異変

 七月になってから世の中は夏であることをはっきりと自覚したらしい。テレビから流れてくる天気予報の気温は日に日に右肩上がりになっている。櫻ノ宮にもクーラーが入れられていた。

 期末試験が終わり、生徒たちはもうすぐ来る夏休みを心待ちにしているようだった。学期中は寮生活を送っている彼女たちも、董子のような事情があるような生徒以外は長い休みの時には実家に帰省する。大人びた子が多いとは言っても、まだまだ中学生。親の庇護が嬉しい子も多いのだろうし、中には避暑地にいくつか別荘を持っていて、せっかくだからそこでお泊まり会をしようと計画している子もいるらしかった。

 そんな中、栞は生徒指導室で燕城寺董子と向かい合って座っていた。

 生徒指導室という部屋は櫻ノ宮の中では狭い部屋に入るだろう。人が十五人も入ればぎゅうぎゅうに思えてしまうだろう中に、二人掛けのソファが二脚。間に背の低いテーブルがあって、観葉植物が柔らかい緑で部屋の雰囲気を柔らかいものへと変えている。片面に大きく取られた窓にはブラインドが降りていて、正直『指導』とは名ばかりでちょっとした来賓室に見えるかもしれない。もっとも、櫻ノ宮の来賓室はこれとは比べ物にならないくらい豪華なものが用意されているのだが。


「………………」


 櫻ノ宮の大人しい生徒たちがここに呼ばれることは数少ない。その数少ない機会も、大抵は担任の教師や学年主任の先生からの呼び出しであって、こうして栞が董子と対面するのは初めてのことだった。


「何で呼ばれたのかわからない、ってことはないよな、燕城寺?」

「ええ、桑田先生から説明を受けましたから」


 桑田とは董子のクラス担任の女性教師だった。


「そうじゃなくともわかってるだろう? 自分のしでかしたことなんだから」


 栞が机の上に一枚の答案用紙を差し出す。

 国語科の期末試験。名前の欄に『燕城寺董子』と書かれた以外には鉛筆で書かれた部分は一ヶ所もない。全ての空欄に赤ペンでチェックが書かれ、名前の横に『0』の文字が表記されている。完全な無回答の答案用紙だった。


「何を考えてこんなことをしたんだ?」

「桑田先生にも全く同じことを聞かれました。あと、具合でも悪かったのか? とも」

「具合が悪かったのなら試験官の先生にそう申し出れば良かっただろう? 後日、改めて再試験ということにでもなっただろうに」


 もちろんそんなわけはないと栞もわかっている。同日に行われた社会や数学といった教科では董子は満点に近い結果を出している。そんな中、ボイコットをするかのように国語の答案用紙だけがまっさらなまま提出された。


「桑田先生には何も言わなかったんだってな」

「ええ。だって、桑田先生に言ったところで、加賀美先生は私に興味を抱いてくれるわけではありませんから。どういった感情であれ、無関心のままでは先生は私のことを気に留めてくださらないでしょう?」

「気には留めるさ。お前は大切な生徒の一人だ」

「それは、言い換えればその他大勢と同じ扱いだと考えます。それは私の望む関係じゃありません」


 栞は大きくため息を吐いた。

 また彼女はあの目をする。愛を欲する目。栞から「好き」という言葉だけをただひたすらに求めているような目だ。董子の気持ちが栞にあるのはもう誰にも否定出来ないようなものだった。

 これが初めてではない。あのお御堂での一件以来、董子は栞に対して常に誘うような言葉を並べていた。それははっきりとした求愛のサインと言っても良かっただろう。

 そして、栞もそれに痺れてきている。不自由で不合理な感情のうねり。口にしてしまえばとても止めることが出来ないとわかるほど強いそれは日に日に栞を浸食していっているように思えた。それを辛うじて食い止めているのは、栞が教師であるということではなかった。彼女に溺れてしまえば二度と抜けだせなくなってしまう。それがあまりにもはっきりとわかってしまうからだった。

 深すぎる恋愛はやがてその人を滅ぼす。古今東西、多くの創作物でも描かれているきていることだ。


「追試については知っているな?」


 考えを振り払って、栞はことさら教師然とした態度を心がけて言った。

 通常なら落第点を取った生徒は追試を受けることになり、そこでも及第点を取れないようであれば夏季休暇の間に補習を受けることになる。

 もっとも、それで桑田や学年主任が納得するだろうか?

 少なくとも桑田は董子が今回の白紙の答案をわざとやっているのは承知しているだろう。こんなことをするにはそれなりの理由がある。そう思ったからこそ桑田は栞に董子と面談するように言ったのだ。追試や補習を受けさせます、という回答をしたところで納得が得られるとは思えない。


「先生はそんなに怖いのですか?」


 どうしたものかと考えている栞に、ポツリと董子が言った。


「怖い?」

「ええ。私の姉に……お遊びの姉になることが」

「それは怖い怖くないの話じゃない。金銭の授受によって親族の真似ごとをするなんてのはおかしな話だ。感情以前の問題だろう?」


 栞の言葉に、董子は「そうでしょうか?」と疑問を投げかけた。


「私には先生がそれ以外のなにかを恐れているように見えます」

「どういう意味だ?」

「先生は深く私に関わるのが怖いのではないですか? 深く関われば関わるほど私に囚われてしまう。そう感じているのでしょう?」

「……大した自信だな」

「自信がなければこんなことはしませんから」

「なるほど、お前らしい」


 ソファにもたれかかり、栞はそんな董子の言葉を小さく笑い飛ばしてみせた。

 が、内心は核心を突かれてどうしようもなくなっていた。

 外から入ってくる光を幾重にも閉じ込めたような瞳が真っ直ぐに栞を射ぬく。無邪気な中学生の目じゃない。愛にまみれた欲をなんとしても引き出そうとする、恋に囚われた者の視線。百戦錬磨の恋愛の達人だってこんな目は出来ないに違いない。


「第一、姉になれと言われても何を求められてるのかわからない」


 それから逃れるように栞は顔をそむけておざなりに言った。


「私に兄弟姉妹はいないからな。妹のようにお前のことを扱えと言われたってどうしていいのか見当もつきやしない」

「正解があるわけじゃありません」


 董子が言った。


「ただ、私を愛してくだされば良いんです。時に甘えさせてくれて、時に叱ってくれる。それで良いのです」

「教師だって似たようなものじゃないか。時に甘やかすし、叱りもする」

「そうではありません」


 断言するような言葉には力があった。董子の目が何かを秘めているかのように光る。


「たった一人の姉、たった一人の妹。そうして姉妹として契りを結ぶ。一番身近な存在として互いを求め合う。姉は妹のことを想い、妹は姉のことを慕う。その関係は他のどんな関係にも置き換えられず、また上回れるものでもない」

「それは無理な注文だな。お前が求めていることがその契りとやらが何にも置き換えられないものだとしたら、私はどうあってもお前の姉にはなれやしない。私はすでにお前の先生だ。話からするに二重契約はご法度だろう?」

「そうかもしれません。でも、先生なら……生徒に寄りそう振りをしながら、たったの一歩も懐に入れさせない先生なら、限りなく似た契りが結べるのではないかと感じています」


 なるほど、と栞は息を吐いた。すでに彼女はこの学園の中にある栞のスタンスをすっかり見極めているようだった。

 一見近づきやすく、慣れ合いやすい。ノリも良く、生徒にある種の友人のように馴染む教師。表面のそんな薄皮を一枚剥いでみれば、そこにある栞は、生徒に寄りそうことなど微塵も考えていない自分都合の大人だった。

 決して栞はペシミストというわけではなかったが、だからと言って楽観的に世の中を見ているわけでもなかった。一見洒洒楽楽とした人物のように見えるかもしれないが、それはあえて言うなら栞なりの処世術と言っても良かったかもしれない。

 栞は今まで自分が熱中出来ると思えたものが一つもなかった。

 幼い頃は周囲の大人の顔色ばかりをうかがい、少女の時代にはその反動で敵意をふりまいて来た。高校生となり、大学に入る頃には多少は落ち着いた性格になったが、その時には自分の姿を遠くから眺めるようにするような癖がついていてしまっていた。

 それが、今初めて熱中してしまいそうなものに出会ってしまった。しかもそれは、あろうことか目の前の教え子であり、少女だった。

 栞はソファから立ち上がると、部屋のチェストに置いてあるコーヒーメーカーからコーヒーを一杯淹れた。冷房のおかげで少しばかり身体が冷えてきている。今は少しでも彼女のペースから逃れたかった。そうせねば、いつ勝手に自分の口が彼女に対して本音をしゃべってしまうのではないかと思えた。

 自分はいつまでこの状態に耐えていられるだろうか?

 そんなことを考えたその時になってようやく栞は異変に気がついた。


「……燕城寺?」


 ただでさえ白い顔が青白くなっていた。血の気が引いていると言ったら良いのだろうか? ソファに座っているのが不思議なくらいの顔色だ。


「大丈夫か、燕城寺? 顔色が悪いぞ」

「え、ええ……」


 彼女は口元を手で抑えた。

 顔色は悪いのに目だけが異様にぎらついているように感じられる。まるで獲物を狙う猛禽類のそれだ。呼吸は荒く、乱れもあるように見えた。

 明らかに普通じゃない。

 心臓のこともある。


「……ちょっと待ってろ、御門先生を呼んでくる」

「いえ……それには、及びません」


 部屋から出ようとした栞を董子は止めると、震える手でそばに置いていたカバンを開いた。

 取り出したのは小さなビンだった。中に何錠もの黄色の錠剤が入ったそれは、いつぞやか「気休めのサプリメント」と言っていたものとは違うようだ。

 乱暴に蓋を開けて一錠取り出し、董子は水もなしにそれを飲みこんだ。


「燕城寺?」

「すみません……すぐに落ち着くと思います……」


 そう彼女は言ったが、呼吸はなかなか整わない。異様な目のぎらつきは収まりつつあるように見えたものの、顔色は病人以外の何ものにも見えなかった。貧血のような症状に似ているのかもしれないが、そんな優しいものじゃないというのは容易に感じ取れる。


「保健室に行くか? 今ならまだ御門先生がいると思うぞ」

「いえ……ここで大丈夫、です」


 そう言い終わるかどうかだった。

 ふっと董子の身体から力が抜けて、彼女はそのままソファに倒れ込んだ。


「燕城寺!」


 気を失ったらしい。顔にはうっすらと汗をかいている。

 栞は部屋の内線電話をひっつかむと保健室を呼びだした。御門がいれば指示をあおげるが、いなかった場合はどうしようもない。その時は救急車でもなんでも呼ぶまでだ。

 幸い電話はすぐに繋がり、保健室に御門はいた。

 起こったことを話すと、保健室に連れてきて欲しいと御門は言った。念のために病院に、ということを栞は言ったが、御門はその提案を断った。

 病院に行く必要がないのか、それとも病院に『行かせられない』何かがあるのか?

 そんな思考が頭をかすめる。しかし、今はそんな思考に構っている暇はない。

 栞は女性にしては身長が高く、一七〇センチに近い。董子くらいの子を保健室まで運ぶなら何の問題もないだろう。そう思って抱きかかえた董子はびっくりするくらいに軽かった。少しの肉でもついていればもうちょっと重さがあるだろうに、骨に皮が張っているだけではないかと思えるほどだった。

 そして――


「――っ!」


 意識を失った董子の顔に思わず栞は生唾を飲み込んだ。

 もし天使がいるとすれば彼女のような外見をしているのかもしれない。

 そう思ったことは今までにも幾度かあったが、こんなに間近で見たのは初めてだった。長いまつげにすっと通った鼻梁。苦しそうな呼吸を繰り返す唇はほのかに色づき、年齢以上の艶めかしさを感じさせた。

 それになにより、思った以上に心から彼女を求めてしまおうとしている自分自身がいることに栞は驚いた。

 慌ててかぶりを振って余計な考えを頭から追い払う。彼女がどういう状態なのかわからないのだ。一刻も早く保健室に彼女を運ばねばいけなかった。

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