泡沫の夢
夕方から急に雨が降り始めた。
自販機でホットのコーヒーを買ったが、最近好天続きで薄着にしていたせいか少しだけ肌寒い。栞は小さく息を一つ吐いてから国語科準備室へと戻った。誰も戻ってくるなんてことは言っていなかったが、それでも寮で待つのはどこか落ちつかないような気がした。
準備室に戻ったからと言って何かに手をつけられるような気持ちじゃない。董子の面会者ということだが、御門の表情から考えるとそれが、例えばこの前の董子をお飾りに使ってグループの駆け引きをしたかったような、そういう単純な人間でないことぐらいは想像がついた。
壁にかけてあるアンティークの時計をただぼんやりと眺めながらコーヒーをすする。
何もせずにただ待つ時間というのは、世界で最も長く感じる時間だそうだ。楽しい時が瞬間のような瞬きなら、こういう時間は無限に重なっている刹那の世界と言えるのかもしれない。一秒という変わらないはずの時間を、まるで全能の神が両手で引きのばそうとしているかのように長く感じる。
チクチクと進む秒針の音。窓ガラスを叩く雨。時折自らがすするコーヒー。無気味な不協和音だけが唯一時間を進める方法を知っているかのようだった。
そうこうしている内に、あと三十分もすれば警備員と当直の先生以外は誰もいなくなるような時間となった。
外を見ればすっかり闇の衣をまとっている。寮監である栞は寮でしなければいけない仕事もあるから、延々とここで時間を潰しているわけにもいかない。
「………………」
空になった缶を弄びながら、明日には事情が聞けるだろうかと考えていると、トントントンとノックが三つ。緊張よりも先に「はい」と声が出ていた。
「灯りがついてたからまだ帰ってないとは思ってたんだけど」
生徒はとっくに下校時刻になっている。ここに来ることがあるとすれば御門に違いなかった。
「一応、もしかしたら何か情報が入ってくるかもしれないと思ったので」
「董子ちゃんについて?」
「……ええ」
認めると少し不思議な気持ちがした。血をやって、キスをして……それだけなら単なるお遊びの関係と言っても許されるかもしれない。決定的な一歩を栞は結局踏み出さずにいた。そういったものが不要だと思っていたからという理由もないことはない。その先に進まなくとも、董子は栞の傍にいることを望んでいた。けれど、この関係の危うさをどこかで理解し、いつ崩壊しても良いようにそういった『縛り』となるような関係にしなかったという面もある。
逃げ道を作っていた。
そう言えば良いかもしれない。今になってその考えに思い至る。そして、その逃げ道が今役に立とうとしている。
「燕城寺詩織さん」
「燕城寺シオリ?」
「詩歌に親しむなんかの詩に、機織りの織。それで詩織」
「……亡くなった燕城寺のお姉さんですか?」
「そう。正確に言えば、亡くなったと思われていた、ということになっちゃうけどね」
栞の背をじとりと嫌な汗が伝うような気がした。御門がその辺にあった丸椅子に座る。
「生きていたのよ、アメリカで。……董子ちゃんがどうして天涯孤独になったかは知っている? 随分前に事故と聞いていたと言っていたように思うけど」
「父親の自殺に巻き込まれた……簡単に言えば心中だったと後になって燕城寺本人から聞きました。その中で自分だけが死に損なった、と」
「そう。硫化水素を使った無理心中でね。大企業グループのトップに立つ人間が娘を巻き込んで起こした無理心中。マスコミ関係はなんとか突発的な病死ということで情報を抑えたようだけれど、実際グループ内部はてんやわんや。情報も交錯して、正しい情報が周知されなかった」
「だからって今の今まで死んでいたとされる人間がひょっこり、生きてました、なんて出てくるもんですか?」
「普通なら出てこないわ。普通なら、ね」
聞くところによると、董子と詩織の二人の娘が辛うじて命を拾ったというのは、董子の面倒を見た弁護士や詩織の後見人など少数の人間は知っていたらしい。
なら、どうして彼女たちは互いが生きていると知らされなかったか?
それは、董子と詩織の関係に危険性を唱える人がいたからだそうだ。
当時のことを栞は知るわけはないが、血を欲する妹とそんな妹に血を与える姉。二人は極めて閉じた世界の中で生きており、このままでは二人とも真っ当な社会で――ましてや、大グループの後継争いが間違いなく起こるだろう中で――生きてはいけないのではないか? そういう考えを持った人がいたらしく、情報はあえて隠された。
正直、説明されれば栞も一理あるように思えた。
「詩織さんは一通りの治療を受けた後アメリカに渡った。彼女の後継人はお父さまの古い友人だそうでね。もちろんわざとそういう人を選んだんだと思うけど、アメリカに住んでいて、彼女はそのままアメリカで暮らすことになったのよ」
「だけど、それならどうして今になって突然出て来たんですか? 何かのテレビの企画で、お互い死んだと思っていた姉妹の感動の再会、なんていうものでもやるんです?」
「殺気立つのもわかるけれど、もう少し落ちついた方が良いわ」
言われ、栞は自分の言葉が隠し切れていない棘だらけであることに気づいた。「すみません」と大きく息を吐く。御門に当たったからと言ってどうなるものでもない。
その言葉は、今更になって董子の姉が出てきたということじゃなく、この先に続くだろう言葉がある程度わかってしまうからこそのものだった。当たり前だが、理由がなければ詩織もわざわざ櫻ノ宮に来ることはないだろう。
「詩織さんは実に優秀でね。高校を飛び級で卒業した後、精神医学専攻の大学に入学したそうよ。妹の命を奪う間接的な原因になっただろう病気について調べ、同じような人を救いたいと」
「………………」
「そこで、もう十分に精神的に成長したと彼女の後見人は思ったんでしょうね。実は董子ちゃんが生きていて、この櫻ノ宮にいることを知らせたんだって」
「それで? その詩織さんとやらは燕城寺……いえ、董子を引き取りたい、と?」
その通り。そう言うように御門は小さく頷いた。
「アメリカなら燕城寺グループの影響も少ないし、医学的なことについても日本と同じかそれ以上のレベルで受けられる。詩織さんもまだ未成年だけど、もうすぐ成人する。董子ちゃんが中学を卒業するタイミングで彼女を引き取りたいと言っていたわ」
「高校はどうするんですか?」
悪あがきのような言葉だった。董子ほどの学力があれば、もう少し英語を勉強すれば櫻ノ宮の中等部を卒業した後にアメリカのシニアハイスクールに問題なく入学出来るだろうということくらい栞にもわかっていた。
「……すみません、私が口を出すようなことじゃありませんでしたね」
「ううん。そう言いたくなる気持ちはわかるわ」
「燕城寺はなんと?」
「そりゃあ困惑してたわよ。今すぐに答えは出せない。そう言うのが精いっぱいだったわ」
「………………」
「死んだはずのお姉さんが突然現れたんだもの。そうなって当然よね。もちろん詩織さんも即決しろなんてことは言わなかった。一年の猶予があるこのタイミングを選んだことを考えても、そんな反応は予想済みだったのかもしれないわ」
抜け目がない。悪い言い方になるが、栞にはそうとしか思えなかった。
思い立ってすぐに行動しているという雰囲気ではない。それだけ董子のことを想っているのだろうし、自分の元に呼びたいと考えているのだろう。
「詩織さんは今どこに?」
「何なら寮の空いている部屋を使ってくれて構わないと言ったんだけれど、街のホテルを取っているからって帰っていったわ。大学の関係で長期にはこちらにいられないみたいだけど、今度の休日にはまた来るそうよ」
「そうですか……」
「その時にひとつ刀を交えるつもりかしら、貴女は?」
その言葉に栞は小さく笑った。
「戦って勝機のある試合だと思いますか? 天涯孤独だと思っていた少女の元に、きちんと成長した最愛の姉が迎えに来た。それを一介の教師がどうやって止めるんです?」
「董子ちゃんがまだどういう返事をするかわからないでしょう?」
「私との関係が露見したらそれこそ一巻の終わりです。中学生の教え子に手を出す……それも同性の教師の元に誰が置いておきたいと? 世間だって味方してくれません」
「だけど、身体目当てのような汚い関係じゃないわ。貴女たちの関係はある程度の節度をもったものと考えてもらえるはずよ。それに、董子ちゃんは貴女を間違いなく好いている。貴女がいなかったら、たぶん今日すぐにでも詩織さんに付いて行ってたわ」
「大丈夫です」
栞はおもむろに立ち上がった。とっくに空になった缶コーヒーに口をつけて、ことさら表情に気をつけて言葉を続ける。
「別れるのは苦手じゃありません。一年。それだけあれば、きちんと禍根なく別れられます」
「ちょっと……」
眉をしかめた御門に栞は笑った。
「意外ですね。御門先生はこういう大人の判断はお嫌いですか? 私が策を弄して、姉から彼女をさらうようなラブロマンスがお好みで?」
強がりだとばれているだろう。半分自分に言い聞かせるようなものだった。
「泡沫の夢だったんです。去年の四月から始まって、一年とちょっと。三十路前に見る夢としては最高の部類だったんじゃないかと思います」
「……本当にそれで納得出来るの?」
「納得出来る出来ないも、それしかありません。どの道私もそう遠くない内に父の会社を継がなければいけません。ずっと燕城寺の傍にいてやれるわけじゃありません」
この話題はこれで終わり。そう言うように「もうこんな時間だったんですね」と栞は時計に目をやって見せる。
「御門先生も寮に帰らないと。まだ寮監としての仕事が残ってますよ。私は鍵を戻してから帰りますから」
何もかも表情に出てしまうような年じゃない。御門と連れだって部屋を出る時の栞の表情はいつもと全く変わらなかった。
ちょうど董子との関係をこの後どうしていけばいいのか、頭の片隅で考えていた時でもある。
あれこれと悩む必要がないように天が助け船を出してくれたとすら言っても良いかもしれない。
御門と別れ、鍵を職員室へと返して外へ出ると雨は強く地面を叩いていた。土の部分はぬかるんでいるようなところも多かった。本降りになってからもう随分と経ったのだろう。
春から初夏へと向かおうとしているこの時に、まるで冬が忘れていた寒さをわざわざ迎えにきたかのような冷たさが空気にはあった。
大きく吸いこむと熱っぽくなっていた頭が冷やされるのがわかる。
栞は学園に置かれている予備のビニール傘を広げると、ゆっくりとした足取りで寮へと戻った。
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