血の病

 静かな部屋の中に、チチチと遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。一枚二枚、薄皮を重ねるように振ってくる沈黙という幕を優しく破るように董子が言葉を紡ぐ。


「加賀美先生がここに運んでくださったんですか?」

「……ああ。あまりの軽さに驚いた。ちゃんと食ってるのか?」

「そう言えば前に、給仕の方が特別食を用意しようかと言ってくれているとおっしゃっていましたね。でも、夏はいつもこうなんです」

「フォアグラみたいに無理に流し込むわけにいかないんだ。何でも良いから少しは胃に入れろ」


 そう大して面白くもない冗談に彼女はくすくすと笑った。


「何でも、と言われるとすぐに血を思ってしまうから私はダメなんでしょうね」

「血?」

「ええ。血液です」


 董子が何を言おうとしているのか栞にはわからなかった。じっと彼女の顔を見やるが、涼しげな表情は保たれたまま。まだ血の気が完全には戻っていないのか、肌はいつもより透き通って見える。世界の何よりも美しく造られた人形のようだ。

 その人形が言葉を続ける。


「吸血鬼というのを先生はご存じでしょう? 私は吸血鬼なんです」


 そういえば、前に同じクラスの箱崎が言っていたことがあったのを栞は思い出した。董子は自らを吸血鬼と言っていた、と。


「なるほど。太陽の光に弱く、にんにくが苦手で……そうだな、鏡に映らなかったな。加えて、流れる水も渡れない」

「そういうファンタジーなものじゃないんですけどね」


 ジョークはお嫌いなんですね、とでも言うように董子が小さく形だけ拗ねて見せる。時と場合によるとしか栞は言えなかったが、少なくとも董子はそれだけの心の余裕をもって話せる内容らしい。


「それじゃあ異食症という言葉を聞いたことは?」

「聞いたことだけならある。土やら鉄やら……とにかく人間の食べ物じゃないものを食べる症状で、精神医学の分野だったように思うが」

「その通りです。よくご存じですね」


 董子がジェスチャーで自分の座ってるソファの対面のソファを勧め、栞は丸椅子からそちらへと移った。


「私が……いえ、燕城寺の家が代々患ってきたこの特異な病気は異食症の一つではないかと御門先生は考えていらっしゃるようです」

「つまり、発作的に血をどうしても欲しくなってしまう時がある、ということか?」

「理解が早くて助かります。あと、正確に言えば他人の生血です。自身を傷つけて血を舐めても満足せず、輸血用のパックの血液を飲んでも満たされない。他人が傷つき、そこから流れる血をすすることだけが唯一渇きを癒してくれる」

「なるほど、それで吸血鬼か」

「……驚かないのですね」

「十分驚いてるさ。元々私はリアクションが薄いんだ」


 彼女の口から出てくる言葉は常識からは程遠いものだったが、不思議と疑うような気持ちにはならなかった。第一、疑う必要がないと言った方が良いだろう。董子のみならず、御門まで巻き込んでこんな芝居をする意味はどこにもない。


「それより異食症とわかっていることの方が驚きだった。精神疾患ならではの難しさもあるんだろうが、対処法だって皆無じゃないんだろう? もっと重大な何かが隠されているのかと思っていた」

「残念ながら、異食症というのは御門先生の一つの見立てでしかありません。血を欲しがる以外に私には異食症に通ずる症状は一つもありませんから、そう断定してしまうのは早計だと私は思っています。そこは誤解をさせてしまったかもしれません。ですので、例え大きな病院で私を検査したところで、心臓や虚弱体質のこと以外は何も見つからないでしょう」

「だけど、発作を抑えるための薬は手放せない」

「ええ。そうしなければいつ私は誰を襲うともわからない」

「襲うっていうのは、比喩じゃなく?」

「ええ、比喩じゃありません」


 彼女はそう断言した。


「私が初めて発作を起こしたのは五歳の時でした。今でもあの時の衝動はよく覚えています」

「………………」

「壮絶を絶する喉の渇き。灼熱に焼かれた砂漠を三日間彷徨った後のようなたまらない飢餓感。幼い私は衝動のままにハサミをもち出すと、縁側で無防備に寝ていた飼い猫に焦点を合わせていました」

「……それで?」

「寸前の所で姉が気づいて猫を私からかばいました。おかげで姉は腕に何針も縫う怪我を負い、一方の私は、罪悪感を覚える間もなくその流れ出る血を懸命にすすり始めました。我に返った時には、私の身体は姉の血でベタベタに汚れていました。姉は私より五つ年上で、おそらく病気のことはすでに聞いていたのでしょう。私を咎めるでもなく、それどころか優しく頭を撫でてくれていたんです」


 淡々と語る董子の顔に表情は浮かんでいなかった。その無表情さが逆にその時起こったことをまざまざと想起させているように感じられる。リアリティとでも呼べば良いのだろうか? そこには何の誇張もあるように思えなかった。


「この病気の血を欲する欲求は覚せい剤かそれ以上のものがあると前に御門先生はおっしゃっていました。人間の三大欲求。食欲、睡眠欲、性欲。それに並ぶほどで、満たすためなら他者に危害を加えかねないほどだと。もしこのことが明らかになった場合、私は一般の世界からはどういった形であれ隔離されるに違いありません」


 それが御門が外部の手を借りられないと言った理由なのかもしれない。

 いくら現代の医学が進んだものになっていると言っても、珍しい症例に対応出来るような薬がすぐに見つかるとは到底思えない。

 栞は精神医学についてほとんど知識はなかったし、せいぜい大学の講義で少し履修した程度だったが、その異常さは明らかに思えた。

 確かに、先ほどの董子が発作を起こした時の目のぎらつきは尋常なものではなかった。彼女はなんとか衝動を抑えこんでいたようだったが、近くに刃物があればそれを手に栞に襲いかかってもおかしくなかったかもしれない。そう思わせるものがあの時の彼女にはあった。

 そんな人物に対してどのような対処がなされるのか……あまり楽しい話でないのは確かに違いない。


「あの事件は、ようやく落ち着いたと思っていた燕城寺家の悪夢が再び始まった瞬間だったと言えるかもしれません」

「そう言えば代々患ってきたと言っていたな。遺伝病なのか?」

「具体的にはわかっていません。けれど、残された文献を読むと同じ症状が昔から出てきています。姉は発症していませんでしたが、母がそうでした。他家の血を入れれば変わるかもしれないと父も祖父もそれまでと違って全く縁のないところから婿養子として迎え入れたのですが、燕城寺の病を消すには至らなかったようです」

「それじゃあ、代々の人たちもその薬を飲んで、世を忍んで生きて来たと?」

「まともに生活が出来るようになったのは私の時代からです。負担が大きいと言っても私の飲んでいる薬はまだ合法なものです。母の時代の薬はそうじゃありませんでした。劇薬と言って良いでしょう。それでも、母は飲まなければならなかった。いつ発作が起こるかもわからない。起こってしまったら何をしでかすかわからない。子供たちを傷つけるかもしれない。それこそ、殺してしまうかもわからない。そんな衝動を抑え込むために薬を飲み続けた母は、四十になる前に壊れてしまったんです」


 深くソファに腰掛ける。櫻ノ宮に来て……と言うより、燕城寺董子という人物に出会ってからのことがようやく少しひも解けたような気がした。


「それでも、まだ母は幸せな方だったでしょう。それまで燕城寺の家は病気を発症した人間に対して監禁はもちろんのこと、病気の原因の解明を理由とした実験など、とても人に言えないようなことをしてきたと言われています。今でこそ燕城寺の会社は他人の手に渡りました。しかし、明治の頃より続く燕城寺財閥のイメージというものは切っても切り離せません。それが表沙汰になるのを今の人たちは嫌うはずです」

「今生きている人間……ましてやお前とは何の関係もないのに、か?」

「大人の世界というのはそういう世界だと先生は十分理解されているように思います」


 言われた通りだった。

 栞だってそういう『大人の世界』で生きてきた。どれだけ整合性のとれた理屈があったとしても、感情というものはいとも簡単にそれをへし折ってしまう。人間という生き物はどこまでも感情に動かされる動物に他ならない。なのに、対外的には感情よりも理屈や理論を重視することがある。それは常識や倫理という名前がつけられていた。それが『大人の世界』だ。


「でも、だからってお前が全ての苦労をしょいこむのは間違っていると思う。大々的なものは無理だとしても、もっと穏やかなサポートを受けるやり方はあるように思える」

「勘違いなさらないでください。これは私が望んだことでもあるんです」

「望んだこと?」

「姉の血を初めてすすってからというもの、姉は発作の度に私に血をくれました。私も、それをいけないことだとは思いつつもそれを甘受した。その時から姉は私にとってかけがえのない、唯一無二の存在になったんです。それは言葉ではとても言い表せないものだったかもしれません。姉を亡くした時、もう二度と同じような関係を築けるような人は現れない。そう思いました。そうであるなら、私にとって生きている意味はさほどない。薬が私の寿命をいくら縮めようと関係ない。そう考えて私は薬を飲んでいたんです」

「考えていたっていうことは、過去形か……」


 はい、と董子は首を縦に振った。


「先生。私にとって先生は、この人がいるのであればもう一度生きても良いかもしれないと思えるような存在なんです」

「そんなに気に入られるようなことをした覚えはないんだがな」

「私だって、何がどうあって先生だけが特別なのか、言葉にするのは難しいです。だけど、私のここが……」


 とんとんと自分の胸を指し示す。


「私のここが、そう感じたんです」


 それは、もしかしたら董子が栞に対してはっきりと好意を伝えた最初の言葉だったかもしれない。


「ですけど、先生。だからと言って私に血を与えようなどとは考えないでください」

「どうしてだ? もし私が血をやってお前の症状が一時的にでも落ち着くなら好いことじゃないのか?」

「例え今の先生が私に血をくれたとしても、それはあくまで義務感や援助の気持ちに違いありません」


 そんなことはない。

 咄嗟に口にしてしまいそうになった言葉をギリギリの所で栞は堪えた。


「……そこに私の本当の気持ちはこもっていないと?」慎重に言葉を紡ぐ。

「その通りです。今日のようなことがあっても、先生は教師という役割に囚われて、血を差し出すようなことはしないでください。それは、私の気持ちを踏みにじるものとすら言えるかもしれません」


 それまで人形のようだった董子の顔がようやく人間のそれに戻る。発作の後遺症も随分と良くなったのかもしれない。そして、彼女がここまで自分の気持ちを言葉にするのも初めてのことだった。


「……わかった、その気持ちは最大限考慮しよう」

「ありがとうございます。これで、ようやく私と先生は同じスタートラインに立てたというような気持ちがします」

「そうかもしれないな。今日は少しだけ燕城寺董子という生徒のことが理解出来た日だとは思う」

「羨ましい限りです。正直、私は先生について知っていることはほとんどありません」


 絨毯のせいですぐそこにくるまでわからなかったが、パンプスの足音がすぐそこにあった。御門が帰ってきたのだろう。栞はソファから立ち上がるとゆっくりと大きく深呼吸をした。


「燕城寺。追試の日程はすでに決まってあったな? 今日のことがあったからといって特別扱いはしないから、きちんと勉強をしておくように。もしそこでも期末のような真似をしたら問答無用で夏季休養の間に補習だ」

「先生と二人きりなら私はそれでも一向に構いません。むしろ喜んで受けることでしょう」

「生憎だな。そうなったら私は指導経験不足ということで全国で開かれる勉強会に参加させてもらうことにたった今決めた。補習は同じ国語科の安田先生にやってもらう」

「それは残念です。追試は頑張って赤点を取らないように努力しないと」


 そう微笑んだ董子がちかちかと眩しく思えた。深い沼が少しのライトで照らされたところでその深淵まで簡単に見通せるわけじゃない。燕城寺董子という存在は未だ未知の存在と言って良かった。

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