5

 暗闇がずっとボクを覆っている。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる記憶。自己嫌悪の渦に囚われそうになる。

 一滴の涙が零れ落ちた。

 公園の花壇をふと見ると、マーガレットが心地良い香りを運んでくる。雲雀の囀りが、やたらと主張を繰り返す。

 春がボクに綺麗ごとを押し付けてくる。

 忘れかけていた春を、ボクは鮮明に思い出した。春はこんなにも、五月蠅かったのだ。 

 立ち上がって、ふらりと歩き始めた。

 行くあてもなく。その先に、何を見出すでもなく。

 ゆっくりと彷徨う、真っ黒な野良猫。風に靡く、草葉の茂る木。影の動きが煩くて、目を背けた。すれ違う街の住人。そのいずれも、春を祝福しているみたいで、疎外感に似た黒々とした感情が、ボクの上にのしかかった。

 ずっとどこにも色はない。

 ボクの所為で、この街の祝福色が、味気のないモノクロに書き換えられている。

 どうして――。こうなったんだ。

 綾香。キミはボクに何を求める?

 キミが求めるばかりなら、たまには、ボクが求めたっていいだろう?

 痛みをこらえるように、ボクは心の中でなげうった。ずっと我慢していたんだ。それを誰か、受け止めてくれよ。

 泣きたいんだ。哭きたいんだ。そして、笑いたいんだ。そんなボクに気づいてくれないか?

 先の野良猫が、ボクにすり寄ってきた。ところどころ、汚れていて、毛流れが悪い。

 傷ついて、擦り切れてしまいそうな猫だ。

 思わず、つぶやいた。

「君の色は、黒色で、あっているのかな」

 誰も答えない。

「ボクの感情に名前を付けたら、それは黒よりも深く濁った色なのかな」

 猫はこちらを見つめた。頭をなでながら、ボクはつぶやく。

「ボクの怒りに、哀しみに、君は気づいてくれたかな。本当は、何かを伝えたがっているんだ」

 猫は、気だるげに顔を洗うばかりだ。

 ボクは立ち上がる。もう話すことは、あまりない。けれど、あの猫も、ボクに似ているような気がしていた。

「さようなら」

 その言葉に、猫は何も返さない。


 綾香の家に着いた。ドアを開けるのに、勇気が必要だった。ただ、ドアノブに手をかけ、手を下向きに動かす作業が憂鬱だった。

 ゆっくりと、息を潜めて、ドアを開ける。玄関には、既に綾香の靴があった。買い物からは帰ってきているみたいだ。

 そのまま、キッチンに向かうと、彼女は夕飯の支度をしているようだった。

「夕食の用意、手伝うよ」

 ボクの掠れた声に、綾香は振り向いた。また、気づかれてなかったみたいだ。

「帰ってきたのね。良かった。夕飯は、私が作るから、大丈夫」

「いや、手伝わせて。少しは、ボクも役に立ちたい」

 彼女の返事を待たずに、ボクは必要そうな食器を食器棚から取り出した。今日の夕食はスパゲティみたいだ。

 フォークと大きめのスプーン。そして、彼女のお気に入りのティーポットを用意する。

 再び食器棚を開けて、透明のガラス食器を取り出す。これはサラダ用の器だ。

「ごめんね。暁くんの世界を理解できてなかった。だから、あんな無神経なことを言っちゃった」

 その言葉に、ボクは振り向いた。パスタを茹でる後ろ姿が、ひどく疲れ果てているようだった。

「私、暁くんの助けになりたいって思ってた。でも、そのことすら、暁くんの邪魔になるみたい」

 声が震えていた。泣き出しそうになるのを堪えている声。波打つような透き通った声に、ボクは反射的に答えていた。

「違う。そんなことは無い」

「それは、心の底から、そう言える?」

 そう言って、ガスコンロの火を止めた。パスタをざるに流し込み、湯切りをする。

 綾香が、ゆっくりとこちらに向き直る。彼女の表情は多分に哀しみを含んでいた。だから、素敵だとさえ思えてしまった。

 だから、吐き気がする。

「だって、君はボクと対等になろうとしない。それが、たまらなく、嫌い」

 ボクの言葉に綾香は驚いたみたいだ。ボクが嫌いという言葉を言ったのはいつ振りだろう。もう長いこと口にしていない。

 残忍な人間だと、自覚はしていた。それが、伝えるべき言葉でないとわかってはいたけれど、お互いに摩擦を生まれさせるものなのだとしたら、解消しないわけにはいかない。

「嫌いだけど、それが綾香の全てを否定する理由にはならないよ。ボクがこういう一面を嫌いなだけで、他の人はそうでもないかもしれない」

 愛情が好きな人は沢山いるだろう。けれど、それがどうしてもボクには呑み込むことが出来なかった。

 一方的な愛情は、重たくて、押し付けられるから、手に負えない。二人で、慎ましやかに、愛情を創りたい。そう切に願っていた。

「なんでも、一人で解決しようとしないで。ボクはいつも君に助けられている。だから、ボクが動けるときくらい、君を助けさせてよ」

 ボクは、いつか、本当の意味で動けなくなる時が来るかもしれない。それは、ボクにとってとても安らかな最期だと思う。

 綾香にとっては、残酷な事だろう。

 それでも、ボクにとっては喜ばしい。だってボクが生きるという可能性がある限り、彼女はボクを見守り続けるだろう。

 それが彼女の人生のどれほどの時間を無駄にさせているのか。

 可能性が彼女を蝕み続けるのなら、ボクが可能性を嫌うことは当たり前だろう。

 湯気だったパスタを頬張りながら、ボクは彼女の全てを見つめていた。視線は和らかく、いつも通りの綾香だ。

 もう間もなく、ボクは再び、眠りに落ちるだろう。

 長い長い、冬眠に。

 また、彼女は、ボクに縋り続ける。

 もう、それは、終わらせよう。


 綾香が食後のデザート、ケーキを運んできた時に言った。

「綾香、素敵な一日だった。多分、また眠ってしまうけれど、どうか、ボクの事を気にしないで」

 綾香は、カトラリーをおいた。

「ねえ、桜を見て」

 唐突な言葉に、ボクは目を思わず向ける。

 自室からも見えた、幹の太い武骨な桜だ。風に吹かれたようで、花びらがひらひらと、舞い散っていく。

「綺麗でしょう。これ。花弁が白色のオオシマザクラっていう品種なの。多分、暁くんが見ている世界と同じ色をした桜」

 良いじゃない。と、綾香は、言う。

 思わず、「何がだ」と言いたくなるのを堪えた。

「あなたの生きる世界がどんなに色褪せていても、私が色づいて見えるように努力する。黒と白しか見えない。って言っていたよね。私はそこに、何か別の色を落とせたら、嬉しいな」

 努力する。その言葉の意味が上手く呑み込めない。どういう事だろう。

「毎日、ささやかな楽しいことをしましょう?思わず微笑んでしまうような、世界に大きな影響を与えるでもない会話をしましょう。今日が何の日か、知ってる?」

 これは、彼女の言う、しょうもない会話なのだろうか。ボクは答えが分からずに口籠ってしまった。

「今日はね、暁くんの誕生日。知らなかったでしょう。だって、暁くん、自分の誕生日、寝ているんだもの。忘れてしまうじゃない」

「忘れてはいないよ。ただ、自分自身を祝うのが、好きじゃないだけ」

 その言葉に綾香は笑った。桜みたいに、華やかで淑やかな表情だ。

「やっぱり、そうだと思ったの。だから、さっきのケーキは誕生日ケーキの代わりね」

 話に夢中になっていたからか、ボクのショートケーキはまだ、半分程残っている。上には鮮やかなイチゴが乗っていた。

 フォークを手に取り、イチゴを突き刺す。甘酸っぱい春色の香りが鼻腔を刺激した。

「誕生日おめでとう。今日で二十四歳だね」

 その数字に大した意味を見出すことはできなかった。年老いた実感は湧かないし、一年を振り返ることはできない。

 やっぱり、この世界は、ボクの目の前に広がる日常は淡泊だ。綾香の苦労も虚しく、ボクはまた長い眠りにつく。今年も、何かが変わることは無かった。

 耳鳴りがする。頭痛が先刻より激しくなっていた。

 イチゴを食べて、寝よう。

 もう、リミットがすぐそこまで迫っている。

 時計の針は、十九時三十分を指示さししめしていた。

 フォークを動かそうとした時だった。

 うっすらと、イチゴが、赤みがかっている。

 なんだこれ。

 思わず、部屋を見渡した。壁にかかったタペストリーが青く部屋を彩っている。

 色が、見える。分かる。

 喜びと同時に、一抹の不安が押し寄せた。何故、このタイミングで。

 分からない。けど、見たい場所があった。いつか色が見えた時に、見に行きたかった場所。

「綾香、行きたいところがある」

 今まで、夜、外に出かけることは無かった。暗いと色が捉えきれない世界では何も見えない。

 だから、拒まれると思っていた。

 しかし、綾香は拒まなかった。

「いいわ。行きましょう」

 何処へ行くのかも告げず、彼女は、一緒に行くことを条件に承諾した。

 時間が無い。

 間に合うだろうか。

 もしかしたら、綾香に迷惑をかけるかもしれない。

 けれど、それでも、見たい景色がそこにある。そうわかっていて、ボクはやめることはできなかった。

 家を飛び出した。綾香の手を強く握った。

 時折、足がもつれそうになった。それでも走り続けた。


 腕時計が二十時三十分を告げた時、目的の場所に着いた。

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