過去
校門の前に車を回すと、制服を着た董子はすでにそこで澄ました顔をして立っていた。
約束の十五分近く前だが……この外出を楽しみにしていた、ということもないだろう。何かと栞に迫る董子だが、基本的にはそんなに活発な性格とは言い難い。普段の彼女は木陰で風に吹かれながらそっと文庫本のページをめくるのが似合っていた。間違っても肌を刺してくるような強さの日差しに心が躍ることはないように思う。
かと言って、董子の普段との『変わらなさ』はちょっと普通とは違うように思えた。夏休み中、多くの生徒は実家へと帰省をしている。もちろん中には董子のようなワケアリの生徒もごく少数いるし、そもそも櫻ノ宮を運営する上での職員がいるから機能を停止してしまうわけではないが、それでも学生なら夏休みという響きにもう少し緩んでも良いように思う。
窓越しに栞が手ぶりで彼女に助手席へまわるように合図を送る。
「待たせたか?」
「いえ、私もさっき来たばかりです」
「常套句だな」
「でも、嘘じゃありません。まだ汗の一つもかいていません」
「それでも、念のため水分はこまめに補給しておけよ」
栞が自販機で買っておいたペットボトルのスポーツ飲料を手渡す。
「具合は?」
「いつもと変わりません」
「つまり、出来ればあまり出かけたりはしたくない、と?」
「意地悪を言わないでください。こうして使い走りみたいな真似をさせて申し訳ないとは思っているんですから」
「それは別に構わないさ。十分なだけの手当てが出る。どうせ寮にいても本を読むだけだ。私にとっても良い気分転換になる」
ゆっくりと車を発進させる。
「かっこいい車ですね。国産の……クーペって言うんでしたっけ?」
「わかるのか?」
「そこまで詳しいものじゃありません。けど、安物じゃないことくらいはわかります。高かったんじゃないですか?」
「安くないってことはわかるが、正確な数字は私もわからない」
校門で守衛たちに合図を送るとすぐに遮断棒が開いた。
竣工式は都内の一等地で行われるようだったが、そこまで時間がかかるわけでもない。櫻ノ宮はそれこそ車で五時間も六時間もかかるような、隔絶させた陸の孤島のような雰囲気を持っているが、それはカゴとして学園が機能しているからだ。カゴから抜け出てさえしまえば、そこには俗にまみれた世界が普通に存在していた。
「ご自身で買われた物じゃないのですか?」
「燕城寺は私に車に金をかけるような趣味があるように見えるのか?」
「どうでしょう……どちらかと言うとそういったものには頓着しない性格のように見受けられます。けれど、シャープな形は凄く似合ってます」
「贈り物なんだ。二十歳の時に父親から。子供に車をプレゼントするのが夢だったそうだ。古いアメリカのファミリー映画に影響されたらしい」
「お気持ちはわかります。さぞかしカッコいいお父さまなのでしょう」
どうだろうな、とその言葉を栞は笑った。
もちろんある程度尊敬はしているし、世間一般から言えば真っ当な人間で、育ててくれた恩は十分に感じている。が、外見にカッコいいという形容詞が合うかどうかは知れなかった。少なくとも容姿は六十を過ぎて中年太りに磨きがかかっている。
山から町へと車を走らせ、大きな片道二車線の県道に乗せる。幹線道路を使えば都心までそう時間はかからない。
「何か音楽でも流すか? このままってのも退屈だろ?」
「その分先生がお話してくだされば一向に構いません」
「それが面倒だから言ったんだ」
「せっかくのデートだと言うのにつれないんですね」
そんな董子の言葉をよそに、栞はカーオーディオを適当にいじって曲を流し始めた。
つないでいる栞のポータブルプレイヤーには古いイギリスのロックバンドの曲ばかりがつめこんである。元々栞は音楽に明るい方ではない。洋楽だからと言って造詣があるわけもなく、中学時代に偶然聞いて好きになったそのバンド以外の曲はあまり知らなかった。代表曲は董子のような一回り下の中学生でも知っているくらいに有名ではあったが、それ以外はあまり知られていないだろう。
「そういえば私、先生に謝らなければならないといけないことがあるんです」
県道を走り始めて十分。本当に栞が特に何かを話す気もないとわかったらしい董子が口を開いた。
「謝らなければならないこと?」
「ええ」
ミラーで董子の顔を見るが、その表情はいつもと変わらない。落ちついた表情に僅かに浮かぶ微笑み。そこだけ切り取れば中世の宗教画のようだ。
「この前、古いツテを使って、先生について少しだけ調べさせてもらったんです」
ピクリと栞のまぶたが微かに動いたが、それ以上は表情に出さなかった。
「驚きました。毎日……と言うと少しおおげさかもしれませんけれど、それに近い頻度で顔を合わせているのに、私にはそんな様子は一つも見せてくださいませんでしたから」
「私は教師でお前は生徒だからな。他にどんな様子を見せるっていうんだ?」
「そう言われると少し困ります。正直、私はそのような目で見られたことはありませんのでどんな感じなのか想像もつきません」
そのやり取りで栞には彼女が何の情報を得たのかが大体わかった。
ミラー越しに目が合う。珍しく董子の目に表情が出ているように栞には思えた。自分の尻尾ですらおもちゃのようにして遊びまわす仔猫のような好奇心に満ちた目は、少なくとも脅迫のネタや弱みを握ったという喜びを感じさせるような目ではない。
「でも、本当に考えたこともなかったんです。先生のような方が女子中学生に手を出していた過去があったなんて」
「人聞きの悪い言い方だな」
「そうでしょうか?」
「その時私が付き合っていたのが偶然そういう子だっただけだ。それに、私から口説いたわけじゃない。私だって何度も断ったが、それでも彼女は諦めなかった。ませた子でな。自分のことを大学生だと偽っていたし、他にもあれやこれやと策を弄してきて、その内に私の方が折れた」
「それでも、教員という立場の方が行って良いことではないと世間は判断をした」
「そうだな。三年前のことだ。私だって若かった、反省してるさ」
「ご自身が勤めている中学校でなかったことや、相手の方に相当な落ち度があったこと、相手方のご両親が罰を望まなかったこともあって自己都合の退職となっていたのですね。もし公になっていたらこの櫻ノ宮にも来られなかったでしょうし、その部分については私は神さまに感謝しなければいけないのかもしれません」
「神さまに感謝か。燕城寺らしくないな」
それは特別強がって言った言葉ではなかった。誰かに過去を暴かれるような真似をされるのは初めてのことだったが、不思議と腹が立ったりはしない。
相手が董子だからだろうか? それはあるかもしれないと栞は思った。
「とても新鮮でした。それと同時に、私は先生の何一つも知らないんだなとも思わされました」
「個人のプライバシーまで開示しなきゃいけない間柄じゃない。当然だろう?」
「でも、先生は私のことについてもう随分とご存じでしょう? 病気のことや生い立ちのこと。他にも細々としたこともいくつか」
「教員として生徒の指導に必要と感じられたからだ。何も興味本位で知ったわけじゃない。それに知らないことだって一杯ある。お前が猫派か犬派か、うどんと蕎麦どちらが好きか。さっぱり見当もつかない」
董子が小さく笑う。本当に先生はああ言えばこう言うんですから、と独り言のように言った。
「先生はレズビアンでいらっしゃるのですか?」
下賤な興味からの質問というより、本当に栞を理解したいがための質問のように思えた。
「男と付き合うような真似事をしたことがないわけじゃない。が、とても本気にはなれなかった。世間的に言えば私はレズビアンという分類に入るんだろうな」
「それならどうでしょう? 次の恋人として私が立候補したとしたら、先生は考えてくださるのでしょうか?」
心臓が跳ねる。しかし、それを表情には出さないように努める。
「……考えるも考えないも、好いた惚れたは理屈じゃない。もっとも、さっき言った子ともそう簡単に別れられたわけじゃない。随分と骨を折ってどうにか丸く収めたんだ。同じ経験は、出来ればあまりしたくない」
「でもその言い方だと、私にもまだチャンスはあるようですね」
クスクスと董子が笑うが、本気でそう言っているわけじゃないのは栞にもわかっていた。
彼女の姉を求めるその姿は、恋愛の一つもしらない子供が憧れる恋のようなものじゃないということはなんとなくわかっていた。もし仮に彼女が恋人を求めるのだとしたら、それは共に死を分かち合うような相手に違いない。少なくとも彼女が栞に向ける目はそう訴えかけていた。
そこでふと、栞の頭に『肉親の血とはどんな味がするものなのだろうか?』という疑問がよぎった。鉄のような味ということではない。董子が最初にすすったのは姉の血だったそうだが、そこで彼女は血を求めてしまう病気以上の何かを感じてしまったのではないのだろうか?
だからこそ、彼女は姉を……姉と呼べるような、骨肉を分かつことの出来る相手を求めているのかもしれない。
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