急報

 ふっと目を開くと、黒い背景にエンドロールが流れていた。気の早い観客が席を立って出口の方へと動き始めている。静かに頬に手をやると涙が一筋伝っているのがわかった。

 エンドロールが終わり、館内が周りの人間が全員去っても栞はそこから立ち上がらなかった。少しするとシネコンのアルバイトが清掃のために中に入ってきて、まだ座っている栞をあからさまにいぶかしんだ。何かを言われて好くなる気分じゃなかった。立ち上がって、アルバイトの視線を受けながら外へと出る。

 変わらずモールの中は混みあっていた。これからどうしようかと考えるがまともな考えは一つも出てこない。

 夢のせいだと息を吐く。

 もうすぐ失われる董子への執着があのような夢を見させたに違いない。随分と身勝手な夢だ。

 いったい今の自分が彼女の何を知っているというのだろうか?

 彼女の心の内のどれほどを理解してあげられているのだろうか?

 それすらわからないのに、まるで彼女の全てを知ったかのような気持ちでアメリカへと行く董子を否定していた。

 自分はここまで未練たらしい人間だっただろうかと、バカにでかいモールの中を当てもなく歩きながら思う。ましてや、思い出なんてものすらろくに残っていない。思い出すのはあの櫻ノ宮という箱庭で血を与えた日々だけだ。

 長く連れ添い、至るところに思い出の残滓が残っているというのならまだわかる。どこを見ても相手との思い出で溢れ、一杯になって涙を流す主人公を栞は本の世界で読んできた。けれど、今の自分はそうじゃない。右を見ても左を見てもそこに董子との思い出はなく、せいぜい思うにしても『あの服は董子に似合うだろうか?』『あのマグカップは董子の趣味だろうか?』というくらいなのに、こんなにも苦しくなっている。もし本当にそこに董子との残り香があったとしたら気が狂っていたかもしれない。栞はそう思った。

 いっそのこと、先に自分が櫻ノ宮を辞めてしまおうか?

 ふっと思う。

 御門には大見えを切って見せたが、これから先の一年間、董子の顔を見ながら甘美な日々を忘れるなんて器用な真似は出来そうにもなかった。なら、栞から先に櫻ノ宮を去り、強制的に断ち切るのもありかもしれないと思えた。どうせあの櫻ノ宮だ。急に一人の教師が辞めたところで――栞がそうやって櫻ノ宮に来たように――誰か適当な人間を人脈をたどって引っ張ってこられるだろう。

 病気の関係だって御門がいる。今までは体力的な面で病気の影響が大きく出てきてしまっていたかもしれないが、この一年で彼女だって成長した。御門のサポートさえあれば日常生活を送るのにそう支障が出ることもないだろう。

 それが良い。

 今から帰って辞表を書こう。

 そう栞が思った時、バッグの中の携帯が震えた。

 電話。相手は御門だった。

 彼女とは比較的親しい関係だったが、電話であれやこれやとしゃべったことはあまりないように思う。ましてや休日だ。

 ざわりと心が騒ぐ。

 急いで画面に触れて耳に押し当てると、何の挨拶もなしに『加賀美先生? 今どこにいる?』と言葉が飛んできた。


「街から少し行ったところにあるショッピングモールです。……その、映画を見ようと思って」


 言い訳のようにそんな言葉を付け加える。


『良かった。それじゃあ街にはすぐに行けるわね?』

「え、ええ……。何かあったんですか?」

『董子ちゃんが発作を起こして倒れたそうよ』


 心臓が跳ねた。


『つい今しがた詩織さんから連絡をもらったの』

「どうしてそんなことに? お姉さんが一緒にいたんですよね?」

『詳しい事情はまだ聞いてないわ。この最近はずっと安定していたから董子ちゃん自身油断してたのかもしれない』


 油断?

 確かにこの一週間、栞は董子に対して血液を与えてはいなかった。けれど、もはや血液のやり取りはそこまで重要なものではなくなっていたように思う。董子は薬だけでも十分に自分をコントロール出来ていたはずだ。


『とにかく今から伝える病院に向かってもらえる? 私もすぐに行くけど、加賀美先生の方が早いと思うから』


 聞きながら、足はすでに駐車場に向かって早足になっていた。

 街にある総合病院。車に乗るなりカーナビで場所をセットする。飛ばせば二十分ほどの場所にあった。途中で赤信号を一つ無視し、交差点では前の車にぶつかりそうになって、横断歩道を渡る歩行者をはねかけた。それでも栞はギリギリの運転をやめず、二十分かかるだろうところを十分かそこらでたどり着いた。休日だから本来の診療はしていない。それなのに病院に行ったということは救急搬送されたということだ。

 車を空いたスペースに突っ込んで正面口へ向かうが開かない。苛立ちに拳でドアを叩いて、裏にあるという急患の入り口に向かう。


「燕城寺董子はどこですか?」


 正面口より幾分も小さい出入り口から中に入り、入ってすぐのところにある受付に看護師を見つけるなり栞はそう迫った。あまりの剣幕にまだ二十代半ばくらいの彼女は面食らったようだった。戸惑った様子で、正確に聞き取れなかったようだ。

 頭の中でかぶりを振る。今ここで急いたところで何も変わるわけじゃない。


「……先ほど、救急搬送された少女がいたと思います。燕城寺董子。中学生です」

「ああ……ご家族の方ですか?」

「彼女の通っている学校の教員です。多分、彼女の姉が一緒にいたと思いますが」


 家族でないと会わせられないとかそういうわけではなかったようだった。事情を理解したのか、すんなりと場所を教えてくれる。そこは集中治療室でもなければ入院患者の入る部屋でもなかった。ノックを四つ。『はい』と聞こえてきたのは董子ではなく詩織のものだった。

 大きく呼吸を一つ。動転している姿を見せるのは……特に詩織に対しては嫌だった。

 開けると、中にはベッドと丸椅子が二つ置いてあるだけの簡素な部屋だった。部屋と言っても完全に仕切られたわけではなく、奥は医者や看護師の行き来が出来るような通路になっていた。そのベッドに董子は横たわっている。眠っているのだろう。点滴がされているが、他に目立ったものはない。


「加賀美先生……」


 詩織は座っていた丸椅子から立ち上がって、深々と頭を下げた。朝に見た時とは随分と印象が違って見えた。すっかり憔悴しているように感じた。

 貴女がいながらなんでこうなったのか? そう思い切りなじってやりたい気分だったが、栞はその感情を押し込め、ゆっくりと言った。


「……そこまで大事ということではなさそうですね」

「はい……お医者さまが言うに、薬効の強い薬だから、その副作用で体が参ってしまったのだろう、と。少し休めば大丈夫だと思うけれど、身体のことを考えると一度入院して検査をした方が良いかもしれないともおっしゃっていました」

「薬効の強い薬? 黄色の錠剤を飲んだんですか?」

「ええ……」


 それは強力な向精神薬だと栞は御門から聞いていた。御門は他の医者に診せる時には精神系の病気を患っていると説明しているようだったが、今回の詩織もそのように伝えたに違いない。


「でも、どうして? ……血は?」


 問うと、彼女は左右に首を振った。


「今朝から確かに少し体調が優れない様子だったんです。発作を起こしかけた時も血を与えようとしたんですが、最近はずっと薬で抑えているんだと言って……」

「血を飲まずに薬を飲んで、気を失ってしまった?」

「はい」


 彼女が微かに言った。最初に栞が彼女の発作を見た時とほとんど同じ流れだった。


「先生、董子はまだ発作をよく起こしているんですか?」

「いえ……少なくともこの半年では一度も起こしてはいませんでした」

「それじゃあ……」


 どうして今日に限って。そんな言葉が詩織の顔には浮かんでいる。半分は栞の責任でもあるだろう。言葉を選びながら当たり障りのないことを口にする。


「たぶん、この僅かな間に色々なことがあって疲れていたんだと思います。まさかお姉さんが生きているとは思っていなかったでしょうし、精神的に余裕がなくなっていたのかもしれません」


 彼女は複雑な表情を浮かべていた。発作を起こしたことより、董子が血の供給を拒んだことの方が驚きであり、ショックでもあったのだろう。

 董子が発作を起こすようになってからというもの、どういったやりとりを彼女たち姉妹がしてきたかはわからない。だが、もし栞のそれと大して違わないのならただの血液のやり取りとは違っていたはずだ。それを拒まれるのがどれほどのものか栞にはなんとなくだが想像が出来た。


「妹は三年前と比べると随分と変わったように見えました」


 董子の目が覚めるのを待っている間、ふいに詩織が言った。


「今日だけでどれだけ、昔の董子はこうじゃなかった、と思ったかわかりません。具体的にと言われると上手く答えられませんが……まるで一回も会ったことのない子を相手にしているのではないかと思ったほどです」

「それだけ董子さんが成長されたということだと思います」

「そうでしょうか?」


 向けられる視線に栞は目を合わせなかった。


「思春期の女の子です。男子三日会わざれば刮目して見よ、ではありませんが、長く離れていればそれだけ変わっていくのは当然だと思います」

「……不思議な気分でした。三年前は私の後ろを怯えながらついてくるような子だったのに、今日の董子はしっかりと自分の足で歩いていました。昔から表面上はそう見せるのが得意でしたけど、今日は表面的なものではありませんでした」


 その言葉は嬉しくもあり、少し物悲しくもあるように聞こえた。

 そう変わったのは本当にただ精神的に成長しただけなのか、それとも自分の関わりがあってのことなのか……。自惚れに近いような考えが栞の頭に浮かぶ。


「本当は、今日にでもアメリカに行くことで話をまとめようと思っていたんです」

「そうなんですか?」


 栞の背筋に寒いものが走った。口の中が一瞬にして渇く。

 詩織はもう一度董子の方に視線を向けると自嘲気味に笑った。


「でも、振られてしまいました」


 栞は粘っこい唾を飲み込んだ。ゆっくりと問う。


「振られた、と言うと?」

「自分は櫻ノ宮が気に入っている。せめて、高校を出るまでは櫻ノ宮にいたい。アメリカに行くかどうかはそれから考えても遅くはないはずだ。そう董子は言ったんです」


 その言葉に、想像以上に栞は安堵した。ほっとしたため息を吐かずに済んだのが上出来だったかもしれない。

 最初にここに来た時、詩織が見るからに落ち込んで見えたのはそのせいもあったのだろう。

 それから少し経って御門が現れた。担当した医者と二言三言言葉を交わしたが、そこまで突っ込んだ話はしないようだった。おそらく櫻ノ宮という言葉はここでも十分な力を持つのだろう。今日はどうなるものかと思っていたけれど、董子が目を覚ましたらそのまま帰宅の許可が出た。

 しかし、董子はなかなか目を覚まさなかった。前回は比較的早く目が覚めたのに、なぜ今回はこんなにも目を覚まさないのか。栞が御門に問うと、「様々な要因はあるんだけれど」と前置きをしたが、日頃の薬のダメージが蓄積されているからだろうとのことだった。予防薬として飲んでいるものだって決して身体に優しいものじゃない。基本的にはその予防薬と黄色の錠剤を併せて飲むことはあまり考えていないらしい。

 それを聞いて詩織はさらに表情を暗くした。知らなかったとは言え、飲ませてしまったという落ち度を感じてしまうのだろう。

 気分を変えさせようと思ったのか、詩織はこれからどうするのかと御門が聞くと、そう長居は出来ないとのことだった。


「今夜の便でアメリカに戻ることになっているんです」


 そう言った時にはすでに時間をかなり押していたようだ。時刻はもうすぐ夕方になろうとしている。成田までの時間を考えたらこれ以上ここにいるのは難しいだろう。せめて董子が起きるまではと思っていたようだが、飛行機を一つ見送るのは山の手の電車を一本見送るのとはわけが違う。スケジュールにあまり余裕はなさそうだった。

 病院を後にする際、彼女は栞と御門の二人に深々と頭を下げた。


「学校の話をする時の董子は、本当に楽しそうでした。そういったところで変に気を遣うような子じゃありません。本当に楽しんでいるんだと思います」

「………………」

「加賀美先生」


 名前を呼ばれ、栞は僅かに身を固くした。


「董子は特に加賀美先生のことを気に入っている様子でした。我がままで融通の利かない子ですが、どうか今後ともよろしくお願いします」


 そう言い残し、彼女は病院から去っていった。

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