第4話
結婚、子育て、英語塾開校、父の死、院長夫人凜子、
新宿本院、凜子本領発揮、烏山分院開設、烏山閉院してNPOへ
凛子の結婚
愛とは寛容であり、情深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法しない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない、不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
(コリント人への第一の手紙13章4節から)
人にとって、生まれ、育ちは、大事、でも、さらに大事なのが環境と出会いです。その人間を作るのは、神の導きと出会いと環境でしょう。さて、結婚。昨年、離婚したとは言え、50年近い結婚生活を簡単には綴れません。所詮不可能ですが書かねば・・・。恵みの人生の集大成はこれからですから!!多くの兄弟姉妹とご一緒に、神の約束の地へ、あの光の下へ、たどり着けるか否か、この一冊が担う役目は大きいのです。
結婚と人生は山登り・凛子は海の方が好き
人生は山登りのよう、と人は言います。登る人もいれば、登らない人もいます。険しい山を好む人、小山を歩く人、いずれもOKです。凜子は山登りなど、全く関心がなく、ましてや、苦しい山登りなど、まっぴらごめんでした!海の方が好きなのです!しかし、凜子の結婚は、否応なしに、山登りを強いられた。好き好んで山に向かったわけではなく、気がつけば、そこは山でした!それも、かなり、難易度の高い山でした。途中、崖から落ちたこと、崖下にうずくまり、助けを求めたことも度々、雪崩にも巻き込まれたり難易度の高い山は、簡単には登れません!!!それでも人は登ります。途中美しい景色に出逢い、大自然と生命の営みに感動がいっぱいあるからです。凜子の青春時代は前述の通り、確かな何かを求め世界を飛び回っていました。しかし、みつかりません。彼女が一番望んだもの、最も欲しかった宝物は見つからなかったのです。自由、気まま、確かな夢を探し求めた10年を、青春時代とするなら、彼女のそれは正にそのようでした。
結婚は多難のはじまり・お先真っ暗!
結婚。「これからは、地に足をつけた生活をしなさい!」と父の一言!で諭されるように結婚しました。相手は、ビル持ち、土地持ち、資産持ち、金持ちの歯医者一家の次男坊。仲人はどうしても二人を結びつけたいらしく、美男美女の似合いのカップル云々で大変熱心…外見はともかく、お似合いどころか、正反対の二人は、互いにもう大変でした。最初から大騒動!新婚旅行先で早々に大喧嘩。結婚生活など不可能だろう、と思えました。何もかも全く違うこの二人!!衝突ばかり。何故、結婚したんだろう。これからどうしよう。自問自答の連続。あれほど、自分に正直に生きて来た彼女は、結婚でお先真っ暗!わがままに育った娘は、我が強く、自分を抑えることを知らず、できず。結婚の意味も不確かなのです。全てに幼い凛子は、現実を目前に絶望的になりました。自分を責めたり、相手を責めたり、傍目にはそう映らずとも、日々葛藤でした。しかし、二人には神の見えざる手が働いたのでしょう。なんとも、不思議な事の連続で、結婚へと至るのです。二人は三人の子供に恵まれ、今では七人の孫までいます。この結婚で、得たものは非常に大きく計り知れないほど、貴重な経験や体験をしてゆく凛子でした!独身時代とは全く異なる人生。始めて、自分の言動に責任が伴ったのです。それは、ずっしり、重かったからこそ、実体験で学べたのだと思います。神さまの愛!親の愛を自然に学んでいく、それが結婚でした。神さまは、神のみが、私たちに欠けているものをご存知です。だから、神なのです。人間は、自分の思いが先行してしまい、神さまの思惑や深い愛やその壮大なご計画を知らず、自分が何であるかを知らずに、目的も定まらず、無意味に生きてしまいます。とても残念なことです。
愛する対象を得た凛子・守るべき存在・可愛い私の分身
愛する対象を始めて得ました。自分本位に生きて来た若い娘が、内側から湧いてくる愛を感じるのです。文句なく可愛い!愛している。全身で守るべき存在、それは、幼気なこども達、凛子の分身でした。とても大事な存在!子どもが一番になり、自分のことなど、もうどうでも良くなりました。子どもの存在が、親にとってどれほど大きいか、大事か、親になって初めてわかることです!無条件で愛する愛を始めて体感する凛子でした。父親が、まさに、愛娘を可愛がったように、彼女は自分の分身を可愛がりました。愛する…これは始めて知る感覚。親から与えられて来た愛は、回り回って愛する側に回ったのです。それは、すべてを必要としました。愛することは、与えること、凛子の持てるすべてを与えることだったのです。子供ができて家族が居て、始めて、経験する数々。家族や仕事や社会との関わりの中で経験する数々。彼女の性格も、相手の性格も、長い年月を経て、互いに矯正されていきました。
万事が益となり 共に働く主(ローマの信徒への手紙8:18-28)
過去が今に活かされ・我が家はアートギャラリー
夫は、世の大多数同様、事なかれ主義の現状維持型。自分と自分の周りさえ良ければ、それでいい。行動を起こすより問題を先送りしたい人。一方凛子は真逆で、彼女には男以上に男性的要素が強くありました。新婚当初は打ちひしがれ、絶望感や閉塞感で一杯でしたが、彼女の関心事は自分以外のもの、つまり子どもへと完全に移っていきました。子供たちを、より良い環境へ、より良い方向へ進められるよう、あらゆる手を尽くしました!そして、相手を動かし、ことを動かし、責任を持って、やって見せたのです!若い頃に得た経験や体験や直感で学んだことは大きかったのでしょう。過去の経験則から来る価値観、世界観の広さは、結婚相手を圧倒してたかもしれません。こうして、結婚を通して、引き際を知り、柔軟になり、また、強くもなり、その時のベストを尽くしました。それが、子育て、英語教育、クリニックの経営、NPOなど、これら全てに反映されるよう、主は導かれ、凛子は活かされて行ったのだと思います!元夫婦は世田谷の住宅地、閑静な東南角地に家を建てそこで子育てしました。神社仏閣専門の大関設計事務所が、初めて民家を設計したのが我が家です。それを宮大工が建てたので、世田谷の家は、特別な個人住宅かもしれません。今は、アートギャラリーにして住んでいます。
昔とまるで別人・やり甲斐・生きがいを自分以外に向ける凛子
子育ては楽しくやり甲斐がありました!自分の持てるすべてを子供に与えたかったのです!それはごく自然に湧きあがって来る感情!本気で人を愛したことがない者にとって、彼らは無条件に愛せる対象でした!おんぶも、抱っこもし、おんぶに抱っこも同時にしました。あのお洒落で背筋を伸ばし闊歩していた彼女が、車をぶっ飛ばし年中スピード違反していた若い娘が、料理など何もできなかった女性が、母親になった途端、考え方も見方も行動のすべてが、変わって行ったのです!子供最優先!何事も常に、まず、子供在りき!なのです。世の母親と同じように…! そして、見識豊かで感受性の鋭い彼女は、与え方と何を与えるべきかを心得ていたようです。一姫二太郎、三児の母親。彼女は当たり前に教育熱心でした。見返りを求めない神さまの愛は、経験豊富な人生の達人、父親からごく自然に学んでいました。如何に子どもと接し、彼らと交わり、子供たちの持つ力をのばし、天性を損なわず育てるかが、一大関心事となり、それに終始したのです。
夫は言われるままに、お金を出すだけ、常に「凜子流」があり、それを徹底したのです。
我が家は凛子流・英語は凛子メッソドで
英語は自分の子供に教えたくて英語教室を作りました。若い頃に英語を教えるなんて、考えもしませんでした!しかし、他人に任せるより、愛するが故に、自分は最高の英語教師になれる!と思い、それで教え始めたのです。子供のおかげで、英語を如何に楽しく且つ効果的に学ばせるかを工夫し改良し、
そして、ついに「凛子メッソド」を編み出し、他人の子ども含めて、英語を教え続けました。
子供が幼い頃は、遊びに運動に勉強に、社交に大忙しで、子供中心の生活をしてました。子供と一緒に遊んでいたのだと思います!冬はスキー、夏は海にプール、テニスに旅行にさまざまなキャンプ、いろいろ体験。人をもてなし、喜ばすことも、昔から好きで、彼女は親戚や友人知人も招き、家族で接待しました。クリスマスに正月、BQパーティーにベビーシャワー、誕生祝いになんとかかんとか…! 実に多くの人を自宅や別荘に招きました。子供は親の後姿で学ぶ!と言いますが、今では、凛子流は家風で、彼らも、教育熱心で、子育てと社交を楽しみながら、来客し、上手に人をもてなしているようです。
同じ道を辿る子どもたち・・・でも未信者なのが気になる凛子
3人の子供達は全員留学。英語も何とか話します。苦手な数学は家庭教師をつけ、子どもには、時間とお金と精力と持てる愛のすべてを使いました。彼らは、桁外れの母親を持った反動でしょうか、ごくまとも!世間の枠をはみ出しません。全員揃って、常識人!神への信頼を受け継いでないのが最も悲しく残念です。長女はカトリック系女子一貫教育を受け、JALのスチュワーデスで8年飛び、新潟出身の男性と結婚。二人の子の母となり、子育てしながら、やはり英語を教えています!長男はスポーツ万能、高校まで、パイロットか外交官を目指したようですが、最終的に父親と同じく歯医者です。嫁さんにJALスチュワーデスを選び、二人の愛娘を得て、まともに暮らしています。末娘は、ジャーナリスト志望でしたが、やはり、親と同じ職業で歯医者です。彼女は某テレビ局の報道マンと結婚。2歳の息子に兄弟を、と思いきや、双子が生まれ、もう大変。ヒーヒー言いながら、末っ子は子育て奮闘中!
凛子の子育ては世間的にはかなり成功した部類でしょう。全員が桁外れの親を信頼しているらしいのです。彼らは彼女の言動に、呆れているのですが、やはり、母親の存在は、彼らにとって、大きいようです。大なり小なり母親の資質も受け継いでいますが、全員未信者です。ここが一番気になります。彼らには苦しいときがなかったのかもしれません。恵まれすぎていて・・・。主に頼るしかない!
そんな心境を通過してないのでしょうか。魂レベルで救われていない!クリスチャンでないことが一番気がかりです。これから、凛子は福音を宣べ伝え、世界宣教に加わるので、もしかしたら、恵みを得て救われるかもしれません。先のことは神さまにお任せするしかありません!!
英語塾開校・凛子は津田塾へ
何事も人に教えるとは、情熱だけではダメで、引き出しを多く持つことです。生徒に何を聞かれても答えが出る、何倍も知識や経験がある!ということです。しかし、彼女には、それらが足りませんでした!生徒に理想的な英語を学ばせたい!聞けて、話せて、読めて、書ける、英語。真の英語力を自分の生徒に身につけさせたい凛子。彼女の英語は本場仕込みと言っても、耳から入る英語で、文法力に欠けていました。生徒も優秀で、どんどん、力をつけて来ます!そこで、彼女自身が学校へ行きました。津田塾で上級英文法クラスを3回繰り返し1年間受講しました。講師は全員津田塾卒のOG達!英語の達人揃いですから、どの先生の授業も面白かったです!文法力も耳から入る英語で、留学時代に、かなり、鍛えられていた、ということも判明しました。しかし、文法をしっかり、英語の達人達から学ぶことで、色々幅広く学べました。何より、教えることに一層、自信が持てたのは大きかったです!
鍛える凛子先生と頑張る生徒たち
優秀な生徒を持つことで教師も向上します!相乗効果があるのでしょう!教師は生徒を鍛え、生徒はそれに応える、そのやる気に教師は一層真剣に臨みます。しかし、いい授業に必要なのは先ず生徒と先生の信頼関係です。互いへの期待と信頼なしに、何も伝わりません。少数精鋭の凛子の「英語塾」は評判になりました!できる生徒は飛び級させ学年を超えて上級クラスにどんどん入れました!期待通り、彼らは、必死でついて来ます!部活の先輩がいるクラスで小さくなりながらも、遅れまい迷惑かけまいと上のクラスで必死に、頑張る!のです。生徒たちはさらに英語力をつけ伸びました!彼らの熱心さ、素直さ、真剣さと、教師は実際真剣勝負で向き合うのです。教師の期待に応えようとする生徒たち!
週一回、2時間ぶっ通しで教える、そんな時間は中身が濃く充実していました。指導する側の喜びがあり、英語を通して、伝えることは多々あったようです。凛子の考え方、生き方に、生徒たちは魅せられたのか、彼らは凛子の厳しい英語のレッスンを休むこともなく、よく耐え頑張り続けました。
速読、音読で読解力!完璧を求める凛子先生・応える生徒たち
凛子先生は上智大のプログレスとアート英作文を教科書に使い生徒に完璧を求め指導しました。速読、音読、英作を繰り返し行い、速読はノーミスでリズミカルにグループで読みます。一人が一箇所間違えれば、全体また初めからやり直し。それが繰り返されます。一人の間違いを全体に背負わせる。彼らは、自分の責任を自覚し、家でも徹底して練習して読んできます。長文読解力は大切で自分の耳を通してごく自然に入ります!アクセント、発音、イントネーション、切る箇所、切れない箇所、すべてをチェックしながら、授業を進めました!英作も段階を踏みながら年中宿題!スペリングだ、単語だけ覚えるなど、愚の骨頂です。文章は、句と句の連続ですから、語句で覚えさせるのです。それを組み立てるだけ!あとは語彙を増やす。聞く耳を養う、英語は話す道具、伝達の手段ですから、耳がよく、よく聞ければ話せるようになる、と思っていました。彼女は凛子流のメッソドで、生徒達を引っ張りました!
始めは自宅を開放して子供達と接しました。その後、烏山に2軒目の病院をオープンすると会議室で教えました。新宿の病院の2倍の広さに歯科の診療台ユニットを4台置き、その奥に会議室と称して凛子用の部屋を作り、そこに巨大な無垢のデスクを置いたのです。そこで彼女は生徒たちに英語を教えました。歯科の患者さんには別室でカウンセリングもしており、新宿の病院へも顔だしせねばならずで、一人何役もこなしていた・・・そんな時期で、家族はかなり放ったらかしの状態でした。
医者やスタッフには食事で労い、生徒には英語を、患者さんとは接客。病院2件経営し、英語の生徒を抱え、プライベートな時間は殆どありません。できません!たまの買い物はあっという間に決めてしまう!ふつう、じっくり、ゆっくり、ショッピングを楽しむのでしょうが、凛子の場合は、時間がない!それで、いつも即決。迷ってる時間がないのです。こんなめまぐるしい生活が20数年続きました。
28・塾も28年・NPOも飛躍28・ジャパンアートも28
ある日、ICU(国際キリスト教大学)付属高校の英語教師が「凜子の英語塾」の参観に来ました。そして、生徒たちの英語力の凄さに、まさか、と驚かれ、ショックを受けたようでした。マジマジ聞かれたのです。「どうしたらこんな力がつくのですか?」と。凜子は「私はやれる全てをやりました」「そして、優秀な生徒たちが、それについて来てくれました」と、そう答えました。事実そうでした。優秀な生徒を伸ばすのは、そんなに難しいことではありません。元々備わる力を引き出すだけ。それにしても 教師冥利に尽きる!これだけ褒められ、親からも本人からも、感謝されれば、誰だって嬉しくなります!医者と教師は、人に感謝される職業の筆頭でしょう。「凜子英語塾」は、28年続きました。主に仕えるためNPOを始めることを決意し、烏山病院を閉めるまで… 生きた英語を28年間教え続けた凛子。28は完全数です。28は宇宙の創造主、神の領域で完全数なのです。現在のアートギャラリーもまた、ジャパンアート28と名付け、選りすぐりの作品を集め展示販売しようとしています。英語を教えた年数を数えてみると、不思議と28年でした。
人からさまざまに言われる凛子・あなたは黒潮だ
凛子は様々に言われました。生徒には先生はいつでもイエスと言う、絶対ノーと言わない!と言われ、アナタは一度逢ったら忘れられない、カリスマ性があります、強運の星の下に生まれたんですね、あなたはモーゼのようだ。100年に一度出るか否かの女性だ。あなたは個人の所有ではいけない、あなたはみんなのモノだ。あなたは人に与えるものを一杯持っていますね、アナタはπ型人間の人財だ、目に力がある、凄いパワーですネ、ヒラリークリントンに似ています、特別なオーラがありますネ….貴女は純粋ですね、純粋の塊だ。あなたはいつも直球を投げますね、変化球は決して投げない。ゲームが終わって、観客が帰った後でも、未だ、投げ続けている!そんな人だ。あなたはルール違反ばかりしている、レッドカードが10枚あっても足りない、とっくに退場だよ。人は凛子と接すると、様々に感じるのでしょう。しかし、当の本人はあまり意識しません!大なり小なり当たっているくらいです。直近で、“あなたは黒潮だ。”と言われ、思わずえっ?と聞き返せば、“あなた自身が黒潮だよ!その上をタンカーも通れば小さなヨットも奔る。貴女はみんなを載せて奥深いところを流れていれば、それだけでいい。そんなニュアンスでした。これには驚きました。彼女は世界最大級の海流(日本海流)黒潮が昔から好き。黒潮が日本へ齎したもの、運んで来たものに、恵みやロマン、古の歴史を感じて来たのです。黒潮に深い愛着と感謝があった。彼女自身は誰の云うことも大して聞きませんが、この言葉に響きました。嬉しかった!この表現は、これからの自分を云い得ているかもしれない。まるで、彼女の信じる神様がこの方に云わせたように感じたのです。
くノ一凛子のVIPルーム・2019年スタート
独身時代はもちろんですが、結婚後は神秘体験含めて、さまざまに、多種多様の貴重な経験体験をさせられてきました。そんなくノ一凛子の生涯をさまざまに発信します。その一つに2019年の秋には、くノ一凛子のVIPルーム会員制で有料サイトを作ろうと思います。その番組の中で、ゲストを招き、実話を語り、光について証しをし、人が知るべき有益な情報を知らせたい。聖書のメッセージから、生きる意味と永遠の命についてお伝えしたい!一人でも多くの人が、主イエスの愛に目覚めれば、その方はブドウの木に繋がる枝となり、良き実を結ぶでしょう。そんな、導きのお手伝いができれば、凛子の魂が喜びます!地上に生まれた主の御霊が喜びます!遠くまで届きそうな、この声で、良きエネルギーや波動を、言霊を皆さんへ贈りたい!と思います。ご縁のある方どうぞ会員になってください。
天孫財団子ども育英基金設立
有料サイトが上げる収益で、天孫財団子ども育英基金を作ろうと思います。教育は国の根幹を成しますまず、人財ありき!国が繁栄するには、啓育や教育が最も大事!日本の子供たちの啓蒙に力を注ぎたいと思います。明日を担う子供たちを、キリストの愛が永遠に導くように、祈り願いながら名付けました。凛子の命は始めから、終わりまで、主のものでした。彼女の霊は主の霊と、つながっていたのです。彼女は、キリスト・イエスに出会い、創造主に守られ、光に育まれながら、人間として主の器の一つとなるよう、地上で鍛錬されて来ました。彼女は、主のご計画の一部に組み込まれ、主の器に相応しい言動がとれるよう、高い山を登って来たのだと思います。そこで、今、地上に生きた証として、天孫財団子ども育英基金を設立し、子どもたちがみなが、神さまにつながり、生き生きと生きられるよう、未来を担う子どたちをサポートしたいのです。人は神につながらなければ、無力です。持てる力も発揮できません!人は神によって創造されたのです!神様の愛に気がつけば、主は、ご自分に似たものとなるように、導かれます。人は創造の力をますます発揮し、誰でも、芸術家、アーティスト、詩人、作家、クリエーターになれます。私たちはみんなやる気満々!神の子となれば天才です!!
サタンは神を否定し、人間を神から遠ざけようとします。人間を支配するために、自由を与えません。
院長夫人、凜子
凜子の嫁ぎ先は、新宿で知らない人はいない、名門と呼ばれる歯医者一家でした。義父は栃木県鹿沼市出身の庄屋の三男坊で、上京して歯医者となり、一代で財産を築いた人です。彼は新宿で開業し、歌舞伎町にビルを建て、自社ビル4Fに本院を構え、国鉄(今のJR)の嘱託医として、東口新宿駅ビル(ルミネエスト)の6Fに分院を出したのです。医)社団輔仁会の創始者、医学博士の初代理事長は、ダンデイで、ちょっとはにかみ屋の、素敵な人。彼は経営者として、誰よりも働きました。しかし、後半、老人性うつ病にかかり、悲しいことに再起不能となったのです。新宿分院は10年近く代診に任せっきり、二人の息子は何ら手を打たず、のんびり本院にいました。妻として状況のまずさを夫に指摘したので、元夫は渋々、昭和63年の4月に、新宿分院へ出て行きました。夫が新宿駅ビルへ出て、期せずして半後に義父は亡くなりました。それも相当な財産を残して。シビアな相続問題が発生しました。歌舞伎町のビルが売却され、長男は他で開業し駅ビルに出た元夫が輔仁会理事長になりました。誰よりも一番よく働くのが、経営者!とするなら、夫はそうではありませんでした。元夫の性格をよく知る妻は当然病院の行くすえを案じました。彼に経営者が務まるか否か不安でした。従業員が彼についていくかどうか、それは、彼がいかに働くかにかかっていたと思います!たまに覗きに行けば、病院が荒れていました!ゴミはたまり、見るからに上手くいってません。これはまずい!いくらなんでもマズイだろう!と思った凛子は、昭和63年の11月末に、小さい子供達を家に置いて、病院へ手伝いに行ったのです!3名の代診ドクターは高級で雇われ、衛生士や受付、助手スタッフ達が居ました。この彼らが凛子を拒絶しました。院長の奥さんなど、入って来てほしくなかった!ましてや、こんな人は、まっぴらご免だったと思います。始めは丁寧に、腰を低くし、状況を説明しようとしましたが、何をしても反抗されました。現場の険悪な空気は出来上がっていたのです。異様な雰囲気でしたから。石川歯科が新宿駅の真上、新宿の一等地にあること事態が、彼らは気に入らないのだと思います。なんとか追い出したい!と追い出せる!と思ったのだろうと思います….! そこへ、何も知らない院長の奥さんが入って来たのですから、院長夫人凛子は、たまらなく、嫌な存在、目障りだったろう、と思います。
祈る院長夫人凛子 VS 従業員
一方、病院の不穏な空気を、どうしたものか、従業員にどう対処すべきか、相談する人もいなかった彼女は、朝晩祈っていました。一人孤立した院長夫人は孤独で重圧に打ちのめされそうでした。重たい足取りで自宅と新宿を往復した日々、それでも気丈に現場で医者やスタッフと向き合い、最善の解決策を模索。オリンパス社長の叔父にも相談しました。事態をかいつまんで話し、アメリカのママにも国際電話で事態を説明し、どうしたものかと相談。歯科医院専門の経営コンサルタントもつけました。相談することは山ほどあったのです。凛子は専門家のアドバイスを聞く以前に、彼女流の経営方針があり、それを、いつ、どの状況下で、実行するかでした。昭和63年12月のクリニックの忘年会は史上最悪の雰囲気でした。従業員対経営者!彼らは要求ばかり。経営者を敵視する労働組合さながらの団結ぶりで、院長と院長夫人に、威圧的でした。世の中には、こんな人たちが居るんだ…と初めて知りました。お金で如何様にも動く人たち、社会の底辺を知り、世間の荒波に揉まれるとは、このことか…。元夫は妻を庇うだけで、精一杯。何をどうしていいか、わからず、問題から逃げているようでした。凛子はお嬢さん育ちですが、彼らに屈するのが嫌でした!話も聞かず、不当に攻めてくる彼らが許せず嫌でした。昭和63年11月から3月まで現場は院長夫人の予期せぬ登院に面食らった様でしたが3ヶ月後に事態は治まりました。その間に光を浴びる神秘体験もした院長夫人・凛子。その年、平成元年4月に、医療法人輔仁会と駅ビルは賃貸契約も更新、元夫に病院を託し再び凛子は家庭に戻りました。
何も知らない経営者・凜子本領発揮
医)輔仁会の2代目理事長、元夫には新宿駅ビル内のクリニック経営は所詮無理のようでした。彼は院長として、経営者マインドもなく、現場を仕切れないようで、仕事に対するストレスと経営状態悪化もあり数年すると元妻を責め始めました。凛子はいずれ時期が来たら、つまり、子供が大きくなったら、自分が出て行かねばと決めてましたが、その時が、あの神秘体験から10年後に来たのです。
1964年、昭和39年東京オリンピックの年に、日本初の駅ビルとして、竣工したそのビルも老朽化し全館改装。全テナントが一旦出る事になり、3か月の休業を強いられました。駅ビルから賃料値上げはもちろん、新たに保証金、権利金も要求され、凛子は経営者として入る決心をしたのです。医)輔仁会、初代理事長の石川近美、義父の築いた石川歯科を、この手で引き継ごうと思ったのです!2度目の石川歯科参加!いざ、出陣!経営者としての心構えは十分あります。1、やる気がある。2、求心力もある。3、チャレンジ精神は人一倍ある。無いのは経験だけ!この経営者は医療について何も知らない!ここから全てが始まりました。知らないから出来ました!知りたいから、どんどん聞き、周りは喜んで教えてくれました。どんなに、人に助けて貰えたか…。感謝、感謝なのです。
内装業者を選び、病院の設計図面を一緒に検討しました。チェア選びもしました。モリタ、吉田、タカラ、シーメンスと、歯科診療台ユニットのショールーム巡りも楽しかったです。制服選び、材料選びに器具揃え、ドクターやスタッフの面接まで、すべてが、初めてのことばかり!新宿駅ビル歯科を新しくやりかえる、創り上げて行く過程は、ワクワクで楽しいの一言です!ひたすら、前を向いて進んでいました!青春時代に、とことんやり通した、培った特別なものが、ここで生かされました。再び、外の世界で、輝き始めたのかもしれません!水を得た魚のように、生き生きしていたと思います。経営者は性分に合っており、仕事が楽しく、いろいろな、アイデイアも次々に浮かび、良いと思えば、どんどん実行しました。この経営者、直感力もあり、創意工夫で一杯!理想を追求するタイプでした。経営者という立場をフルに生かし、即断即決しました。彼女は人が好き。人を喜ばすのも好きなのです。人間関係は得意分野だったので、実に円滑に、周りの協力も得て無理なくことが進んで行きました。
素人経営者・医療現場に新システム次々導入
医者は保守的、新しいやり方、環境や物事の変化を本能的に避ける人が多いです。しかし、この素人経営者はクリニックにどんどん、新しいシステムを導入しました。電子カルテ、パソコン、オンラインシステム、カウンセリング、今では当たり前ですが、当時はまだ抵抗がありました。予防には力を入れました!治療の前に、まず予防でしょ!先生、もっと、患者に説明して上げて下さい!いきなり、歯を削って治療しないで下さい!反論もされましたが、医者ともすこぶる関係が良かったです。東京歯科卒、医科歯科卒、日大歯科卒、常時3名の代診がいました。スタッフも、前回のようではなく、素人経営者の味方でした!みなさんに事務長と呼んでもらいました。彼らは、凛子の男性的要素に安心するのか、院長夫人とは決して見ませんでした。で、なおさら、やり易かったのです。おおまかな性格で、怖いもの知らず。この素人経営者、度胸も据わっていました。彼女は経営者の立場で何でもしてやろう!良いものは全て取り込もう!最高の医療サービスを新宿駅上で提供しよう!と次々実行。
新宿の名門歯医者、嫁ぎ先の、石川歯科の名誉を挽回しよう!と心密かに思っていたのです。
攻撃は最大の守備・決断&実行を繰り返す・経営者凛子
経営者としての基本は、患者さんを大切にする、従業員を大切にする、社会のニーズの一歩先を読む、サービス向上に努め、攻撃は最大の守備と心得て、決断&実行を繰り返したのです。彼女の持分は遺憾なく発揮され凛子本領発揮です。宣伝も、看板広告も出しました!新宿駅ビル内で、外部の人間に、英語をサービスで教えました。事務長は新宿の街を大股でいつも足早に歩いていました。
素人経営者1年で売り上げ倍増・患者数2倍へ
月の患者数は増え続けました。新患、初診、再初診、毎月増え、患者数は以前の170件から凛子の代で、月に300件になりました。周りには、最大で170件です。これ以上は行かないでしょう、と言われましたが、その数を更新し続け1年で月300件、つまり、1年で売上を倍にしたのです。医療ド素人の危うい女性が、やる気と医療に対する情熱だけで達成した数字です。事務長は正直でした。知らないことは知りません、と云えたので、周りがいつも助けてくれました。事務長は無防備で危うい人だと思われていたようです。そのせいか、周りが手助けを惜しまず、いつも凜子を庇い助けました。以前とは大違い、院内の雰囲気はとても良かったのです!従業員が経営者の立場でモノを言ったから逆でした!毎日は忙しいのですが、やりがいがあり、最高に楽しい職場でした!
患者さんと接客する凛子・社長からヤクザ・ホームレスのおばあさんまで
新宿での一年は多忙を極めました!絶えず急ぎ足で駆け回った一年。一年で売上を倍増するということは、そういうことでした。ママは忙しい!で殆ど、家族はほっとかれ、英語塾も一年間中断させてもらいました。末娘の高校の卒業式になんとか参列できたくらいです。新宿のクリニックはしっかり目標を達成し、軌道に乗っていました。彼女は自分にはできる!と内心思ってましたが、それが、短期間でできたのです!どれだけ安堵したか!内部はもちろん、外部の人間も含めて、周りの凛子を見る目が徐々に変わったようでした。あの女性は危なげだが、パワーがある、やる人!と思ったようです。
医療は遣り甲斐がありました!患者さんに信頼され、喜ばれることは歓びでした。人間好きのこの経営者は患者さんとも常によく話し、苦情係も務め、医者に手あまりの患者さんは、凛子に回ってきました。新宿には場所がら様々な患者さんが見えたのです。新宿西口の一流企業の社長さんから、ヤクザやホームレスの方まで来ました。どんな手強い患者さんも、凛子経営者に接すると、否応なしに凛子ペースに乗せられ、終いには、理不尽な要求を引っ込め、こちらのいうことを聞いてくれてました。
さらなる理想を求めて、烏山分院開設
高額な家賃を支払う新宿駅ビルは手狭になりました。20坪にチェアが4台、医者が2〜3人、スタッフ4名〜5名。患者数月平均300件以上です。これでは、治療ばかりで、予防を重視できません。
審美も満足にできません。カウンセリングをするスペースも十分ではなく、つまり、場所が狭いのです。
彼女の次なる目標は、予防と審美を重視したエステ風な医療空間を創る、になりました。自由診療を中心に、専門医だけを集めた歯科医療を提供したい、になったのです。次なる夢を実現させようと、この発想を基に一年後に物件を探し始めました。初台にある竣工間近なオペラシティが、オフィスビルに入居する歯科医院を募集していると教えられ、彼女は早速問い合わせました。選考委員会は最終審査も終えてましたが、オペラシティでの分院開業に向けて、事業計画を速攻作成、必要書類を揃え、駅ビルの推薦状を添えて3日間で書類を提出しました。審査委員会の殿方は、凛子経営者の素早い行動に驚かれたよう。しかし、結果は、不合格!凛子はそれでも、OKでした。やれるだけやった!という満足感があったのです。そして、その後、間もなく、地元烏山に物件を見つけました。
新宿本院に次ぐ、石川歯科分院を千歳烏山にオープンしたのが、平成8年11月1日、自分の誕生日に合わせて分院開業日としました。平成6年6月に新宿駅ビルに出て、1年10ヶ月後に造った烏山分院は、50坪の広さ、会議室あり、モリタのスペースラインのチェア、特診室は極上チェア、医療は全て最新設備、障子をパーテーションに使いました。和洋折衷の内装、従業員は全員衛生士、カウンセリングルームを設けて、患者さんに居心地のいい空間を提供、一見何処かのサロンに来たような、珪藻土の塗り壁の広い待合室、全て凜子流のクリニックでした。
分院ができます・凛子のお眼鏡に叶うドクターはいません!
しかし、この分院で彼女は初っ端から苦労するのです。ドクター選び、人事でした。彼女は夢を追いかけて分院開業に夢中でしたが、その間、肝心の医者が決まらないのです。分院長を誰にするか、大問題でした! 分院の顔は分院院長。彼女自身は経営者で責任者!裏の顔です。病院の顔ではありません!理想のドクター選びで、実に大勢の医者と面接しましたが、彼女のお眼鏡に叶う人はいません。
ハード面では理想に近い病院を造ったものの、分院長が開業直前まで決められず。結局、初代院長は中年女性キラーの呼び名高い、40代後半のハンサムなドクターでスタートしました。
衛生士3名とハンサムドクターと凛子カウンセラー兼経営者の5名で、分院は無事開業!大嵐の日でした。高額で雇う院長、しっかり、お仕事してもらわねば….! 始めは和気あいあいで良かった。しかし、数年後に、ある事件が起こり、言った言わないの問題が生じました。そのドクターは結局辞め、2代目に優等生的ドクターIが入り、3代目は語学堪能ドクターU、4代目分院長は問題ありのドクターでした。そして、最後、5代目分院長になるのが成長した息子です。彼で、やっと、落ち着くのです。平成8年に開業し、平成20年で、閉院する迄の12年間、何の因果か、ドクターは変わりっぱなし。
彼女が作ったのは上物だけ!中身は騒動ばかり理想ではなかったのです!インプラントや矯正や審美、予防も誠心誠意、患者さんと接しましたが、自分が満足し、納得して提供できる内容ではありません!高級感あり過ぎで、地元に敬遠されたのか患者数は今一伸びず!新宿のようには行きません。しかし、経営者は泣き言など言えません。言いたくもありません!仕事を黙々と続けました。連日、夜遅く帰宅。何故、こんなこと始めたのかと悔やみ、一人泣きながら夜道を歩いたこともありました。
辛い時はいつも父親を思い出し、彼の苦労に比べれば、私のそれは大したことない!めげそうになると、決まって父親を思いました。そうして気持ちを奮い立たせたのだと思います。向こう見ずと言われようが、やりたくて、自分で始めたこと!誰も責められない!元夫は凜子に協力し、運転資金を出し続け、それで、何とか、閉院せず、持ちこたえたのです!今思えば、贅沢で有りえない額の資金投入で始めた石川歯科烏山分院。そして、有りえない程の分院長交代劇が繰り返されました。
それでも理想通り、予防と審美を貫きました!エステ風な医療空間を提供。彼女自身が患者さんの相談に乗り、歯科カウンセラーを務めました。経営者を信頼し患者さんは安心して、自由診療を受けたようです。確実に経営が軌道に乗ったのは10年後でした。10年かけて、軌道に乗せるとは、経営的に有りえないことだ。が、事実そうでした!!
分院閉院
新宿本院と地元烏山の分院を引っ張った凛子!40歳過ぎてから60代前半まで、20数年間ファミリービジネスの病院経営に関わりました。この間、ドクターやスタッフ合わせて28名前後、高給取りの彼らに給料を遅延なく支払のは大変でした。50年続いた新宿駅ビル石川歯科と、烏山分院を元夫と守り続けた凛子経営者。借金も返済リースも完済、人事も落ち着き、患者さんに認知され、信頼された病院として、これから…という時、ある日、長女に「ママ、病院を一軒にして!一つ閉めて!」と言われたのです。我が家はデンティスト一家。息子も末娘も歯医者となり、家族がクリニックで働いています。休みも一緒にとれず、みんなで過ごす時間もない!これが、閉めて!の理由。やっと、楽になる!と思ったら、これです。苦労した分院が、終に、軌道に乗った!と思ったら、今度は霊的体験をし始め、それも強烈に!昔の神秘体験もあり、一体私の役目は何だろう、と考えざる終えませんでした。
一年間悩みました!悠々自適に暮らす、優雅に暮らす、そうできる環境にありましたし、条件は全て整っていました。しかし、結局、病院を閉めることにしたのです。病院経営は凜子本来の仕事ではないと思えたのです。きっと、凛子の内に宿る聖霊がそう思わせたのでしょう。彼女の世界観、価値観、宗教思想哲学は、人類と共有すべき、と聖霊が教えているように思えました。他に凜子らしいことをせよ!と天が無言で云っているように感じたのです。尋常ではない霊的体験がそう感じさせ、凛子は主の御心に反応しました!周りには、凜子の気持ちなど、わかるはずもなく、深く理由を説明する気もなれず、娘の要望通り、閉院することに決めたと家族に伝えました。
聖霊に従う凛子・主の御手に我が身を委ねる凛子・分院閉院
そう決断したのは凛子ですが、そのように決断させたのは、神さまでした!主の壮大なご計画の一部に凜子が果たす役割がある!と思えたからです。それが、何か分からずとも、時が来れば、主が教える!主の霊が導くだろう!と思え、神の御手に自分を委ねたのです。聖書を良く知る者として、凛子は我が主に忠実でした!烏山分院開業から12年経っていました。彼女は夫の諭しも会計事務所や周囲の反対にも耳を貸さず、潔く閉めたのです!凜子英語塾と石川歯科分院、拘りの看板を静かに下ろしました!凛子、その時、60代前半でした。凜子には、何かもっと特別に大事な仕事がある、待ってるような気がしました。それは、人々の霊性や感性や人間力に訴えることで、この世界を救うか、変えることだろう。アートや文化文明技術を通して、国の真の歴史と共に、和の心を内外に広めるのは、今の時代に、日本人で生まれた理由だろうと思えました。独特の個性と感性と人脈で、物事や社会を理想のカタチへ動かす!最終的な仕事はそれ!と思えたのです。青春時代に遡り、凜子が探し続けた道は、生涯歩むべきは、魂の喜ぶ道でしょう。人々や社会全体に、己を献身し貢献することは、彼女の魂の最終目的で究極の仕事!医療人でもない凛子が関わった医療は、そのプロセスに過ぎなかった!と思えたのです。そこで、医療現場を退き、先ずはNPOへと動き出しました。彼女は医療経営者から、NPOへ軸足を移したのは、平成20年7月でした。
車戸凛子 2019/09/19 蓼科にて
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