孤独
それから一週間、董子は栞を避けるように生活をしているようだった。血を欲しがることもなければ、言葉を交わすことさえ稀だった。
そうなっても仕方ない。それだけのことを自分は彼女に言ったのだ。
栞はそう自分に言い聞かせた。
休日の朝、御門と共に栞の私室を訪ねてきた女性は十分な落ち着きと物腰の柔らかさを身につけた人物だった。
色素の薄い髪は姉妹で変わらないが、彼女のそれは真っ直ぐに伸び、肩甲骨あたりで綺麗に整えられている。顔は、まだ幼さを残す董子が余すとこなく成長したものを思わせるような整ったもので、優しく微笑むそこに裏は見えなかった。シンプルに施されたメイクはいやらしさも媚びへつらうものもない。
「董子が大変にお世話になっているとうかがったものですから、休日にご迷惑を承知でお礼にうかがいました」
歌うような声だった。聞き心地好く、するりと脳へと響く。
「聞けば、発作の時に先生が何度か血液を提供してくださったと」
「適切だったかどうかはわかりませんが、一介の教師としてはそれしかすることしか出来なかったものですから」
「感謝の言葉もございません。下手をすれば身体より先に精神をやられてしまうのが私たち燕城寺の家に根付いた病です。今こうして董子が立派に成長出来たのは、先生を始め、多くの方の支援があってこそのものだと思います」
聞くと、この後董子を連れて街へと出かけるとのことだった。今街の美術館でちょうどやっている西洋画家の展覧会が董子の趣味に合うものだから是非に見せてやりたいとのことらしい。
栞は内心で大きく息を吐いた。自分は、改めて言われれば董子の趣味趣向の一つもろくに知らず、知っていることは彼女の表面的なことばかりだと思い知らされた。この前に御門は「勝負を挑むのか?」といったようなことを問うたが、こんなんでは端から結果は知れている。
「三年前と比べると随分と元気になったように見えます。さぞかし、ここでの生活が幸福なものだったのでしょう」
嫌味のない言葉だからこそその鋭さは容赦がない。全身を鋭利な刃物で切りきざまれているような気分だった。
彼女を見送った後、栞は冷たいシャワーを頭から浴びた。
適当に身体をぬぐい、下着姿で部屋に戻る。
ここではないどこか……董子の面影がない場所で酒の一杯でも飲みたい気分だった。街に出れば昼にやっているバーの一つでもあるかもしれない。しかし、一人で飲んだところで気分が底なし沼にはまったように沈むのはわかっていた。元々飲んで陽気になるタイプでもない。だが、事情を知っている御門など誘えるわけがない。他の誰かを誘おうにも、わざわざ電車を乗りついでここまで飲みに来てくれるような親しい間柄の友人はいない。久しぶりに栞は自身の交友関係の狭さに恨み事を言いたくなった。
考えてみれば、大学を卒業してからまともに連絡を取り合っているような友人はほとんどいなかった。交友がなかったわけではなかったが、どれも薄く、離れればすぐに千切れてしまうような関係ばかりだった。
それでも寮で過ごすことはやはり嫌で、栞は昼過ぎに自身のクーペで櫻ノ宮を出た。
駅から少し行ったところにある美術館はあるが、そこに董子たちはいるのだろうか? 時間が時間だ、洒落たところでランチでも食べているかもしれない。どちらにしろ久しぶりの姉妹水入らずの時間を楽しんでいるに違いない。
結局、街ではなくそこからまた少し離れた郊外のショッピングモールへと車をやった。
休日のモールは人でごった返している。家族連れの姿、カップル、友人同士。一階から四階まで大きく吹きぬけになった空間に、服や雑貨、音楽に本のテナントが数多く並んでいる。
栞がここに来たのはシネコンがあったからだった。特別何か観たい作品が上映されているわけではなかったが、それでも時間を潰すなら悪い方法じゃないと思えた。最上階の大きく設けられたシネコンも大盛況のようだった。映画館特有と言っても良いかもしれないポップコーンの匂いに、それぞれの広告が栄えるように設置された薄暗い照明。上映中の作品のポスターを見れば、テレビや雑誌なんかで取り上げられていた作品が並んでいる。
映画なんて見るのはいつぶりだろうか?
元々本の虫ではあったが、映像化されたものにはあまり興味を持つようなタイプではなかった。映画が大ヒットし、街の至る所で題名を聞くようになっても、原作があるのなら原作を買って読むことが多かった。テレビで見ることはあっても、映画館にまで足を運んだのは数年ぶりかもしれない。
上映開始の時間がちょうど良さそうなのを選んで券を買う。混んでいるのか、後ろの端しか空いていなかったがどうでも良かった。内容もよくわからない。洋画で、ファミリー向けのヒューマンドラマなのだけは理解した。
館内に入って座席に座るとドッと疲れが出たような気がした。この一週間、栞も相当に気を張って生活していたように思う。
薄暗くなって予告編が始まる。
董子とはまともなデート一つしたことがない。櫻ノ宮が生徒の外出に厳しいのは理由の一つだったが、栞という監督する教師がいれば何の問題もない。休日に彼女を誘って街に行くことも、このシネコンに映画を見に来ることも出来たのに栞はそんな発想すら抱くことがなかった。
結局、自分は燕城寺董子という少女に盲目的に夢中になっていただけで、彼女の幸福を考えていたわけじゃないじゃないか。そう心の中で自嘲した。
本編が始まる。アメリカの郊外の、何の変哲もない一軒家。戦場で銃をぶっ放すような映画によく出ている印象の俳優が父親らしく、車から降りて男の子に向かってしゃべっている。
『チームワークは確かに大切だ。だが、時にはアグレッシブに行かなきゃだめだ』
どうやら男の子のホッケーの試合があったらしい。観戦にきていた父親がそう息子にダメ出しをする。吹き替えだったのかと今更になって気がついた。
身体が鉛のように重い。瞼が自然と落ちてくる。
『でも、パパ……』
気弱そうな男の子が何かを言う。しかし、何を言っているのかまではおぼろげになってしまう。
そこで栞の意識は完全に落ちた。
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