黒刃刀姫と黄金雷刀 Ⅴ
空也が黒麗の少女と出会う日より、幾ばくか前の話――
その日、
「…………うざいな」
外は雲ひとつ無く、陽光が惜しみなく降り注ぎ、まさに快晴と呼ぶに相応しい天気。だがそれは、社会と関係を持たず部屋に引きこもってばかりの秋にしてみれば、忌々しいほどに清々しい天気だった。
今日の朝方までパソコンでゲームをしていたせいか、嫌に光を眩しく感じる。
ベッド脇の机に置いた眼鏡を探し、手が空中を彷徨う。
かちゃり、と眼鏡のフレームが手に当たり、軽い音を鳴らした。見つけた眼鏡を掛けると、少しずつ寝起きの気だるさが取れてきた。
「もう昼か……」
テレビの上に置かれた時計を見ると、長針と短針がちょうど上を向いて重なる時刻、つまり昼の十二時を指していた。
ぐぅぅぅぅ。
引きこもりとはいえ、空腹には勝てない。
小さくため息をつくと、秋はパソコンや漫画、小説などでごった返している自室を出て、階段を下りた。
リビングのドアの前に立ち、軽く深呼吸をする秋。平日の真っ昼間。家には誰もいないとわかっていても、自分の部屋以外ではどうしても落ち着くことができなかった。
気持ちを落ち着かせて、いざリビングのドアノブに手を掛けようとしたとき、ガチャリ、と不意にドアが開いた。
秋の心臓は飛び跳ねた。誰も居ないはずなのに、何故ドアが勝手に開くのか。その答えは、すぐに分かる。が、それは同時に秋を最も不快にさせる理由だった。
妹がドアノブに手を掛けた姿勢のまま立っていた。
今日が、妹の学校の創立記念日だということを、秋は思い出した。妹を前に立ちすくむ秋。
妹は一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、自分の向かいに立っている人間が秋だと分かると、蔑むような視線で一瞥し、小さく舌打ちをしてさっさと自分の部屋へ行ってしまった。
一人残された秋は、少しの安堵と共に、妹に見下された惨めな暗い気分に包まれていた。
成績優秀、スポーツもこなせて、人当たりも良い、雷鎚家自慢の妹。
大学を一年と持たず中退し、家に引きこもっている出来損ないの兄とは、一線を隔する存在。
両親は優秀な妹を贔屓し、出来損ないの兄は邪魔者扱いし、いつしか無視するようになった。それは妹にも伝染し、家の中で会っても先ほどのように冷たい見下した視線を向けるだけで、挨拶すら交わさなかった。
妹が去った後、リビングに入るとキッチンの脇に置いてある、秋の背丈を優に越える大きさの冷蔵庫のドアを開く。中から冷気が流れてきて、その冷たさが心地よくもあり、またどこか空しくもあった。
冷蔵庫の中には、これといった食べ物は入っていなかった。
秋は渋々ニット帽をかぶり、ジャージを羽織ってコンビニへ食べ物を買いに行くことにした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……はぁぁぁ」
秋はコンビニを出て大きなため息をついた。
引きこもってから三年近くが経ち、家でも秋と話す人間はいない。生きるために不可欠な対人能力など、人と接しなければ風雨にさらされた岩石が脆く崩れ去るように、あっという間に風化していく。そんな人間が、人と自然に接することができるわけがない。レジでの店員とのやり取りも終始、落ち着きが無く挙動不審だった。店員から白い目で見られ、ただのコンビニでの会計を一世一代の大勝負のように感じ、ひどく狼狽した。
「どいつもこいつも……クソ共が」
一人とぼとぼと歩く秋の口から漏れるのは、さんさんと輝く太陽とは真逆の、他者を呪う陰鬱な言葉だった。
家では無視され、いないものとして扱われ続ける日々。
小学校から高校まで、通った学校では苛められ、何か変わるはずと一念発起して入った大学でさえも孤立し、結局学業の道からも離脱した。
挙句の果てに見ず知らずのコンビニの店員にすら、卑下の視線を浴びせられる始末。
一体いつからこんな風になってしまったのか、などという瑣末で矮小な疑問を考えることは、とうの昔に放棄した。
ただ一つ、一つだけはっきりとしていることがあった。
秋は視線を自分の左手の甲に落とした。そこには、稲妻型の黄色い痣。生まれたときからあった、正体不明の痣。
この痣は、家に居場所がなかった秋の唯一の救い足り得たかもしれない、外での、学校での生活をも、奪った。
小学生の時――子供というものは無邪気な悪意を振りまくことに長けている。秋の手の甲の痣が、『気持ち悪い』。ただそれだけで、秋はクラスメイトから苛められた。人以下、雑菌扱いされた。救いの手を差し伸べてくれる友もおらず、苛めを止めるはずの教師など、苛めは良くない、とわかりきったことを注意して終わるだけ。
それでは、表面上苛めは見えなくなっても、水面下ではより陰湿にことが進むだけだった。
中学生の時――学校という入れ物が変われど、その中身である生徒は小学校からの繰り上がり。顔ぶれはほとんど変わらない。小学生の頃秋を苛めていた児童は、そのまま中学校の生徒になる。当然、苛めは続く。より陰険に、邪悪に、そして人目につかないほど静寂に。手持ちの金は巻き上げられ、面白半分に便器に溜まった水を飲まされた。
高校生の時――苛められ続けても、なんとか高校に合格した。晴れて秋を苛め続けていた人間達とも別れの時が来る。高校に入学するも、その時には既に性格は破綻し、人付き合いなど過去と共に置き去りにした状態だった。クラスメイトと口を利こうとしない、口を利けない秋に周りは不快感と嫌悪感を抱き、やがては排除の対象となった。
大学の時――きっと、きっと大学なら何か変わるかも知れない。微かな希望を抱いて大学に入学。だが対人能力が皆無な人間が上手くいくはずも無く孤立した。そもそも、『変わるかも』などと願望を抱いている時点で、自分で変わる気がない人間が上手くいかないのは明白だった。結果、一年と持たず退学した。
その後、家族に働けといわれ、なんとか就職するも、職場でも苛められた。君みたいなのは世界にごまんといるんだよ、など聞き飽きたような台詞を吐き、立場を利用して秋を貶める上司、日々のストレスを発散するための道具としてしか秋を見ない同僚。屑ばかりの世界に耐えられなくなって、半年と持たずに辞めた。
そして、今に至る。世間を、世界を、他人を、家族を、自分自身を呪う毎日。逃避の先は架空の電子の世界。いっそ死ねれば楽になれるだろうかとも思ったが、死ぬのは単純に怖かった。
結局、世界は秋を必要としなかった。必要とされる存在に、秋はなれなかった。必要ないものに対しては、世界は、世間は冷酷で無関心だった。
自分を必要としない世界など、壊してやりたいと、いつしか秋はそう思うようになった。
だが、そんなことができる力も、気概もないことは誰よりも秋自身がわかっている。
やはり、秋には世界を呪うことしかできなかった。
コンビニを出てから、当ても無く歩く。家には妹がいる。顔を合わせたくない。自然と足が家から遠ざかる。平日の昼間、主婦や散歩中の老人、子供を連れた母親とすれ違った。
どの人たちも幸せが顔に書いてあるようで、それが鬱陶しく、妬ましく、そして眩しくて、目を逸らして下を向いて歩いた。
気づくと、街を分断する河川に掛かる橋へと来ていた。
欄干にもたれかかり、日差しで爛々と反射する水面を眺めながら、コンビニで買った昼食を摂った。
すきっ腹が満たされるのを感じたが、冷たいおにぎりと、薄っぺらなハムが挟まったサンドウィッチは、大して旨くもなかった。
食べ終わり、ペットボトルのお茶で喉を潤す。川に目を落とすと、やはり水面はきらきら輝いていた。
「ちっ。これだから晴れっつー天気は。なんでもかんでもバカの一つ覚えみたいに照らしやがって」
秋の陰鬱な気分は、爽快な天候によってさらに酷さを増していった。
「はあぁぁぁぁ…………ん?」
ため息をつくと幸せが逃げると言うが、そもそも逃げる幸せすら無い人間の場合、ため息をついたら何が逃げるのか、などというつまらない考えを巡らしながらふと川べりに目をやると、不自然な輝きが飛び込んできた。
それは、太陽に照らされた水面とは違う、もっと目の覚める、稲光が走ったときのような、目映い黄金色の煌きをしているように見えた。
「何だ……? ……って、あれ、人か!?」
目を凝らしてその煌きをよく見ると、人が川べりに漂着しているように見えた。
「人、だよな? 遠くてよくわかんねぇけど。なんで誰も気づいてねぇんだ!?」
橋の上を歩く人々は、川べりの人物に、ましてそこから発せられている煌きにさえも、全く気づいていないようだった。
見間違いかもしれないと思い、何度も何度も確認するが、一度、人のように見えてしまうと、どうしても人以外の何物でもないように見えてしまう。
秋の足は、自然とその煌きの元へ向いていた。
そのまま見捨てることも出来た。
ただ、そうしてしまうと後味が悪いような気がしたし、何より、不謹慎ながら、倒れている人を助けるということよりも、その煌きに魅せられていることの方が大きかった。
川べりに近づくにつれ、その人のような何かが、はっきりと輪郭を帯びてくる。
やはり、人だった。
それも、尋常ではないくらいの美しい女性。
歳は秋とそう変わらないだろう。着ているものはみすぼらしい襤褸で、体中についている擦り傷や切り傷、打撲痕が痛々しい。にもかかわらず、秋にははっきりと美しいと認識できた。
真に美しい人は着るものが何であれ、美しいのだと、そう思ってしまうほどに。
そして、橋の上から見た太陽の輝きにも負けることの無い、目映い煌きの正体はその女性の黄金に煌く長い髪だった。
川の流れにゆらゆらと揺れる黄金の長い髪は、それ自体がまた別の金の川を作っているのではないかと思わせるほどに、艶やかだった。
絶世の美女、傾国の美女とはよく言ったものだと秋は感心した。今、目の前にいるような女性と国を天秤にかけたら、間違いなく女性の方の秤が傾くことだろう。世が絶え、国が傾くのも仕方の無いことなのかもしれないとそう思い、顔を覗き込んでいた。
「うぅ……ん」
その時、黄金の女性が微かに呻いた。
「っっっ!」
秋は口から心臓が飛び出る思いをした。心臓がばくばくと脈打つ。と同時に、生死の確認すら怠るほどに女性に見蕩れていた自分を恥じ、意を決して女性に声を掛ける。
「だ、大丈夫?」
女性からの反応はない。
仕方なく、身体を揺らして多少の刺激を与えようと、女性の肩に触れたその時――
女性が、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、髪の毛同様、黄金に煌いていた。
秋と女性の視線が交差する。
秋は、その太陽を写し取ったかのごとく煌く黄金の瞳を見つめながら、一つのことを感じていた。
――こいつだ。
直感的にそう感じていた。有体に陳腐な言葉で綴るならば、それは運命とでも言うのかもしれない。そこには根拠などない。そもそも秋はこの感覚がどこからくるのか、などと言うことは考えてはいなかった。何をこの女性に求めているのか、自分でもはっきりとわからない。現状からの脱却、社会への復讐、邪魔者達の排除、いろいろなことが浮かんでくるが、どれも自分が求めているようで違う気がした。ただなんとなく、この女性と共に居れば、何かが変わるような、そんな感じがした。
「……あ、あなたは……? 私は、一体……?」
女性が虚ろな瞳で秋を見つめて問うた。
秋は、川の水で冷え切った女性の体を抱えあげながら、状況説明をする。
「だ、大丈夫か? こ、この川で行き倒れてたんだ」
引きこもりで、コンビニの店員ともまともに話せない自分が、この女性相手ならすらすらと話せていることに驚きながらも、秋は抱えあげた女性の体を、川から引き上げようとする。そのとき、秋の左手――正確には左手の甲に刻まれた痣――を見た女性が、その金色の瞳を丸くした。
「そ、その痣は……!」
女性は冷え切った手で秋の左手に触れる。
「あ? あぁ、こ、これ?」
秋は内心、またかと思ってしまう。
小学生の頃から今まで、この痣のせいで口では言い表せないような陰惨な目にあった。歳を重ねるにつれて、ストレートに気味悪さを伝えてくる人間は減っていったが、言葉にしなくなった分、その目が、表情が、不快感、嫌悪感、恐怖感など様々なもの物語るようになった。
秋は、今回もまた、いつものように気味悪がられるのだろうと考えていた。
そんなことはいつものことで、もう慣れっこだったし、さっき感じた感情もきっと気のせいで、この女性とは今後、二度と逢うこともないだろうから、嫌われ、気味悪がられたところで何の問題もないと、そう考えていた。
だから、次の女性の言葉を聞いた瞬間、秋は何も考えられなくなった。
想定していたのは建前だけの哀れみの言葉。
だが、女性が紡いだのは本心からの、喜びの言葉だった。
「本当に…………」
「え?」
女性は、秋の左手を冷えた両手で優しく、強く包み込んで呟く。
「本当に、出逢えた…………私の、主となるべきお方…………」
女性の瞳から一筋の煌く液体が流れ、頬を伝って初春の川の水に滴り、小さな波紋を作った。
秋は、またしても女性に目を奪われた。
女性はとても、とても幸せそうな優しい表情を、その秀麗な顔に浮かべていた。
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