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 突然、暁くんは、走り出した。追いかけられない速さではない。だけど、追いかける機を逸してしまった。

 彼の行く先を目で追いながら、この後、何をするべきかを考えていた。私の言葉。『普通』が、彼にとって、重たい意味なのだとしたら、私の言葉選びのセンスがなかった。

 暁くんはよく小説を読んでいた。彼が、色盲の症状を訴えてからも、変わらずにできたことのひとつだ。

 小説ならば、私たちと、変わらない世界を共有できる。文字に色はついていないから――。

 私は、とりあえず、本を買ってあげることを決めた。何が良いだろう。去年の冬、彼が目を醒ました時、好んで純文学を読んでいた。太宰の本が良いだろうか。

 けれど、それだけで彼が機嫌を良くしてくれるとは、到底思えなかった。

 彼は本質的に闇を抱えている。それは、多分、説明してもらっても、分かることのできない領域なのだと思う。

 だからと言って、私は彼を手放したくない。間近で見てきた私は、より一層、そう願っていた。

 暁くんは、二つの病状を患っている。

 一つ目は、全色色盲。これは、色が世界から、すっぽりと抜け落ちてしまったかのように、モノクロで世界が表現されているらしい。

 二つ目は、異常なほどの長期睡眠。彼は度々、冬眠の様に、眠り続けることがある。起きる季節は、決まって冬だったけれど。それでも、一年という長いスパンで眠ってしまう症状だ。

 当然、働くことはできず、起こすことを最初期は試みたけれど、彼が春から秋にかけて起きることは無かった。

 今年は、冬にすら目を醒ますことは無かった。正直、彼がこと切れたのだと思った。その事実を突きつけられるのが嫌で、医療機関を要請することはしなかった。

 素人ではあったけれど、毎日脈を取り、生きていることは確認した。

 指先に残る、彼の拍動を思い出す。とてもゆったりとしていて、生き生きとしていた。

 眠っていても、彼は、主張し続けていた。

 素敵な生き様だとさえ、思えた。

 ならば、私は、彼の支えになりたかった。

 何が為に私は、彼の眠りを見守り続けるのだろう。恋心だろうか。事実、私と、暁くんは、大学で知り合い、付き合うようになった。彼の端正な容姿と、大人びているのにどこか幼い様子を、いたく好いてしまったのだった。猫みたいな青年だった。

 私は、大学を卒業したけれど、彼は、まだ、休学中だ。まるで、白雪姫みたいに誰かが助けてくれるのを待っている。

 待ち人は、私ではないのかもしれない。

 その考え方は残酷で、心が締め付けられる。

 力なく、私は歩き始めた。

 スーパーに行ってケーキを買おう。あと、その近くにある、書店で本を買おう。

 暁くんを探すのは、そのあとでいい。

 今は、お互いに、ゆっくりと考えよう。お互いの在り方に疑問を抱く季節になってしまったのかもしれない。

 河川敷の両脇に生い茂っている桜の花が、大量の花びらを落としていた。普段は、柔らかな桃色をしているのに、なんだか色褪せて見える。

 これが暁くんの世界なのかも。なんてことを考えた。

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