姉
缶を自販機の横にあるゴミ箱に放り込んで腕の時計を見る。まだ少し早いように思う。
文芸部に顔を出すにしても、栞はあまり積極的に部活動に関わろうという気はなかった。文芸部にはもちろん顧問の教員がいるのだから、その顧問が全て面倒を見てくれれば良いものの、その顧問さえも「加賀美先生が見てくれるなら非常に結構なことだ」などと歓迎してくれているときたものだ。
賞というものは厄介だ。どんな小さなものでも、賞を取ったとなると周囲の見る目が変わってくる。箱入りの娘たちからすれば栞は立派な作家先生に見えてしまうことだろう。単なる気まぐれで書いた、半分随筆のような小説がたまたま評価された程度でそんな期待をかけられるのは御免だった。
「加賀美先生?」
どう時間を潰そうかと考えていた所に現れたのは保健医の御門だった。落ちついた赤のブラウスに黒のタイトスカート。上から羽織っている白衣の袖をまくった姿はカジュアルで、お嬢さま学校の保健医という雰囲気はなかった。この学園の人間にしては相当にフランクな人物だ。
「どうしたの、こんなところで?」
「いえ、特に何かあるというわけではないんです。ただ、少し時間を潰そうかと思って」
御門は自販機にコインを入れると、ミルクも砂糖も入っていないブラックコーヒーのボタンを押した。教員はそこまででもないが、施設の管理をしてくれている職員を入れると男性が多いからか、この自販機はブラックの缶コーヒーのラインナップがやたらと揃っている。
「加賀美先生も何か飲む? おごるわよ?」
「遠慮しておきます。さっき飲んだばかりですから」
そう、と御門はゆっくりと缶を取り出した。
「そう言えば、朝に明石の具合を診てくださったようで。ありがとうございます」
「保健医が生徒の具合を見るのは当然のことでしょう? お礼を言われるようなことじゃないわ」
「軽い疲労だと聞きましたが……」
「季節の変わり目だからね。身体が少しやられちゃっただけだと思うわ。まぁ、私とは違って若い身体だし、少し休めばすぐに好くなるでしょ」
「御門先生もそう言うほどの年じゃないじゃないですか?」
「三十路を超えると一気にガタがくるものよ。加賀美先生も覚えておくと良いわ」
ニヒルにそう笑ってから、その場でプルトップを開ける。
肩まで伸びた髪は毛先にかけて小さく巻き、あまりまとまりが感じられない。そこまで丁寧にケアをしているようには見えなかった。ただ、それでも年若いのばかりが売りの女性とは違った魅力が彼女にはあるように思えた。
煙草なんかが似合いそうだ。そう栞が思うのと御門がタイトスカートのポケットから煙草の箱を取り出すのはほとんど同じだった。
箱から細煙草を一本を取り出してライターで火をつける。一口吸ってから大きく白い煙を吐き出すと、それは吹いた風によってすぐに霧散した。
自動販売機の横には灰皿があったが、栞はすっかりただのオブジェクトだとばかり思っていた。少なくとも同じ教員で煙草を吸う人は知らなかったし、ここで煙草をふかしている人も見たことがなかった。考えてみれば御門とここで会うのは初めてかもしれない。
そんなことを考えていたところで不意に御門が箱を栞の方に向けた。
「加賀美先生はやるの、煙草?」
「大学の時に少し舐めたことはありますが、もう何年も吸ってません。元々性に合わなかったみたいで」
「似合いそうだけどね、加賀美先生と煙草っていう組み合わせ」
「どことなく気だるそうで?」
「そう、そんな感じ」
笑った御門に栞もつられて笑う。
「ここの学校、お花畑なだけあって煙草を吸うのもなんだか罪悪感があるのよね。世間的にもそうなりつつあるけど、煙草を吸うコト自体が悪いコト、みたいな感じに決めつけられちゃってさ。そりゃあ私だって学校所属の端くれだから、生徒が手を出そうとしたらもちろん怒るんだけど」
「風あたりが強くなってるのはわかりますよ。受動喫煙だって相当に騒がれていますし、ただでさえ潔癖な感じのある櫻ノ宮なら一層のことでしょう」
そうなのよ、と御門は少し諦めたように口角を上げた。
「煙草のニオイをさせてた日にはその日の内に教頭辺りからカミナリどころか解雇通知をもらっちゃいそうでしょう? こう見えても結構気を遣ってるの」
「ご愁傷さまです」
「加賀美先生も煙草をするなら良いお仲間が出来ると思ったのに」
そう笑ってから少しの間、御門は静かに缶コーヒーを飲んで、栞もなんとなくその場を動かずにいた。
御門と話すのはそう珍しいことじゃない。教員の中では年が近く、同じ寮監という立場であるということももちろんあったが、それ以上に栞と御門を結んでいたのは董子だった。
董子は保健室の常連であり、この学園で董子以外の生徒が御門に関わる合計の回数より董子一人が御門に関わる回数の方が圧倒的に多かっただろう。
そして、栞は董子に懐かれた教師だった。董子の小学生時代や去年を見たことはないが、栞が聞くところによるとその生活は孤独の二文字で済ませられるものだった。彼女は積極的に孤独を望み、達観した考えで周囲から距離を置いていたように聞いていた。そんな中で、董子は今年赴任してきた栞にだけ変な懐き方をしたのだ。
燕城寺董子という人物を通して栞と御門が接触を持つようになるのに時間はかからなかった。
「あの子の様子はどうだった?」
「……燕城寺ですか?」
御門の無言の肯定に栞は言葉を続ける。
「別にいつもと変わらなかったと思います。それより、どうしてそれを私に?」
準備室に来たことを知っているのだろうか? そう思ったが、実際は違うらしい。
「今日は健診の結果を伝えるはずだったのよ。この前の血液検査の具合を伝えて、必要なら軽く検査して。彼女はそんなことをしても自分の状態が好くなるわけじゃない、意味がないって嫌ってるから、よくすっぽかすの。昔は真っ直ぐ寮に帰ったりしてたけど、最近の彼女なら加賀美先生の所に行くかな、って」
「すみません、そうと知っていれば注意したんですが……」
「あぁ、ううん、別に気にしないで。確かに健診の内容を彼女に伝えたからって彼女の身体が好くなるわけじゃないし、彼女の身体のことを一番よく知ってるのは彼女だから。彼女が言ってることはある意味正しいのよ」
「何か具体的に病気を患っているんですか、燕城寺は?」
董子が病弱だとは聞いていたが、何かしらの病気に罹っているとは聞いていなかった。身体が一等弱いのだろう。栞にしてみればせいぜいそのくらいの認識でしかなかった。それも、気を遣って生活をしていれば普通の生徒と大差ない生活を送ることが出来る。そういった意味での特別視はしていなかった。
栞の言葉に、唇を尖らせて少し悩んだ様子を見せてから御門が口を開く。
「……加賀美先生は彼女が薬を飲んでいること知ってる?」
こういう時に出てくる薬がいわゆる一般的な市販薬ということはないだろう。
「何度か彼女が白い錠剤を飲んでいるのを見たことがあります。何の薬かと聞いたこともありますけど、本人はただの気休めのサプリメントみたいなものだと言っていました」
「気休めのサプリメント、ね……」
煙草の四分の三ほどが吸い終わったところで彼女はそれを灰皿に押しつけた。
「だとしたら、それが彼女の意志だと思うわ。あの子がこれだけ懐いているのだから私から教えてしまうのもありかもしれないけど、ここは彼女の意志とやらを尊重させてちょうだい」
「いわゆる患者のプライバシー、という?」
「そうね、そういったとこ」
そう微苦笑を浮かべてみせられては栞としてはこれ以上何も聞きようがない。ぐぐっと伸びをする御門の横で、自分もそろそろ文芸部の方に出向こうかと考える。
「ただ、一つだけ言っておこうかしら」
去り際、御門が思い出したように振り返った。
「彼女にはお姉さんがいたのよ」
「ええ。なんでも、父親と同じ事故で亡くなった、と前に本人から聞きましたが……」
「事故、ね……」
御門が苦虫をこれでもかというくらいに噛みつぶしたような顔に変わる。どう見ても裏のある表情。ここにも何かあるのかと栞は少しだけ気が重くなった。
燕城寺董子という人物のことを知れば知るほど、まるで底の見えない暗闇の中へもぐっていくかのような感覚に囚われる。足を踏み入れたら最後、どこまでも沈んでいく底なし沼のようだ。しかし、どういうわけかそこには言葉に出来ない、惹きつけられる何かがある。厄介なことこの上ない。
「そのお姉さんに何かあるんですか?」
「ない、という風には言えないわ」
白衣をパンパンとはたき、御門は静かに言った。
「そのお姉さんの名前、貴女と同じシオリという名前だったそうよ」
ゾクリとした感覚が背筋に走った。
のんびりと校舎の方へと戻っていく御門の姿をぼんやりと見送りながら、気持ちが今以上に不思議でとらえどころのないものに変わるのが栞にはわかった。
「………………」
シオリ、という同じ名前のお姉さん。
それが、三千万円で偽りの姉を求める理由なのだろうか……?
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