御門

 三千万円の仕事。

 それが董子の冗談だとか、子供が子供なりに考えた口説き文句だと思ったことは栞は一度もなかった。

 確かに董子の持つ財産は年に三千万円を支払うだけの余裕があったが、だからと言って未成年の董子がそれを自由に出来るわけじゃない。今の董子の法定後見人は櫻ノ宮女学校を運営する櫻ノ宮財団だ。董子がいくら栞に年間三千万を渡したかったとしても、「姉の代わりとなってくれている一教師に三千万円を支払いたいから」なんて理由で財団がそれを認めるわけがない。

 しかし、それでも董子は自分に三千万という金銭を支払うだろう。そういう確信が栞にはあった。そう思わせるのが燕城寺董子という人物だった。


「お疲れさま」


 ふいに声が降ってきて栞ははっと我に返った。

 机に頬杖をついてぼぅっと考えごとに耽っていた。目の前の机にはほぼ出来あがった国語科の期末試験が散らかしてある。振り返ると白衣姿のままの御門の姿があった。


「御門先生?」

「柄にもなくこんな時間に職員室に顔を出したんだけれど正解だったわ」

「どういう意味ですか?」


 聞くと、「はい」とそのまま冷たい缶コーヒーが差し出された。有糖のカフェオレだった。


「間違って買っちゃったのよ。ほら、この前自販機のラインナップが変わったでしょ? 手癖でボタン押したらそれが出てきちゃってね。甘いのどうにも苦手で、押しつける相手を探してたの。加賀美先生、前にこれ飲んでたでしょう?」

「ええ。もらっちゃって良いのならいただきます」

「どうぞどうぞ」


 言って御門は隣の教員の椅子を勝手に引き出して座った。白衣からもう一本取り出した缶コーヒーは御門がいつも飲んでいるブラックのものだ。

 相変わらず人の少ない職員室ではあったが、それでも白衣の御門の姿は目立つ。とは言っても服装や規律をうるさく言うような教師の姿はなく、御門もそれを確認してから栞にこれを渡しに入ってきたのだろう。学校が学校なだけにお堅い教師はいるもので比較的フランクな言動の目立つ栞や御門には天敵と言えるような人が少なくない。

 プルトップを開けてコーヒーを一口飲みこむ。栞もそこまで甘党というわけではなかったが、特別嫌いというわけでもなかった。それに、今は久しぶりの期末テストの作成で頭を随分と疲れさせていたこともあって甘いものは歓迎だった。国語科のテストは正解がこれと確実に決まっているような数学と違っていて、問題を作るのも採点をするのも他の教科とは微妙に違ってくる。

 そうやって一息ついてから、


「それで御門先生、一体どのようなご用件でしょうか?」言った。


 栞の言葉に御門は一瞬きょとんとしたが、すぐにケラケラと笑い始めた。


「どうしてそう思うの?」

「まさか本当に間違って買ってしまうほど御門先生が抜けているとも思いませんし、こういう場合他に用件があるのが普通だと思いますので」

「そうね、その通りだわ。流石に取ってつけたような缶コーヒーだけじゃ無理があるか」


 そして、二人にとって共通の話題と言ったら――もちろん探せば他にも多少はあるのだろうが――十中八九は決まっていた。

 御門はカリカリと頭をかいてから言葉を続けた。


「最近董子ちゃんが随分と貴女に執着しているでしょう? 最初は単なる気まぐれかと思っていたんだけど、気まぐれって言うには少し時間が経つし、どうやら今までにないことだなと思って」

「詳しい話を聞いているんですか?」

「ううん、詳しいところは何も。あの子も話したがらないし、私だって根掘り葉掘り聞くのが良いとも思ってないから」


 ということは御門は『三千万の仕事』については知らないだろう。ぼんやりとそう思う。


「ただ加賀美先生が困っていたら何か手を打たないといけないかな、って思ってはいるわ。あの子、ああいう性格だし執着するとなると他のことが目に入らなくなるようなタイプだから」

「燕城寺ほどの年齢の子にしてはそう珍しくないことじゃないんじゃないですか? 何かに執着したり、他の人からしたら取るに足らないようなことにこだわったり……」

「一般的には、ね。だけどあの子はそういう一般的な定規で計って良いような子じゃないでしょう?」


 その言い方は栞も董子のそんな性格を十分にわかっているようなものだった。

 観察力がある……と言うよりは元々人と人との距離感を測るのに彼女は長けているのだろう。董子が詳しいことを話していなかったとしても栞と董子の間にある何とも表現のし難い『距離』について察しがついているようだ。

 ここまできて栞が変に誤魔化す必要もない。


「そうじゃない、と言ったら嘘になりますね。ただ、そこまで困っているかと言われたら首を横に振ります。燕城寺はそこまでわからず屋というわけじゃありませんし」

「確かにね。他の物事に目がいかなくなってもだからと言って猪突猛進するタイプでもない。基本的に頭が良いのよ。良くも悪くも、という言葉がついちゃうけれど」

「でも、御門先生がなんとなく勘付いてくれていたのなら心強いです。今はまだ特別困ったことは起きてませんが、これからがどうなるかはわかりませんし。そういった時に相談出来る相手がいるといないとでは雲泥の差ですから」

「その言い方でこっちも安心したわ。加賀美先生なら不用意なことはしないと思ってはいたんだけれど、少し気にはなっていたのは事実だから。私はもう少し様子見ということでも問題なさそうね」

「そんなに簡単に信用して良いんですか?」


 もののついで、と言うわけではないが栞はそんなことを問うた。


「今はこうして善人の顔をしていますが、仮面の下には悪魔がいるかもしれませんよ?」

「そうね……」


 それに御門は少し考えてから、


「仮に貴女が悪魔だったとしても、個人的には董子ちゃんを傷つけなければ問題ないと考えてるわ」


 ひょうひょうとそんなことを言ってのけた。


「そんなに特別な子なんですか、燕城寺は?」

「まぁね。こちらにも多少の事情ってものがあるのよ」


 それから話題をすっかり変えるように言葉を続ける。


「それより、さっきから気になってたんだけどなんで期末テストなんて作ってるの? 下請けに放り投げればちゃんとしたのが作られてくるでしょ?」

「それはそうなんですけどね」


 栞も話題を混ぜっ返すことはせずに会話に乗っかった。


「こういうの、自分で作らないとなんか落ち着かなくて。もうちょっと櫻ノ宮に慣れれば丸投げ出来るようになるかもしれません」

「そうね、それは確かにそうかも。……でも出来れば私は加賀美先生にはそのままの加賀美先生であって欲しいわね」


 そう言うと、御門は慣れた様子で小さくウインクをしてから職員室を後にした。

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