告白
董子が目を覚ましたのは詩織が去ってから一時間ほどが経ってからだった。御門は外に煙草を吸いに行っており、部屋には栞しかいなかった。うっすらと目を開け、まず最初に気づいたのは点滴らしかった。自身の左腕に刺された管を見つけて小さく息を吐くのがわかった。
「気がついたか?」
そう栞が声をかけると、董子ははっとした様子で栞を見やり、身体を起こそうとする。
「無理をするな、まだ横になっていろ。医者を呼んでくる」
「先生……」
「……なんだ?」
問うが、董子は何も言わないまま「いえ……」と口を閉じた。
栞に呼ばれた医者がいくつか質問をして、董子がそれに答えている間に御門も帰ってきた。医者は医者同士で何かわかるところがあるのだろう。御門に視線をやると、医者は質問を切り上げるような形で「もうお帰りになっても大丈夫ですよ」と笑った。
「姉はどうしましたか?」
病院の廊下を歩きながら、董子が前を向いたまま聞いた。
「飛行機の時間がどうしても動かせなかったみたいでな。お前が起きるまで居たかったみたいだが、仕方なく先に帰ったよ」
「今日も、結構無理して会いにきてくれたみたいなんです」
「くれぐれもよろしくとおっしゃっていた。好いお姉さまだな」
「……ええ」
そう頷いた声は随分と小さいものだった。
外に出ると、栞のクーペの横に可愛らしいレトロなコンパクトカーが停まっていた。年代ものか復刻版かはわからないが、それは有名なアニメの主人公の愛車によく似ている。
「意外ですね」
「そう?」
乗り込む前に栞がそう御門に声をかける。
「御門先生みたいなタイプは真っ赤なポルシェにでも乗っているものとばかり」
「加賀美先生みたいにカッコいいクーペに乗れるような年じゃないわよ、もう。このくらい小回りの利くのがちょうど良いわ」
「確かに、真っ赤なポルシェも似合いそうですけど、コンパクトカーも可愛らしくて好いですね。もしこの先で車を選ぶ機会があったら、御門先生に相談させてもらいます」
「クーペとコンパクトカーじゃ随分と趣味が違うように思うけど?」
「これは贈り物なんです、父からの」
車に乗り込む。董子は栞のクーペに乗るべきなのか御門のコンパクトカーに乗るべきなのか少しだけ迷った様子だったが、意を決したように栞の横へと乗り込んでくる。
「大丈夫か?」
「え?」
「何なら車を出す前に血をあげても良いが、ってことだ。発作を起こしたばかりだし、少し慎重になった方が良いだろう?」
それに董子は僅かに考えたようだったが、「お願いします」と静かに言った。
その言葉に栞は車内に置いていた小さなハサミ――それは最初に董子に血をあげた時につかったものだ――でそっと左腕に傷を作った。
数センチの引っかき傷からじわりと血が浮かぶ。栞はそれをじっと見やってから「ほら」と董子に差し出した。
董子は唇を舌でそっと舐めてから栞の腕に口づけた。
どこか愛撫するようなそれに、合間合間に熱い舌が栞の血を舐め取っていく。僅かな痛みに愛しさが混ざるような感覚を覚える。
五分。
それは血を舐めると言うよりかは一つの儀式に近いものがあったかもしれない。
董子はそっと栞の腕から唇を離した。
「もう大丈夫か?」
「ええ……ありがとうございます」
そんな董子の言葉に、栞はゆっくりとシフトレバーに手をやって車を発進させた。
夕方の街を櫻ノ宮へと向かって走る。病院に向かった時とは正反対の、慎重に慎重を重ねたような走り方をした。日暮れの遅い季節になってきたとはいっても、周囲は少しずつ薄暗くなりつつある。街は人工的な光で溢れていたが、櫻ノ宮のある山へと入ると所々の外灯だけとなった。
「姉の血を飲みませんでした」
そう董子が切りだしたのは、もう十分もすれば櫻ノ宮に着くというところだった。
「……ああ。お姉さまから聞いたよ。最近は薬で抑えてるって言ったらしいな」
「飲みたくなかったんです」
「お姉さまの血を、か?」
「はい」
そこには確かな意志がこもっているように栞には思えた。
「混ざってしまう気がしたんです」
「混ざる?」
「先生からいただいた血に、姉の血が」
「先に飲んでいたのはお姉さまの血だろう? 混ざったのだとしたらそれは私の血の方だ」
董子がかぶりを振る。
「私の身体は、もうとうに先生の血で満たされているんです」
それは愛の告白以外のなにものでもなかった。
ミラー越しに栞は董子を見やるが、その目には確かな熱が宿っている。まともに正面から見つめられたら耐えられなかったかもしれない。サイドミラーに御門のコンパクトカーが映っている。そちらの方を強く意識しながら口を開く。
「だからと言って、お姉さまをないがしろにしていいわけじゃない」
「家族と想い人を同列に考えるのは間違っていると思います」
「私とお前は教師と教え子だ。認められる関係じゃない」
「あと一年もすれば、私は先生の教え子じゃなくなります」
「それでも未成年だ。お前が良くても、私は罰を受けなきゃいけなくなる」
「例えそうだったとしても、いったい誰が先生の罪を告白すると言うのですか? 誰が私の想いを否定する権利を持つと言うのですか?」
上っ面の逃げ道などあっという間に塞がれていく。董子の言葉に迷いは一切見られなかった。この間まで栞と姉の間で揺れていたはずの心が今は石心となっていた。少しの言葉などそれをミリほども動かすことが出来なくなっている。
「……それじゃあ、お前は私にどうしてもアメリカに来いと言うつもりか?」
董子は詩織の話を断った。そのことを知らぬ風に装って栞は聞いたが、
「言いません」
そう董子はきっぱりと言い切った。
「私は残ります。先生のいる櫻ノ宮に」
「燕城寺……」
熱がこもっていたが、浮かされている言葉では決してなかった。
これほど想われたことが過去にあっただろうか?
栞は漠然と考えるが、きっと今まで付き合ってきた誰もこれほどまでに想ってはくれていなかっただろう。それは栞にとって無上の喜びに他ならなかった。彼女のことを真に想うのであればそれが本当に好い選択なのかどうかわからなかった。それでも、そう言い切ってくれた董子の言葉は深く栞の胸に突き刺さった。決して抜けることのない想いの刃だった。
「それじゃあ、お姉さまはどうする?」
「どうもしません。姉は何があっても私の姉でいてくれます。その関係は、これから先何があったとしても変わることはありません。けれど、先生は違うでしょう?」
「………………」
「一日一日、離れれば離れれるほど私のことを忘れようとなさるのではないですか? 遠い将来。十年後二十年後、そんな生徒がいたな、と薄っすら懐古出来る程度になるように」
「……そうかもしれないな」
「私はそんな未来は望みません。先生と共に歩んでいきたいのです。櫻ノ宮で高校を過ごし、大学生となって、社会人となる。その道を歩んでいく時、隣にいて欲しいのは誰でもない、先生ただ一人なんです」
もし今董子が言ったことが現実となるなら、どれだけ素晴らしいことだろうか?
「……まさか中学生にプロポーズされるとは思わなかった」
「私も、まさかこの年でプロポーズをするとは思ってもいませんでした」
董子が柔らかく微笑む。
今はまだ櫻ノ宮でしか咲くことの出来ない彼女かもしれないが、時間が経てばそれも変わっていくことだろう。花は種を残し、新しい芽吹きを呼ぶ。芽はゆくゆくと育ち、やがてまた花を咲かせる。
栞は董子を自分のカゴに閉じ込めてしまっているのではないかと思っていたが、それが永遠に同じ状況を続けると言うわけじゃない。カゴの中であっても、日があたれば芽を出し、成長して花を咲かす。そして、咲いた花は種を残す。それがどこで弾けるかはわからない。カゴの中かも知れないが、もしかしたら風に運ばれ、カゴの外で弾けるかもしれない。
いずれにしろ、彼女は囚われの鳥ではない。僅かな隙間があれば芽吹き、大きく育つことの出来る可能性をもった花なのだ。
そして、そんな彼女の成長を一番間近で見られるのだとしたら……自身がそのための力に少しでもなれるのだとしたら、それは何に勝るとも劣らないものに違いなかった。
櫻ノ宮に着き、車を白薔薇寮の駐車場に停める。
「先生。今晩、先生の部屋を訪ねても良いでしょうか?」
シートベルトを外しながら董子が言った。
「もし規則を破るのなら、他の生徒に見つからないようにしろよ。見つかった時には、寮監として罰を与えなきゃいけないからな」
栞はそう冗談で言葉を返す。
その晩、二人は初めて交わった。
今まで栞が囚われていた恐怖はそこにはなかった。
深く濃い交わりは、微かに花の薫りをさせていた。
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