黒刃刀姫と帯刀者

まけい

黒刃刀姫と帯刀者 前節

 辺りを火焔が包んでいた。むせ返るような熱風と黒煙が人の命を容易く奪っていく。


 どこかの研究室であろうか、薬品が入っていたであろう瓶が床に落ちて粉々に砕け散っている。積み上げられていた書類や本は火焔に捲かれ炭と化していた。


 その火焔の中に、右手に黒い痣が刻まれた少年が倒れていた。息はあるようだが倒れてきた戸棚に頭を打たれたのだろう、意識は無く、その背には無数の戸棚が覆いかぶさっていた。


「空也!」


 火焔が渦巻く部屋に黒髪の女性が飛び込んできた。この部屋に辿り着くまでの間にも炎が猛り狂っているのだろう、女性は全身を火傷していた。口元を覆うハンカチは濡らしたばかりだと言うのに、熱気ですでに乾いてしまっている。羽織った白衣は裾が焼け焦げており、艶やかだったであろう黒い長髪も焼け焦げてしまっていた。


「今、助けるから!」


 女性は空也と呼ばれた少年を見つけると、己の身など省みず一目散に駆け寄り戸棚をどかし始める。中に入っていた薬品が散乱したおかげで、女性の細腕でもなんとか動かすことのできる重さだった。


「空也! しっかり! もう大丈夫だからね! あくっ!」


 女性は少年の名を叫び続ける。時折、炎に包まれた天井材が落ちてきては女性の背中を打つ。その度に女性は苦しげなうめき声を上げるが、それでも女性は必死に少年に覆いかぶさる戸棚をどかし続けた。


「う、うぅ、母、さん……?」


 少年がわずかに意識を取り戻す。目は虚ろだが、自身を助けようとしている存在が誰であるかは認識しているようだった。


「目が覚めた? 今、助けてあげるから、ね!」


 女性は力を込めてそう叫ぶと、最後の倒れていた戸棚をどかし、少年を引っ張り出す。


「もう、大丈夫だから! っげほ、げほっ、がふっ!」


「母、さん!?」


 女性は苦しげにせき込む。炎に包まれた状態で必死に作業を続けたのだ、一酸化炭素と有毒ガスを吸入しており、命が危ぶまれる状態であった。だが、女性は気力を振り絞り、少年を背負い、部屋を脱出する。


「しっかり、母さんにつかまってて!」


 朦朧とする頭を必死に働かせながら、女性は出口に向かって走る。行く手に炎が渦巻き、炎が女性の肌を撫でる度に皮膚が焼け爛れる。熱された空気をわずかでも吸い込もうものなら肺が灼熱に包まれる。


 そんな地獄のような中を、女性は必死で走り続けた。


 どれほど走ったのかわからなくなるほど足を動かし続け、女性は遂に外の光が見える階段まで辿り着く。幸い階段の周囲には、まだ火の手が回っていないようだった。


「姉さん! 早く!」


 階段の上から聞きなれた声が聞こえてくる。妹が叫んでいるようだ。女性は最後の力を振り絞り、階段を登る。一段一段が酷く辛い。脚に力は入らず、目もぼやけてうまく見えない。それでも女性は階段を上がっていく。


 外の光を感じるところまで女性が辿り着くと、妹が手を伸ばしていた。


「姉さん! 空也を!」


「お、ね、がい……」


 女性は妹に少年を託す。ああ、これで子供を助けることができた。あとは数段階段を上がればいいだけだ、と女性がぼんやりと考えていた時だった。


 ふと顔を上げると、妹の顔が目に入ってきた。


 妹は酷く醜悪な笑みを浮かべていた。口角は三日月のように裂け、左眼は血走っている。


 女性は戦慄した。妹のこんな表情はいままで見たことがなかったからだ。そしてその妹の手の中にわが子が居ることに思い至り、背筋が凍りつく。と同時に女性は気づく。妹の左眼の瞳の奥に紫色の痣のようなものがあることに。その左手に、紫色の刀身をもつ禍々しい短刀を握っていることに。


「あ、なた、それ――」


「さよなら、姉さん。姉さんの研究は私が引き継ぐから。空也はまかせて。ふふっ」


 ずぶり、と女性の左胸に紫刀が突き立てられる。妹はそのまま刀を軽く押し込み、勢いを乗せて引き抜く。引き抜かれた刀の切っ先から糸を引くように鮮血が宙に舞う。


 刀で貫かれた女性は奈落の底へ落ちていく。女性は手を必死で伸ばしながら、声にならない叫びを上げる。その叫びに込められた想いはなんだろうか。妹への怨嗟か、我が子を想う母の愛か。だがその想いも、伸ばした手も永遠に届くことはなかった。


 階段の下は地獄の業火が燃え盛る火の海だ。


 女性の耳には、妹の高笑いだけが残っていた。


「う、うぅ、叔母さ、ん? 何をして……!?」


 少年が眼を覚ます。己の叔母が母に刀を突き立て、階段から突き落とす光景を目の当たりにし、少年は混乱する。


「あぁ、空也。あなたはもう少し寝てなさい」


 叔母はそう告げると紫刀で少年の首を切り裂く。刀傷がぱっくりと開くがその傷からは血飛沫が舞うことは無く、開いた傷は逆再生するかの如く塞がっていった。


 傷が塞がると同時に少年を強烈な眠気が襲う。少年はその眠気に抗うことができず、意識を手放し深い眠りに落ちていった。

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