三千万の仕事

 田島が出してくれたお茶を飲んでから栞は職員室を後にした。

 栞は放課後を国語科準備室で過ごすことが多かった。

 資料を集め、備えつけの複合コピー機でスキャンして取り込む。それを学校から貸し出されているモバイルのパソコンで授業で使いやすいように作成していくのは嫌いな作業ではなかった。

 教壇に立ってあれやこれやと講義するのも不得手ということではないが、ひたすらに机に向かってレポートやら論文やらを書くのも気楽で性に合っている。そう言えば、恩師からは何度か「博士課程に進んだらどうか?」と勧められたことがあったのだが、たぶん恩師はそんな栞の性格を見抜いていたのだろう。ただ、当時の栞には学術研究に一生を捧げるつもりはこれっぽっちもなかったのである種の冗談のような気分で聞き流していた。しかし、今こうして実際に資料を作っている時などその選択肢も悪くなかったかもしれないと思うことがしばしばあった。こつこつと研究論文を書いて、時たまの学会でそれを発表する。悪い生活じゃなかったかもしれない。

 中途だが資料作りが一段落して栞は伸びをしながら立ち上がって窓の外を見やった。

 細長い造りの国語科準備室は櫻ノ宮では随分と狭い部類の部屋に入る。左壁はステンレス製の大きな本棚二棹が立っており、授業で比較的よく使う資料なんかが栞の好きに無造作に並べられていた。右壁にはエドガー・ドガの複製絵画が一枚かけられている以外は目立ったものはない。机は一番奥に設置してあり、顔を上げればすぐに窓の外を見ることが出来た。国語科の先生は栞以外にももちろんいたが、他の先生は国語科準備室を滅多なことでは使っていないようで、四月からはほぼ栞専用になっていると言っても良かっただろう。

 外に目を向けてまず目に入ってくるのは五面も取られたテニスコートだった。青い芝生が目に優しく映される。グラウンドはこの学校にもあるし、陸上部もあるけれど、運動部で人気なのは道具を使うものだった。お嬢さま学校らしく馬術部なんてものもあり、学校の一角には馬房がある。箱入りのお嬢さまたちにはただ走ることを競うよりも何か道具を用いてやる方がメジャーなのだろう。生憎、栞は生まれも育ちも庶民なので実際生徒がどう感じているのかはわからないが。

 校内にある、学生相手ではなく教員や職員のための自動販売機で買った缶コーヒーに口をつけると自然と息がもれた。商品棚が全てコールドの商品に変わったのはついこの間のこと。これからどんどんと暑さが増してくることだろう。まだ十代半ばにもなっていない生徒からすればそれもなんのその、楽しい夏休みに心を躍らせているに違いない。

 と、ふいにコンコンコンとノックの音がした。

 窓にやっていた視線を戻して「どうぞ」と返事を返すと、「失礼します」とこの最近で聞き慣れた声が返ってきた。それに栞の胸は小さくざわついた。

 入ってきたのは董子だった。

 長くゆったりと巻いた茶髪に、穏やかな目つき。収まった瞳は今ここにある光の幾らかを閉じ込めてしまったかのような色に見えるが、他の先生によればそのような眼差しを見たことは一度もないと言う。実際、栞だってそのような董子の瞳に気づいたのはこのひと月ほどだった。それまで一体彼女がどのような目をしていたのか、今となっては不思議と思い出せない。

 この学園の生徒は何らかの団体に所属させられる。それが原則だったが、彼女はその中で唯一の『例外』だった。

 こういう言い方が正しいかどうかはわからないが、彼女はこの閉ざされながらもまとまった学園の中にある異物だった。同級生にしろ教師にしろ、彼女に対してはどこか距離を置いているのが赴任して半月も経つ頃にはわかるようになっていた。


「加賀美先生、今、お時間よろしいでしょうか?」

「一応な。授業についての質問か、燕城寺?」


 そうでないとわかりながらもそう問うと、「いいえ」と董子はかぶりを振った。


「それじゃあ、何の用だ?」

「この間のお話についてです。そろそろ色の良いお返事を頂けるのではないかと思って」


 寄りかかっていた壁から身体を離して缶コーヒーを机の上に置く。


「色の良い返事も何も、もう断っただろう?」

「何度断られようとも私は先生にお願いしようと考えています」

「強情だな」

「ええ。父も生前にそう言っておりました。董子は融通がきかない子だな、と」


 くすりと董子が笑う。綺麗な微笑みだったが、中学生の爛漫さとはどこか一線を画している。

 整った顔のパーツは部分部分で見れば幼さが残っているのに、全体としてのまとまりがその幼さを完成された表情に昇華させているのだ。その完璧さに栞は強烈な美しさと、それと同時にえも言われぬ恐れを抱かせた。柔らかい物腰とは反対に人の様々な――子供にはまず見せないだろう黒い部分すら過分に見て育ってきているのではないかと勘繰らせる。


「三千万」


 董子が言葉を続ける。


「金額にご不満があるならもう少しお支払い出来ます。この学校の先生のお給料は他の学校よりはるかに良いとは思いますが、流石にそんなにはないのではないですか?」

「確かに一介の中学校教師が一年にもらう金額としちゃ法外だ」

「それでは、どこに不満があるのでしょうか? 少しだけ中学生のオンナノコのオママゴトに付き合ってくだされば良いんです」

「そういう簡単な話じゃないっていうのは燕城寺だってわかってるんじゃないか?」


 栞が問うと董子は再び笑った。彼女はそれこそ一生を使っても使い切れないほどのお金を若くして財産として持っていたが、お金で全てが上手くいくという類の成金な勘違いをしてはいなかった。

 燕城寺董子という存在はこの学園の中でも一等特別な存在だった。

 両親はすでに他界し、身近な親戚もいない。燕城寺財閥が経営していたグループ会社そのものはすでに別の人間の手に移ってはいるものの、それでも燕城寺財閥の最後の人間となった董子には人生を三度遊びつくしても余るくらいのお金が遺された。

 そして、そんな燕城寺から「年間三千万円の仕事」を持ちかけられたのが一ヶ月ほど前のことだ。


「とにかく、いい加減私に固執するのは止めた方が良い」

「どうしてですか?」

「ママゴトに三千万はおかしな話だろう? そんなもので作った関係は遅かれ早かれ歪でどうしようもない形に崩れてしまうのは目に見えている」

「でも、お金の関係と割り切ってしまっている関係も世の中にはあるのではないでしょうか?」

「それは大人の社会の話だ。燕城寺、お前はまだ子供だ」

「その割に、先生は私を大人のように扱ってくださっているように感じます」


 勘が鋭い子だ。彼女を相手にしていると、確かに相手が自分より十以上年下の子供だと思えなくなる時があった。実際、そんな言い分はとうに見抜いているのかもしれない。


「そういう性格なんだよ、私は。別に燕城寺を特別扱いしてるわけじゃない」


 それでも言い訳がましく言うと董子はゆっくりと目を閉じた。今はこれ以上粘っても意味がないとわかっているのだろう。「座ってもよろしいでしょうか?」と断ってから近くにあった丸椅子に腰かけて、先ほど栞がそうやっていたように窓の外に視線をやった。そして小さく息を吐く。


「今日のような日はあまり好きじゃないんです」


 心底憂鬱だという雰囲気ではなかったが、それでも丸きり嘘を言っているようには思えなかった。


「どうしてだ? 過ごしやすくて好い日だろう? それとも低気圧が近づくと頭痛が起こる人がいるように燕城寺も何かこういう日は体調が優れないのか?」

「そういうわけじゃないんです。けれど、今日のような日は誰かを祝福しているようには感じられませんか?」

「祝福?」

「ええ。今日という日。暖かい日差しの下で生き生きと過ごす人たちに対する神さまからの祝福です。私のような人間にはそういった祝福は少し荷が重いように感じてしまうんです」

「そう大げさに言うこともないんじゃないか?」


 栞は少し表情を崩して言った。


「お前の身体が弱いのは知っているが、だからと言って神さまの祝福を重荷に感じる必要はない。もしそれが出来ないと言うなら、受け取れるだけは受け取って、受け取れない分はその辺にでも捨てておけば良い。強欲な誰かがお前の分まで拾ってくれるさ」

「そんな強欲な誰かに、私に与えられるはずだったの祝福が取られるのは少し嫌な気持ちがしますね。せっかくですし、先生がもらってくだされば好いのに」

「生憎そこまで神さまに愛されるような人間じゃないよ、私は」


 実際神も仏も信じて生きてきたわけじゃない。……いや、もしかしたらその考えが少し間違っているのかもしれない、と栞は頭の片隅で思う。自分の人生を振り返ったら人よりは恵まれていると言っても間違いではなかった。


「なら、神さまはとんだ盲目なのですね」


 笑うように董子が言った。


「先生のような方こそ神さまに愛されるべきなんじゃないかと私は思います」

「おいおい、こんな偏屈な人間を好きになれと言われる神さまも大変だな。まぁ、私は嫌いとまでは言われないかもしれないがせいぜい一般人程度だろう。それなのに今までの私は恵まれすぎている。明日に死んでも文句は言えないさ」

「それでは困ります。少なくとも私の提案を受けてくださるまで……いえ、受けてくださるのだとしたらもっともっと長生きしていただかないといけないんですから」

「どうだろうな? お前の提案とは関係なしにこればっかりは本当に神のみぞ知る、だ」


 董子から視線を外して栞はふっと外を見やる。

 チチチとどこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。窓からふわりと入ってくる風には緑の薫りが強い。この四方を大自然で囲まれた櫻ノ宮は軽井沢のような避暑地を思わせるが、栞が実際に軽井沢に行ったのは大学生の時に二度のみ。実際に似ているのかどうかまではわからなかった。


「今年の夏はいつもより暑くなるそうですね」

「らしいな。朝の天気予報で聞いたよ」

「そんな話を聞いてしまったから今日は一段と憂鬱なのかもしれません」


 そう言って董子は椅子からゆっくりと立ち上がった。今日はもう退散するのだろう。

 この一ヶ月、彼女はいつもそうだった。

 こうして国語科準備室に来るのだがそこまで長居をするわけでもない。子供、特に小中学生などは人一倍教師に懐く子がいるものだが、董子はそういったありきたりな生徒とは明らかに違っていた。

 まるで誘うように。そう、栞自らが興味を持って董子という人物をのぞきに来るよう仕向けるかのようにして、自分というものを少しだけ見せて去っていくのだ。


「それでは先生、改めてこの間のこと、考えてくださると嬉しい限りです」

「何度も言わせるな」


 あからさまに栞はため息を吐いて見せた。


「教師としてならいくらでも相談には乗ってやる。私はお前たちの先生だからな。そういう関係ならいつでも歓迎するさ」


 栞の言葉に董子は一瞥をくれたが、「お忙しいところ失礼しました。これでお暇いたします」と栞の言葉には何の言葉も返さずに準備室を後にした。

 扉がゆっくりと閉められ、栞は大きく息を吐いた。

 早熟すぎる子供……というだけで片付けて良いのだろうか?

 聞くところによると彼女は生まれつき病弱な上に心臓が弱いらしく、学校にまともに行けるようになったのも中学に上がってかららしい。今でも体育は全て見学しているし、身体に負担がかかるような行事にも彼女は出ていなかった。朝礼に出ないのも、身体の弱い彼女を慮っての学校側の措置だった。

 しかし、それが一層彼女を孤高の存在にしているように感じられた。

 高嶺の花とでも言えば良いのだろうか?

 触れてしまえば壊れてしまう美しいガラス細工のような存在。同じクラスの生徒も、そんな彼女を遠巻きに見ることはあっても、積極的に関わろうとはしていなかった。そして、誰も――そう、教師さえもそのことを半ば諦めているように栞には思えていた。


「………………」


 置いていた缶コーヒーに口をつける。

 孤高の美しい少女。

 だけど、どうにも何か引っかかるような感覚が否めない。何の根拠もないものであったが、こういう時の勘はあまり外れたことはない。もしかしたら彼女が背負っているものは、今の栞が知っているものよりはるかに重たいものなのかもしれない。その重圧が、彼女の存在をより一層引き立てていると言われても違和感はなかった。

 栞はコーヒーを一息に飲みこむと、空き缶を片手に国語科準備室を後にした。

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