秋は女性に気付かれないように、小さくため息をついて、女性の話の続きを聞く。


「まさか、私の主様――『帯刀者』になるべきお方に出逢えるなんて……」


 秋の耳に入ってくる、聞きなれない電波な単語。


 帯刀者。


 もちろん秋は、今までそんな単語は聞いたことが無かった。


 だから、その意味を女性に尋ねる。取り敢えず話を合わせようとか、そんな軽い気持ちで。


「そ、その帯刀者ってなに?」


 その意味を聞くことは、自分が知っている常識に包まれた世界の外側に位置する事だと、そんなことは欠片も考えずに尋ねた。


「仕えていた屋敷の書庫にあった古い書物に書かれたいたことですが、曰く帯刀者とは刀人を『刀』として扱うことの出来る、稀有な存在、ということです」


 今の自分の顔を見たら、口を広げてさぞや間抜けな顔をしているだろう。そう思えるほどに、秋は呆気に取られていた。


 もはや意味が分からないとかのレベルではない。女性の言葉が異国のそれであるかのように感じた。


 だが女性は、そんな秋を尻目に説明を続ける。


「帯刀者は刀人の力を引き出せる唯一の存在。その力は刀人それぞれで違うらしいのですが、常人には計り知れないほどの圧倒的な力だということです。そしてその書物からは私が刀人であるということもわかりました」


 女性は少しはにかんだ様な表情を見せた。


 秋は全く話についていけない。


 自分が帯刀者?刀人を扱う?一体どこの漫画や小説の話なのだろうか。滑稽すぎて吹きだしそうな程だった。


 女性の説明は続く。


「私も……最初は信じられませんでした。ただ、日々の苦しい生活の中で何かに縋りたかった……。私の中で帯刀者の存在は大きくなっていきました。御伽話かもしれない、夢幻かもしれない、それでも帯刀者がいるはずと願うことは、わずかな希望だったのです。必要とされたことなどない、いらなくなれば打ち捨てられるような私でも、必要としてくれる誰かが居るのだと、そう思っていたかった。」


 女性は、秋の服をぎゅっと掴む。やっと手に入れた希望を決して離さないように。強く、強く。


「そして……本当に希望に、帯刀者に、主様に…………巡り会えました」


 女性は熱っぽい視線で秋を見つめる。


 美しい女性に見つめられてどぎまぎした秋は、つい目を逸らす。


「そ、それで、なんで俺が、そ、その帯刀者とかいうのになるの?」


「それは……」


 女性は、秋の左手の甲を優しく撫でる。


 そこには、長年秋を苦しめた稲妻型の痣。


「この痣です」


「あ、痣?」


「はい。対となる帯刀者と刀人には、同じ痣が体に刻まれているのです。これもその書物から得た知識でしかないのですが。私の右手、お気付きになりませんでしたか?」


 そう言うと、女性は微笑みながら秋の目の前に自分の右手甲を持ってくる。


 秋は息を飲んだ。


 そこには、秋の左手と同じ、稲妻型の痣があった。


「主様の痣を見たとき、帯刀者の存在を真に信じることができるようになりました。ですから、主様は私の主様なのです」


 女性はにっこり笑う。花も恥らう、太陽も陰りを見せる、綺麗で無邪気な笑顔だった。


 女性に見とれながらも、秋は、


「お、俺が、帯刀者?」


 未だに状況についていけなかった。頭では理解している。理屈もわかる。女性の話は、確かに筋が通っているように思える。


 だが、それも古臭い本に書かれていたことで、真偽なんて定かでないどころか、どう考えても嘘っぱちにしか思えない。それで今の女性の話を信じろというのか。非科学的で非現実的な話を。帯刀者と刀人とかいう話を。


 秋は眩暈がする思いであった。

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