行方

 ノックの音がしたのは十二時を過ぎる頃だった。

 栞が返事をする前に董子は扉を開けて部屋の中に入ってきた。


「……もうとっくに消灯の時間は過ぎてるぞ」


 椅子を動かして向かい合うようにする。ここに来たは良いが何と言えば良いのかわからない。彼女の表情はそうあからさまに物語っていた。もしかしたら彼女自身、何をしゃべろうということを明確に考えずにここに来てしまったのかもしれない。そこに栞がそっと助け船を出してやる。


「御門先生から大体の話は聞いた」

「先生……」

「お姉さん、ご無事で何よりだったじゃないか」


 そう栞は笑ってやる。


「大切なお姉さんなんだろう?」

「……はい」


 小さな言葉で呟いた彼女を見てから机の上の日誌に手を伸ばす。別段何かしなくてはいけないというわけではなかったが、ページをいたずらにめくってそこに書かれていることを頭の中で読み上げる。生徒たちの日常。学校側への要望。ちょっとしたいざこざと、その解決について。

 今董子と話していることはさして重要なものではない。

 そういうポーズをすることが今の栞には大切だった。


「しかし、お伽話のような話もあるものだ。お互い死んだと思っていた生き別れの姉妹が再会するなんて。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、正にその通りだ」

「それで、その、先生……」

「燕城寺も、もう少し勉強しないといけないな」


 栞の言葉に俯き加減だった董子が顔を上げる。疑問の表情が浮かんでいるそこに栞はさらりと言葉を付け加えた。


「来年の秋にはアメリカの高校だ。お前の学力なら大した問題もないと思うが、ヒアリングとスピーキングは数をこなさなきゃいけない。英語科の先生に頼んで個人レッスンでも受けさせてもらった方が良いだろう」

「せ、先生!」


 董子の顔に焦燥が浮かんだ。


「私はまだ、姉さまに付いて行くと決めたわけではありません……っ!」

「違うのか?」


 今度は栞が実にわざとらしく驚きの表情を浮かべて見せた。日誌を机の上に戻して、こともなげに言葉を続ける。


「私はてっきりもうそう決めたものだとばかり思っていたよ。わざわざアメリカから迎えに来て下さったんだ。さぞかしお前のことを大切に想っているんだろう」

「ですが……」

「お前だって家族の元で暮らせるのならそれが何よりだ。それに、向こうでならお前の病気についてだって波風をあまり立てずに治療出来る。お姉さんはそのために精神医学の道に進んだと聞いたぞ」

「……先生は、それでよろしいのですか?」


 ポツリと董子が言った。少し声が上ずっている。耳を澄ませると彼女の細い呼吸の音が聞こえてきそうに思えた。


「良いも悪いも、私の話じゃないだろう? 全てはお前のことだ、燕城寺」


 董子がまるで寒さを耐えるように自身の身体を一人抱きしめる。俯き加減になった表情は中学生が受けるとはとても思えないような苦しさを湛えていた。


「……先生がどれほど私を愛してくださったのか、私の身体が、頭が……そして何より、私の体に流れているこの血が覚えています」

「なら、それは餞別として持って行け」

「もう愛してはくださらない、と?」

「そういう話をしているんじゃない。私たちは今ならまだ引き返せるところにいるんだよ」


 栞は諭すように言った。


「確かに今の関係は心地良いものかもしれない。けれど、延々と続いて良いものじゃない。いつまでも溺れているわけにもいかない」

「………………」

「安心しろ。血だけは変わらずに提供するつもりだ。お姉さんが迎えにきてくれるまで、そっちの面倒はちゃんと見てやる」


 くすりと董子は笑った。

 そして、それと同時に目から大粒の滴を地面に落した。

 一滴、二滴。カーペットに小さな染みが出来る。


「やはり私は先生にとって何者でもなかったのですね……」

「………………」

「覚えていますか、初めて私のことを拒んだ時のことを? あの時、私は先生に本当に愛されているのだと感じることが出来たのです。偽物でもなく、安いものでもない。本物の愛だと。そして、そんな先生の寵愛を頂けるのなら、全てを捨て去ることだって出来ると思っていました」

「……忘れないさ。確かに私はお前を愛したのだから。それは嘘じゃない」

「でも、今はまるで何の価値もない紙切れのように私を捨てようとなさってます」

「捨てるんじゃない。もっとお前の傍にいるに相応しい人が出てきたから、その人に渡すんだ。元の持ち主に返すと言っても良い」


 董子が押し黙る。涙は一筋となって目からこぼれていた。喚いて泣かれるより、こういう涙を見せつけられる方がこたえる。

 彼女だってバカじゃないし物の道理がわからないわけでもない。栞の言うことが至極もっともなことであることを理解している。だからこそ彼女は栞をなじれずにいるのだ。それは彼女の優しさと言っても良かったかもしれない。


「神さまは、意地悪です。姉さまと離れ離れにならなければ私は先生に出会うことはなかった。今になって姉さまが出てこなければ私はきっとこの先も先生と歩いて行けた」

「そんなことは言うべきじゃない。かけがえのないお姉さんが生きていたんだ。神さまに感謝こそすれ、意地悪なんてもっての外だ。……冷静に考えてみろ、私とお姉さん、どちらが大切だ?」

「それを私に問うのですか?」

「今は私とのコトに熱を上げているだけだ。それでようやくイーブンの関係なら、熱が冷めた時にはお姉さんの方が大事な存在であることは間違いないだろう?」

「そんなの、わかりません」


 目から溢れる涙を無造作にぬぐう。


「私はまだ先生の全てを知ったわけじゃありません。むしろ、愛されてから知らないことが増えたと言っても良いんです。これから先があるのなら、私はもっともっと先生に夢中になるはずです」

「買い被りだ。私はそんな底の深い人間じゃない」

「そんなことはありません」


 抑えが利かなくなったのか、董子は前に進むと、座ったままの栞に抱きついた。そんな彼女を受け止め、背中に手をまわそうとして栞はゆっくりと手を下げた。ここで抱きしめてしまったら、今までどうにか保っていた全てが崩れてしまいそうに思えた。

 栞自身、後にも先にもこんなに夢中になる相手に出会えるとは思えなかった。それくらい燕城寺董子という少女を愛してしまっていた。


「先生、私と一緒にアメリカに来てください。お金はあります。姉さまだってきっとわかってくださいます」

「無茶を言ってくれるな。こんな私にだって一応は自分の生活というものがある。育ててくれた両親がいる。何もかも無責任に投げ出すわけにはいかない」

「それでは、これから先の先生の人生を私に売ってください。全財産。私の持っている全てでそれを買わせてください。そうすれば、大抵のことは片づくはずです」

「燕城寺……」


 それが一瞬でも素晴らしい提案に思えてしまった。けれど、そんなことが成り立つなんてことはあり得ない。

 抱きしめたい衝動を抑え、両手を董子の肩に置いてそっと彼女を離す。


「お前は、これからの私の人生をお前に縛りつけるつもりか?」


 その言葉に董子が息を飲むのがわかった。

 卑怯な言い方だ。

 栞にもそれはわかっている。けれど、こうでも言わなければ今の董子は収まりがつかないように思えた。

 嗚咽をもらしながら董子が栞を見やる。潤んだ瞳は光をいっぱいに受けた宝石のように見えた。大きすぎる宝物だ。とても自分の手に収まりきるような代物じゃない。栞は心の中で独りごちた。


「……すみませんでした、先生」


 唇を噛みしめるようにした姿。今まで見たことがないそんな彼女に栞は目を奪われる。どうしてそんな姿にまでそそられるのか……いや、それが骨の髄まで惚れているという証なのかもしれない。

 結局、涙を枯らすことなく董子は栞の部屋を後にした。

 これで良かったのだ。

 そう栞自身言い聞かせる。このまま行ったところで見えているのは破滅の道だ。激しく燃える恋の後に待つのが必ずしも幸福な世界とは限らない。むしろ、栞と董子のような関係では、後に残るのは何もかもを燃やしつくしてしまった灰塵だけということだってあるだろう。

 大きく息を一つ吸った。

 外ではまだ激しい雨音がする。叩きつける音がまるで栞の精神を一滴一滴と穿つように感じられた。

 けれど、止むことのない雨は決してない。

 陳腐な言葉ではあったが、今の栞にはそれが何よりの慰めの言葉に思えてならなかった。

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