黄金雷刀編

黒刃刀姫と黄金雷刀 Ⅰ

 黒板を走るチョークの音が、静かな教室に響き渡る。黒板に書き込まれていく真っ白な文字。


 それを無言でノートに書き写していく学徒達。本人達は何の違和感も抱いていないだろう。教室にいる四十余名が、一様に同じ作業を行っている。そんな光景は考えようによってはある種、異様なものであるのかもしれない。


 俯瞰してこの教室を眺めたら、どんなに不思議で、奇妙な光景が広がっているのだろうか。


 授業中、ぼうっと頬杖を付きながら黒板と教室を眺めていた少年、村上 空也むらかみくうやは、取りとめも無くそんなことを考えていた。          


 それなりに名の知れた進学校の学生らしく、皆、プログラムされた機械のようにノートを取っている。その中で一人呆けて筆記具を動かさない空也。それは、その周りだけ空間が切り離されたかのように、ひどく浮いている光景だった。


 黒板を書き終えた中年教師が教室を見回している。教室で一人だけ呆けている少年の姿が目に飛び込んできたのだろう、怒気を孕んだ声を上げる。


「村上! 何をぼけっとしている!?」


 静寂が支配する教室でそんなことが起きれば、当然周りの学生からの注目を浴びることになる。しかし、注意された当の本人である空也は、そんな視線にも教師の怒声にも動じることなく、だるそうに立ち上がった。


「あ、はい、すみません……」


 辺りからくすくす笑う声が聞こえる。だが、空也はそんなクラスメイトからの冷笑も、


「お前、来年は受験なんだぞ? わかっているのか?」


 教師の説教も、


「……はい」


 特に気にする風でもなく、


「本当にわかっているのか?」


 無気力に、


「……はい」


 それこそ機械のように無機質に答えるだけだった。


 一番異様なのは自分なのかもしれない――ふと、空也はそう感じた。


「はぁ……まぁいい。座れ」


 そんな空也の様子に肩透かしを食らった教師は、わずかな溜め息をつき着席を促す。空也はクラスメイト達からの嘲笑を受けながら、腰を下ろすのだった。


 何気なしに、将来と呼ばれる曖昧かつ不確かなものに思いを馳せてみる空也。だが、いくら考えたところで、今の空也には将来についてなど、何も見えてこなかった。


 淡々と、無感情に、無為に過ごしていくのが空也の今の姿であり、空也の日常だった。希望――恋愛――青春――そんなものとは無縁な、無味乾燥な人生。


 空也自身、そんな生活が死ぬまで続くものだと、漠然と根拠無くそう思っていた。


 きっとただ勉強して、ただ仕事して、ただ生きて、そしてただ死んでゆく。目標もなくただただ日々を浪費していく人生。


 死んだときに、自分のために泣いてくれる人が傍にいることなど、きっとないだろう。


 努力することは、とうの昔に諦めた。


 授業は進められ、空也以外の学生は黙々と勉学に勤しむ。日差しは嫌になるくらい眩しく、窓から入ってくる風はじめじめして肌にまとわり付く。


 暑さと湿気が支配する、不快な夏の昼下がり。空也は、青々とした木々の葉が風に揺れる様を、ただぼんやりと眺めるばかりだった。




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 学校の終了を知らせるチャイムが鳴ると、開放感に包まれた学生達で教室は俄かにざわめきだす。その中にあっても、空也は淡々としたものだった。


「空也! さっきの授業、災難だったな?」


 そんな時、後ろの席に座る少年が空也に声を掛けてきた。


 朱坂 正志あかさか まさし。赤茶色の髪、スッと通った鼻筋、どこか人懐っこい印象を与える少し垂れた目。身長は空也より五センチ程高い、一八〇センチ。ボタン全開のワイシャツにその下には真っ赤なティーシャツ。極めつけは、シルバーのネックレス。お世辞にも品行方正とは言い難い出で立ちだった。


 進学校に何故このような形の学生が居るのか甚だ疑問である。それは教師にとっても同じのようで、正志は、毎度、生徒指導室に呼び出されては説教を喰らっている人物、言うところの問題児であった。


「別に。全世界で地震や海面上昇みたいな災難に遭ってる人達に比べれば、大したことないだろ」


「いや、世界レベルの災害や温暖化と、教師の説教が同列なのかよ!?」


「昔から言うだろ? 地震、雷、火事、オヤジって」


「オヤジ、災害認定なの!? 世界のオヤジに謝って! 仕事で疲れながらも頑張ってるお父さん方に謝って!」


 いつもの二人のやり取り。くだらない。


 だが、そのくだらなさが空也は好きだった。


 自分がボケたら正志が突っ込む。その逆もまた然り。


 やる気の無い空也と問題児の正志。周りから浮いている、なんとなく同じような空気を持つ二人。入学当初は特に接点があったわけではないが、どちらからとも無く声をかけ、いつの間にか気の置けない友達同士になっていた。


「まぁ、災害論議は置いといて、だ。今日どうするよ?」


 世界規模でオヤジを擁護した正志が、教科書が入っているかもわからないぺしゃんこの鞄を掲げて聞いてきた。


「どうするって?」


「だから、せっかく授業終わったんだからどっか行こうぜ! ってことだよ」


「ああ、そういうことか……」


 空也は背もたれに身を預けて、天井を見上げながら口を開く。


「相変わらずやる気ねぇな」


 呆れたように正志は笑っているが、怒っている様子ではなかった。空也がどんな人柄であるか、十分に分かった上で正志はおちょくっているのだ。


 空也はふっとため息を吐きながら、横目で正志を見て、手をひらひらさせる。


「俺にやる気を求めるなよ。今まで本気出したことなんて、なかっただろ? それに……悪い、今日はパスしておく。スーパーの特売もあるしな」


「どこの主婦だよ! お前は! ……ま、一人暮らしじゃ仕方ねぇか。俺も夜は暇じゃねぇし」


 そう言いながら、悪戯っぽく笑う正志。


 中肉中背で、特に格好がいいわけでもないが、別段、不細工なわけでもない空也に対して、高身長かつ顔立ちの整った正志。夜に用事があるとなれば、大体どんなことなのか空也でなくとも予想がつく。


 今度は空也が呆れたように、ため息交じりに忠告する番だった。


「あんまり恨み、買うなよ?」


「おいおい、人聞き悪いこと言うなよ。俺はただ、町にいる女の子達を愛でているだけだぜ?」


「それが駄目だって言ってるんだよ。この国は一夫多妻制じゃない」


「結婚してねぇし~」


 正志は飄々としている。空也の忠告は、やはりどこ吹く風だった。


「まあまあ、堅いこと言ってねぇでよ、そろそろ帰ろうぜ?」


「全く……」


 一段落つくと、二人は立ち上がり、手早く荷物をまとめ、下校すべく教室を後にする。


 僅かに傾きかけた日が、臙脂色の廊下を照らし出している。夕方が近いとはいえ、七月も下旬となれば、茹だる様な暑さが学校中を支配していた。しかも、授業が終わったため、廊下には下校しようとする学生達が多数、玄関に向かって歩いていた。そんな中を、二人も他の学生と同じように、二階下の玄関を目指す。


「教室もあっちぃけど、廊下もあっちぃ~。さっさとクーラーの効いたコンビニかどっかに入りてぇ~」


 正志はシャツの襟元をバタバタさせながら、げんなりした様子で呟いた。


「確かに、この暑さは気が滅入るな」


 空也も、オープンフィンガータイプの真っ黒な手袋をした右手で額の汗を拭う。


 その様子を見ていた正志はたまらず声を上げる。


「じゃ、その手袋外せっつーの。見てるこっちが暑苦しいわ!」


「そりゃ悪かったな。でも、見苦しいもんわざわざ晒す必要ないだろ?」


「む……」


 正志はどもって口を紡ぐ。


 見苦しいもの――空也の右手の甲には、生まれつき真っ黒な痣があった。何が原因で付いたかわからない。雲のようにもやもやとした形。日常生活において困ることはないし、どこか身体に異変をきたしているわけでもない。ただ、何年経っても消える気配は全く無く、むしろ、濃くなっているような気さえするほどだった。空也は、この痣を周囲に晒すことになんとなく抵抗があった。この痣があることで、今まで居た『普通』とは離れるような、そんな漫然とした不安があったからだ。


「ああ……、その、悪ぃ」


 正志はばつが悪そうに、視線を落とした。


「いや、気にするなよ。暑いのも事実だしな」


 空也は特に気にするでもなく、臙脂色の廊下を進んでいく。正志はすこしばかり気まずそうに、空也の後を付いていく。


 少しの間沈黙が続いたが、気を取り直した正志が周囲を見回して、再び口を開く。


「あ~あ~、皆浮かれちゃってんな~」


 見渡す先にはすっきりした笑顔に包まれた学生達。


「そりゃそうだろうな。なんてったって明日は終業式、明後日からは夏休みだからな」


 空也達の学校は明日が終業式だった。あと一日行けば夏休み。しかも、終業式の日は授業がなく、校長の長ったらしい話を我慢すれば、後は夏休みに向かって一直線。学生達がどこか浮き足だっているのも無理はなかった。


「空也は夏休みの予定、何かあんのかよ?」


 正志は廊下ですれ違う女子生徒を眺めながら空也に尋ねた。


「……お前、興味ないだろ?」


「無い。つーか、元々空也に夏休みの予定があるとも思ってない」


「なんで聞いたんだよ」


「んー、社交辞令的に?」


「その薄っぺらい気遣いが虚しいな」


 友のなんとも微妙な心配りに頭を抱える空也だった。


「……まぁ、一応聞かれたから答えとくさ。正志の言うとおり、夏休みの予定なんざ俺には無いよ」


 実に空也らしい、無味乾燥な夏休みプランである。予定が無い時点で、もはやプランですらないが。


「相変わらずだな。どうせ実家にも帰らねぇんだろ?」


「当然だ。あの家にいても、いないのと同じようなものだからな。虫酸が走る」


 空也は実家が苦手だった――出来すぎた兄。学生時代、全国模試で五本の指に入る頭の良さ、剣道部では全国大会常連。社会人になってからは大手企業に就職し、出世コースを邁進している。その兄と自分を比較しては落ちこぼれだ出来損ないだと罵倒する両親。どんなに頑張ってテストで百点を取ろうとも、学校のテストごときでは認めてもらえず、部活で県大会でトップになっても県大会程度では論外。どんなに頑張っても兄に勝てた試しがなく、褒めてももらえなかった。そのうち、空也は頑張ることを諦めた。頑張るだけ無駄だと思うようになっていった。才能が無い人間はどれだけ頑張ったところで時間の無駄でしかないと考えるようになった。


 そして両親の目には、不良品の弟の姿はいつしか映らなくなっていった。空也の両親にとって、子は自分達の社会的外面、優越感を満たすだけの装飾品に過ぎなかったのだ。


 実家にいると嫌でもコンプレックスと向き合わなければならなくなる。自己否定感に苛まれることしかない。自己肯定など得られたためしなど無かった。そんな環境に耐えられなくなって、空也は地方の一応進学校と言われる高校を受験し合格した。当然、合格したことに対して、両親は褒めることなどせず、まして喜ぶことなどあり得なかった。そして、高校にあがると同時に家を出る決心をした。


 両親は止めなかった。


 むしろ、空也が何をしても喜ぶことがなかった両親が、空也のしたことで初めて嬉しそうに、それでいて醜悪な笑顔を向けて喜び勇んで家から空也を追い出した。


 以来、空也は高校に入ってから実家に帰っていない。帰ろうと思ったことすらない。帰りたいという気持ちなど欠片も沸いてこない。


「聞くまでもなかったみてぇだな。まぁ、万に一つでも俺が暇だったら声かけてやるよ」


 階段を下りながら、正志は面倒臭そうに言った。


「…………友情って、儚いんだな」


「人の夢と書いて儚いってよく言うじゃん? それに、友情より情愛だ!」


「少年誌の三大コンセプトの一つが一蹴の元に!」


 男同士の熱い友情は、生き物としての三大欲求に数えられるものの前に、脆くも崩れ去るのだった。


 二人が玄関に到着すると、そこは学生でごった返していた。わいわいがやがやと嫌になるくらい賑やかだ。外から入ってくる熱気と人が発する体温で、教室や廊下よりもさらに暑さに拍車が掛かっている。


「「暑っ!」」


 二人は声を揃えた。


「こんなとこさっさと脱出しようぜ」


「そうだな」


 手早く靴を履き替え、二人は日光が無慈悲に照らす白い世界に出るのだった。

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