燕城寺董子

 白薔薇寮の入り口で栞を出迎えてくれた燕城寺董子という生徒は中学生と言うには驚くほど落ち着きがある生徒だった。

 いや、落ち着きという言葉で表現してしまうと少し語弊があるかもしれない。

 物腰は柔らかで、端正な顔立ちは温順な表情を浮かべている。寮の施設を一つひとつ説明してくれるその態度はこの櫻ノ宮に相応しいものだっただろう。

 しかし、接してみるとすぐにその完璧とも言える所作の中に混ざり込んだ違和感に気がついた。

 彼女は新任教師となる栞に対して興味の欠片も抱いておらず、丁寧なのだが淡泊で、まるでそうするようにプログラムされた機械のようだった。お手本のような説明の後ろには何の感情も込められていない。少なくとも、栞自身はここに来たことを彼女に歓迎されているという気持ちは全く受けなかった。

 施設の大体を簡単に案内してから、最後に最上階にある部屋の一室へと案内される。


「ここが加賀美先生にお使いになっていただく部屋です」


 そこは寮と言うよりかはグレードの良いホテルの一室に見えた。

 セミダブルのベッドに、配置された家具はアンティーク調のもので統一されている。片隅には栞が送った段ボールが――ここまで広いものだとは思っていなかったから、ごく僅かだったが――積まれていた。それでもなお両手足を思い切り伸ばしてストレッチが出来そうな広さを感じるくらいだから相当なものだろう。

 加えて、バストイレが別になったバスルームに、キッチンまで用意されている。立地はさておき、ワンルームマンションの一部屋として売りに出したら相当の額がつくに違いない。


「家具や荷物は昼に業者の方が入れてくれました。後ほど不備がないか確認をお願いします。もし不備があったり、別途必要なものがあれば職員の方におっしゃってください。対応してくださるはずです」

「なるほど、至れり尽くせりだ」

「ええ。ここは櫻ノ宮ですから」


 不思議な口調だった。自慢するようなものでもなければ、かと言って揶揄するようなものでもない。ただ単にあるがままの事実を告げている、というのが一番正しいかもしれない。自分が所属している集団をそんなに客観的に見れる中学生というものはそうそういないだろう。


「寮の案内はこの辺りで良いと思いますが、何か質問はございますか?」

「質問と言うのかどうかは微妙だが、学生の部屋もこんな感じなのか? 中等部と高等部の生徒も使っているんだろう?」

「中等部の生徒と高等部の生徒の使用する部屋に大きな差はございません。全て十分な広さが用意された個室になっています。ただ、キッチンは付いておりません。また、バスルームが少し狭いので、狭いのを嫌う生徒は先ほどご案内した大浴場を使います。もちろん、そちらの方がお好みであるなら先生も利用されて構いません」

「そうか、わかった」


 チェストの上を軽く指で撫でる。傷もなく、ホコリ一つつかないそれは今回新調されたものだろう。清掃も洗濯も頼めば職員がやってくれる。本当に一流ホテル並みの待遇だ。


「しかし、せっかくの春休みなのにわざわざ新任教師のお守をさせて悪かったな」

「いえ。ほとんどの生徒は帰省しておりますし、一人でいてもただ悪戯に時間を潰すだけなので。お役に立てたのなら何よりです」


 本気で言っているのか建前なのかわからない表情。


「燕城寺は家には帰らないのか?」


 場をつなごうと栞が問うと、彼女は初めてその落ち着いた顔を崩して驚いたものに変えた。

 しかし、それも数瞬のこと。すぐにまた大人びた顔に戻ってしまう。


「母は私が四歳の時に病気で。父と、一人の姉がおりましたが、二人は二年前に事故で亡くなりました。一応の家……都心に小さな戸建が一つ遺されてますが、もう何年も帰っておりませんし、私の法定未成年後見法人は櫻ノ宮財団になっています。今の私の家は、言うなればこの櫻ノ宮です」

「それは……悪いことを聞いたな」

「いえ。母の記憶はほとんどありません。姉はまだしも、父ともあまり接する機会がありませんでした。なので、家族だったという気があまりないのです」


 気を遣わせまいと言っているようには見えなかった。


「それより、先生はここに来る前に在校生徒の一覧をお受け取りにならなかったのですか?」

「あー……もらった気もするな。送った荷物のどこかには入ってると思うが、あまり読む気にならなくてな。放ったままにしていた」

「不思議な方ですね」

「そうか?」


 栞が聞くと董子は小さく微笑んだ。それまでも何回かそれに近いような表情を浮かべていたように思うが、栞にとってその時の微笑みが彼女が初めて浮かべた微笑みのように感じられた。


「ここに赴任してくる先生方は事前に穴があくほど生徒の情報を見ておくそうですよ。ここは政財界の重鎮に縁のある生徒が大勢いらっしゃいますから。機嫌を損ねるようなことをしたらどうなるともわからないと、必要以上に畏れるんです」

「なるほど、今の私は思い切り地雷を踏んだわけだ」

「そういうわけです。幸い不発弾でしたが、もし爆発していたらもう二度と教師という職業には就けないようにされていたかもしれません」

「わかった。春休み中に在校生の詳細を穴だらけにしといておこう」

「それが賢明だと思います」


 後から段ボールの底の方にねじ込んでいた詳細を見たが、なるほど確かにそこには有名な政治家や社長令嬢の娘や孫娘が名を連ねていた。栞の父親も一応は会社を経営していたから栞自身社長令嬢と言えないこともないのだが規模が違い過ぎる。提灯に釣り鐘というやつだ。

 そこには生徒たちの簡単な家族構成も併せて書いてあった。また、董子のように特筆するべきものがある生徒のところには注意書きがされている。普通の学校ならあまり考えられないことだが、櫻ノ宮とはそういう場所だった。

 ご令嬢たちに悪い虫がつかないよう、変な遊びを覚えてしまわないよう隔離しておく施設。

 ここで過ごした彼女たちは古き良き……と一概に言えるかは疑問だが、明治の頃より変わらない温室育ちのお嬢さまとして卒業していく。格式と伝統。それがここにある全てに共通して言えることだった。


「それでは、私はこれで失礼いたします」

「ああ、すまなかった。っと、燕城寺」


 一礼して部屋を出ようとした董子に栞は声をかけた。立ち止まって彼女が振り返る。栞は持っていたカバンの中をまさぐると、そんな彼女の胸元に一つの小さな袋を放って寄こした。


「案内してもらった礼だ。お前のようなお嬢さまの口に合うかどうかはわからんが、庶民からしたら結構に美味いぞ」

「お菓子……の類ですか?」

「枝豆のスナックだ。酒のつまみと言った方が正しいかもしれないな。紅茶には合わないだろうから、緑茶なんかと併せて食べると良い」


 そんなことを言った栞を、董子はまるで珍しい生き物か何かのようにじぃっと見やる。

 考えてみれば、今までこんな風に董子と接してきた人間はいなかったのかもしれない。それがどう彼女の好奇心をくすぐったのかは栞にはわからない。


「誰にも言うなよ。ここじゃ売店で売ってる趣向品以外はご法度なんだろう?」


 だが、これが董子が栞に興味を持つきっかけの一つになったのは紛れもない事実だった。

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