2

 忘れられないものがある。

 友達と交わした幼き日の約束。夢で見た自分と無関係な男の人生の末路。捨てるのをためらったお気に入りの洋服。

 そのいずれかも、何かに留まることを強要されている。そんな気がした。

 三波綾香。彼女も忘れられないモノの一人だ。いつも彼女はボクの目覚めを待っている。待ち焦がれている。

「言ったでしょ。私が好きで、暁くんを待っているんだから」

 歩きながら会話をしていた。ボクは、綾香に迷惑をかけているんじゃないか、という疑念が頭の中の大部分を占めていて、あまり晴れやかな気分ではなかった。

 二人で買い物に向かう途中、ボクは思わず聞いてしまった。それに対して綾香が放った言葉だ。彼女は今、僕の前を愉しげに歩いている。時折、こちらを振り返り、目を細めては、歩調を緩める。そんな事を繰り返していた。

「もっと、他にやりたいことを見つけたら良いと思う」

 彼女は、朝見た時よりも、一段と綺麗だった。普段はしないようなネックレスや髪留めをしているのが、ファッションに疎いボクでもよく分かった。

 桜並木の河川敷。春先だけあって、行き交う人の数はそこそこいる。ふと立ち止まって、ボクは桜の木の幹に手を伸ばした。温もりが感じられるかもしれない。

 ざらついた樹皮が、ボクの手のひらに吸い付く。

 ただ、ざらざらしている。

 手を離し、手を見つめた。今にも透けてしまいそうな白い手。そこに、別の手が重なる。

 思わず、顔を上げた。

「私のやりたいことは、暁くんと、普通に付き合って、普通に結婚して、普通に仕事して、普通に老後生活を送る。ただ、それだけだよ」

 すべすべとした、温かい手。肌と肌が触れ合い、互いの体温が溶けていく。だらしなく浸かった脳漿のような、心地よいとは言えない温もり。

 ボクは、彼女に手を握られて、立ちすくんでしまっていた。人ごみの中、ボク達だけが、時が止まったようだった。彼女はただ、次の言葉を待っていた。

「普通、か。君は、ボクに『普通』を求めるのかい」

 溜息が漏れた。

 ボクはただ、思った事を言ったつもりだった。言葉の意味を愚直に受け取ってしまった。

 それが、何をもたらすかを、考えずに。

 綾香の頬を涙が伝った。

 あっ、と思った時には、既に遅かった。一滴の涙が、滴り落ちた。

 透明で、愛しくて、儚い涙。

 ボクは、この涙に闇を刺してしまうのか。

「あ、いや、ごめん。ただ、その、なんというか……」

「いいんだよ」

 綾香は、笑っていた。吸い込まれそうな大きな瞳の中に、混じり気のない感情を含んでいた。

 その言葉に、ボクは動揺を隠せない。

「いいんだよ。暁くんは、普通になれないって、自覚しているんでしょ?私は、暁くんの、求めているものが分からない。何が欲しいの?何が手に入らずに、苦しんでいるの?」

 綾香は、やっぱり、誠実な人だ。なんの曇りも、穢れもなく、清澄な彼女は、ボクのハートを掻き乱す。

 やめてくれよ。

 綾香は、何も悪くない。

 この事実は揺るがない。


 だったら、ボクが悪いとでも言うようじゃないか。


 胸の中の熱いものが、ボクの喉を塞いだ。熱くなって、苦しくなって、目を背けた。

「ごめん。ちょっと、独りにさせて」

 手を振りほどいた。絡まっていたしがらみからは、逃れられた。

 なのに。

 どうしてこんなに、ハートの奥底が軋んでいるのだろう。


 走り続けた。

 舞い散る桜トンネルの中を。人波をすり抜けるように。彼女の手の温もりが、消えることは無かった。残滓が煩わしくて、手のひらを何度も見返した。

 それは、一体何なんだ。



 今のボクには分からない――。

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