懐旧の情

 竣工式はなんの問題もなく終わることが出来た。

 建前と本音は別物。もう燕城寺グループの権力の一つも持っておらず、未成年後見法人として櫻ノ宮が董子の莫大な財産の管理をしている中、彼女に近づいてうま味がある人はまずいないだろう。それでも結構な数の人間が董子の元に挨拶に来た。

 元々董子がこの竣工式に呼ばれたのだって正当な燕城寺グループの後継であることを示すためのマスコットでしかない。他に効果があったとしても、壇上の来賓席に彼女が座ることでいくらか華やかさが出ることくらいだろう。


「やはりあのように混み入った場所は好きになれそうにありません」


 竣工式の後の立食パーティが始まる前に会場を離れ、早々に車へと戻ってから董子はそんなことを言った。珍しく顔に少し疲れの色が見える。とは言っても会場にいた時にはそんな欠片すら見せていなかった。もしかしたらそれが出来るのが金持ちの家に生まれた子供というものなのかもしれない。


「どうする? 真っ直ぐ帰るか?」

「そう言うということは先生はこれから素敵なデートプランを考えてくださっているのでしょうか? まだ午後にもなったばかり。楽しむなら十分ですものね」

「そうじゃない。出たついでだ。燕城寺の行きたい場所があれば車をやってやるというだけだ」

「それでは、一つお願いがあります」


 栞が董子を見やる。


「先生が行きたいと思った場所に連れて行ってください」

「私の行きたい場所に?」

「ええ。出来れば、先生に縁のある場所であると嬉しいです」


 その一言に栞はふいに昔のことを思い出した。

 どうして咄嗟にその場所が思い浮かんだのかはわからない。けれど、肉親と死に別れた董子からのリクエストであったからこそであるのは間違いないように思えた。


「そのような顔をされるということは、候補地がおありなんですか?」

「……あるにはあるが、遊園地のように楽しい場所じゃないぞ。あんまり無茶をするのもあれだ。今日の所は帰って休んだ方が良いんじゃないか?」

「いえ、お願いします。このような滅多にないように思いますので、出来るだけ多く先生のことを知っておきたいのです。次の機会を待っていたらおばあさんになってしまうかもしれません」

「そうは言っても、身体の方は大丈夫なのか?」


 栞が聞くと董子は「あまり病人扱いしないでください」と笑った。


「自分の身体のことは自分が一番よく知っています。無理そうでしたら、ちゃんと言いますから」


 董子のそんな返答もあって、栞は次の目的地をナビにセットした。周囲を確認してからギアを入れ、車を駐車場から発進させる。

 都内から車で一時間半。途中のコンビニでお昼代わりのサンドイッチなどの軽食と、それとは別に駄菓子の類を大量に買いこむ。「それはなんですか?」と董子が疑問を口にしたが、「すぐにわかる」と栞ははぐらかした。

 着いたのは、湘南の風が吹く海岸沿いの町だった。でも、海を見に来たなんていうセンチメンタルなものじゃない。

 パーキングエリアに車を止め、歩いてすぐのところにその児童養護施設はあった。


「ここは……」

「これ以上何かを詮索される前にネタばらしでもしようかと思ってな。私に縁と所縁のある場所だ」


 空は青く晴れ渡り、気温はうなぎ上りだと天気予報では言っていたが、海からの風が吹いているせいかそこまで不快な感じはしなかった。

 施設の名前が書かれた銘板は記憶にあるものより幾分か古びていた。

 規模はそこまで大きくない。狭いグラウンドでは子供たちの遊ぶ姿が見えた。

 不思議な気持ちだった。栞は「どこが自分の実家か?」と問われたら間違いなく両親……養父母の家を答えると思うのだが、それでもここにもなんとも言えない感情が残っている。懐旧の情というやつだろうか?


「先生は昔こちらに?」

「ああ。もっとも五歳から小学校三年……十歳までだから、そう長い時間じゃない」

「でも、こちらにいらっしゃったということは……」

「産みの親は私をここに預けて蒸発した。正直顔すらろくに覚えちゃいないし、今どうしているのか、生きてるのか死んでるのかもわからない。一時は人並みに恨みもしたが、今となってはどうでも良いことだ。それに、私は運が良かった。小学校で書いた作文が市の賞に選ばれて、それがきっかけで今の両親にもらわれたんだ」


 実際、孤児の中で里親が見つかる子は多くない。栞自身自分がいかに恵まれた立場にある人間かはよくわかっていた。高校は元より大学へも通わせてもらった。あまり負担をかけまいと国立の大学を選んだが、それが私学であっても養父母はお金を出してくれたと思う。文句のつけようがない。


「もしかして、栞ちゃん?」


 門の中から声をかけられる。

 驚いたのは、突然声をかけられたからということもあったが、その人が栞の記憶と寸分たがわぬ姿だったからだった。

 人の良さそうな顔に驚きが顔に出ている。顔に刻まれた皺は少し深くなっているかもしれないが、それでも老けこんだという印象はこれっぽっちもなかった。栞がここを出てからもう十年以上。その時にもう六十間近だったのだから、今は七十をとうに過ぎている。それを考えると随分と若々しい。


「ご無沙汰してます、園長先生」

「まぁまぁ、本当に栞ちゃんなのね。何年ぶりかしら?」

「どうでしょう……? 十数年なのは間違いないと思いますが」

「本当ねぇ。栞ちゃんったら、たまに手紙はくれるのに当の本人は全然顔を見せないんだから」


 そう園長は笑った。確かに高校に入学した時や成人式の時など、折を見て手紙を出してはいたが、施設を出てからというものこうして栞自身が来るのは初めてだった。


「えっと、そちらのお嬢さんは?」

「初めてお目にかかります。燕城寺董子と申します。加賀美先生にはいつもお世話になっております」

「と言うことは、栞ちゃんの生徒さん?」

「ええ。たまたま近くで用事があったので、私の我がままで連れてきてしまいました」

「ふふ、なんだか子供が孫を連れてきたような感じだわ」


 園長はそんな冗談を言って二人を中へと招き入れた。

 敷地の中に入ると、目ざとい施設の子供たちが興味本位に栞たちに寄ってきた。「あなたたちのお姉さんにあたる人よ」と園長が答え、栞は先ほどコンビニで調達していた駄菓子の詰まった袋を職員の方に渡した。そうすると子どもたちはお菓子の方へとすぐに群がっていく。花より団子。それに董子は「こういう時のためのものだったのですね」と随分感心した様子だった。

 来賓室に通されてソファに座る。

 なぜここに来たのか? 改めて考える。

 本当に単なる思いつき。

 そう思い込もうとしているが、実際は違う。実の親に見捨てられたという過去を董子に知らせることで、栞自身何かを彼女と共有出来るのではないかと思った。すでに栞の方から董子との共通点を欲していた。


「今は学校の先生をしてるのよね?」

「ええ、私立の中学校で国語を担当しています」


 一度辞めた経緯は省いて説明した。


「それより、よく一目で私だとわかりましたね。そんなに変わっていないでしょうか?」

「まさか。面影はあるけれど、それ以上にとても素敵な女性になっていて驚いたわ」


 園長がコロコロと笑う。


「だけどねぇ、私はここのお母さんみたいなものだから。成長しても、巣立っていった子たちのことはわかるものよ。母は強し、って言うでしょう?」

「そう言われるとかないません」

「ところで董子ちゃん……で良いのよね? 栞ちゃんは学校ではどんな先生なのかしら?」

「とても尊敬出来る先生です。授業はわかりやすいですし、細かなところまで気を遣ってくれる……少しぶっきらぼうなのが珠に傷ですが、それを含めて考えてもとても優しくて、頼りがいのある先生です。学校でもとても人気があるんです」

「こんなところで話を盛ってどうするんだ? 褒めても何も良いことはないぞ」

「だけど、本当のことですから」


 微笑む董子に栞は苦く笑った。


「まぁ、こんな感じです。生徒に気を遣わせて、なんとかやれているという感じです」

「そう? でも栞ちゃんは昔から面倒見が良かったから、先生になると手紙で聞いた時には随分と納得したのだけれど」

「そうでしょうか?」

「ええ。良い先生になるだろうって職員さんたちとお話ししたもの」


 正直そんな評価をされる覚えは栞にはなかった。特別施設にいる時に誰かの面倒を見たという記憶はないし、むしろ、子供ながらに親に捨てられたという感情を持て余して一人塞ぎがちになっていたことばかりが頭の中には残っている。

 そう考えるといくら年齢の差があるとは言え今の董子は達観していると言えただろう。普通に接している限りでは肉親を全て喪い、天涯孤独の身であるなどとは想像もつかないに違いない。

 彼女本来の力か……それともそうせざるを得ないような過去だったのか。病気のことを考えると後者かもしれない。でも、だとしたらそれは昆虫の外殻のようなもので、限界を超えてしまったら一気につぶれてしまうようなもろさがあるのではないかと思えた。

 ちらりと栞が横目で董子を見やる。

 穏やかな表情で園長と談笑する姿は柔らかいが、そこには一分の隙もない。それはまるで壊れることのない完璧な何かを思わせるが、一皮むけばそれはガラスのように脆い存在のように見えた。

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