初めての情事

 董子の読み聞かせが一段落したところで栞と董子は施設を後にした。

 この短時間で董子は随分と懐かれたようで、もっともっととせがまれたが、これ以上居ては寮の門限に間に合わなくなる。もちろん栞も一緒なのだから多少の遅れなど問題ではないだろう。けれど、それを崩してしまうと何もかもがなし崩しになってしまうように栞には思えた。

 帰りの車内、「気の利いたプランじゃなくて悪かったな」と言った栞に董子はかぶりを振った。


「嬉しかったです、本当に。先生が自ら私にこのような事実を教えてくださって」

「単なる思いつきだ。あまり深く考えてのことじゃない」

「例えそうであったとしてもです」


 董子はミラー越しに栞を見やってから窓の外に視線を向け、遠くを眺めはじめた。一年の中でも日の長い季節。時間は夕方に差し掛かっていたが、まだ空は夕焼けにも染まっていない。青い空には真白な雲が積み重なるように浮かび、鮮やかなコントラストを見せている。


「今、私は生きていて本当に良かったと心から思えています」

「大げさだな。まだ若いんだ。こんなことでそう思えるんなら、その内毎日が記念日のようになるぞ」

「でも、櫻ノ宮に来てから私の隣には死神の残滓みたいなものを常に感じていましたから」

「死神の残滓?」

「ええ。父が遺していった死神です」


 どういうことだろうかと栞が思うのと、董子が飲み物が欲しいと言ったのはほとんど同じだった。昼食と一緒に買ったお茶はもうすでに空になっていた。車を少し走らせ、近くにあったコンビニの駐車場に車を止める。

 シートベルトを外したところで董子は言葉を続けた。


「父は自殺だったんです」


 まるで大して関心のない事件の内容を言うかのようだった。


「いえ、正確に言えば無理心中と言った方が正しいでしょう。私と姉を巻き込んで死ぬつもりだったんです。それが、何の運命のいたずらか、私だけが生き残ってしまった。父も姉も、私を一緒に連れて行ってはくれなかった」


 突然の告白に栞は息をのんだ。


「それで死神の残滓、か……?」

「はい。先生はお御堂で私と会った時のことを覚えていらっしゃいますか? あの時、私は父に復讐に来ているのだと言いました」

「………………」

「復讐だったんです、あの時は確かに。なんで私を姉と共に連れて行ってくれなかったのか、私一人を生き残らせてしまったのか。恨んでいたんです。あの時、もしこのままでいればその残滓は再び死神となって、私を姉の元に連れて行ってくれるんじゃないか。そんな期待さえしていたかもしれません。それが、先生と出会ってから大きく変わりました」


 そこでようやく栞は董子の異変に気がついた。

 顔色が蒼くなっている。

 呼吸は浅く早い。

 嫌な予感が栞に走る。車酔いなんてものじゃないことはすぐにわかった。


「大丈夫です……心配しないでください」


 栞の僅かな動揺を感じ取ったのか、董子がけん制するように言った。


「大丈夫って言ったって、お前……」

「昼の時にあれだけ大見得を切っておいて、恥ずかしい限りです」


 そう言って苦笑を浮かべる。


「でも、毎日の薬を変えたおかげでしょうか……今は、そんなにきつくないんです。少し休めば、たぶん収まります」

「そんな曖昧な言葉を信じろってのは生憎無理な話だ」


 飲み物を欲した時から発作は始まっていたのだろう。

 時計を見やる。ここからじゃどう車を飛ばしても櫻ノ宮まで一時間以上はかかってしまう。かと言ってその辺の病院に担ぎ込むわけにもいかない。確かに最初に栞が発作を見た時よりかは余裕がありそうには見えたが、それはあくまでも相対的な話だった。いつあの時のように本格的に悪くなってしまうかもわからない。

 左右に軽く視線を振って考える栞を見透かしたように、


「それじゃあ……」


 董子は持っていたカバンから例の黄色の錠剤が入ったビンを取り出した。


「おい、それは――」

「御門先生からどういう風に聞いているかはわからないですけど……大丈夫です。御門先生は物事を大げさに言うところが、ありますから」

「ダメだ」


 助手席に身体を伸ばしてビンを持った手を止める。董子の手に力はなく、栞の制止であっさりと止まったが、それと反比例するかのように瞳だけは異様にぎらついていた。事前に知識がなければゾッとしてしまう視線だっただろうが、今の栞にとってはそれが董子のなによりのSOSのサインに思えた。

 手からビンが落ちる。

 董子の呼吸はさらに荒くなっていくのがわかった。姿勢を維持するのも辛くなったのか、シートに寄りかかるように彼女は姿勢を崩した。

 迷っている暇はない。


「せん、せい……?」


 いつも持ち歩いているポーチから小さな携帯用のハサミを取り出した。

 キャップを外す。小さいが、切れ味は悪くなかったはずだ。

 ためらいはない。

 栞は自身の左腕に刃を開いてあてがうと、


「っ……!」


 一気にハサミを引いた。

 チリっ、と燃えるような熱さが腕に走ったのは一瞬のこと。細いものであったが傷口からは血が溢れてくる。傷を負って安心したことなどこれまでで初めてだった。


「ほら」

「せんせい……なん、で……」


 腕を突き出す栞に董子が問う。顔には戸惑いの色。ここまで表情をあらわにする董子を栞が見たのは初めてだっただろう。それは紛れもなく年相応の中学生の女の子のものだった。


「四の五の言うのは後だ。早くしろ、渇いたら元も子もない」


 董子ののどがごくりと鳴る。

 おそるおそる。けれど、一度口がついてしまったら董子は抗う術を持たないようだった。

 音を立て、舌でなぞり、薄っすらとでも溢れてくる血をまるで今まで味わったことのない馳走を食べるかのようにすすっていく。

 多少の痛みはあったが、不思議と栞は満たされるような気持ちがした。

 この火急の場をしのげたことへの安心感か、曲がりなりにも彼女を想っての安堵の気持ちか、それともそれらとは全く別の……栞自身にも言葉に出来ない何かか?

 何にせよ、必死になって自身の血を求めてくる董子に初めて栞は彼女のために何かをしてやれている気持ちになった。


「………………」


 傷を負っていない右手を伸ばす。

 董子の柔らかい髪に触れ、怯えきってしまった仔猫を落ちつかせるようにゆっくりと撫でてやる。脳裏に彼女の……同じシオリという名前を持っていた姉のことがよぎった。彼女もこのような気持ちを抱いていたのだろうか?

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