第二局:ナヤの柔らかくない猛豹~委員長は♡思春期~

▲3一猛豹《もうひょう》(あるいは、指し直しから始まる物語)


「みーちゃん、ポーチのハンカチ代えたね? おべんとは少し少なめにしといたから。ちょっとカズ、帽子っ」


 鬼砕おにくだき家の朝は、慌ただしい。


「……ナヤちゃぁん、ママの帽子はぁ?」

「知らないよ……いつもちゃんとそこに掛けようって言ってるよね?」


 小四の弟、小二の妹、そして39の母と。手のかかる三人の支度を何とか済ませたところで、残り時間は二分ちょっとしか残されていない。慌てて歯ブラシやら化粧道具やらが散乱する狭い洗面台に、間合いを完全に熟知した紙一重のカーブで滑り込む。ちゃちゃっと自分の準備に取り掛からないと。鏡の前に飛んでいた髪ゴムを取ろうとしたら、伸ばした手に電動ハンドソープのセンサーが反応して制服ブレザーの袖口にパステルグリーンの泡がこんもり盛られていくのを見て、のぉぉぉ、とか心の中で叫んでしまうけれど。そんな場合じゃない。


 序盤の研究に明け暮れた夏休みはあっという間に終わっていて、まだうだるような暑さの中、棋青舎の二学期は粛々と始まっていたのだけれど。


 給食センターの工事とか、聞いてない……それも3か月もだなんて……もうそれは建て替えでもするレベルなんじゃ……と、抗議の声を上げたかったけど、そうもいかず。仕出し業者に頼むことも出来るからって話だったけど、みひろもカズもアレルギー持ちだから、ちょっと不安だし、四人分作っちゃった方が安上がりじゃない? という無責任極まりないママの提案に、家計の窮状がふとよぎってしまった私が寄り切られるようにして乗っかってしまったところもあって、休み明けから自分含めた四人のお弁当を担当することになった私は、朝四時起き……将棋に当てる時間がはっきり減っていることに焦っちゃうけど。


「……あのね、おねえちゃんさあ、昨日のね……コーンの入ったやつおいしかったよ……」


 団地のやけに重い金属扉を、両手が塞がってるから肩で押し開けて、弟と妹を先に出してあげていると、私のおさがりの、今日び見かけることの少なくなった真っ赤なランドセルに背中から抱きつかれるようして、玄関口で靴の踵を入れようとよろついているみひろから、そんな言葉がぽつりと聞こえてくる。


 手抜きで入れちゃった「北海道コーンずっしり男爵いもコロッケ」は「時短弁当ガチハマリ冷食ランキング2位」に君臨するだけあって流石だよね……でもそんな感想を言ってくれたことがやっぱり素直に嬉しくて、私はその小さなうなじに浮いた汗の雫を払ってあげながら、中に何がうねり流れているんだろうみたいな高めの体温を指先で感じて、ちょっとほっこりする。


 おねえちゃんと同じがいい、とのことで、私と同じ、これまた高いところで結わえた時短ポニテを揺らしながら、コンクリむきだしの廊下を駆けていく後ろ姿を見送る間もなく、私も行かないと間に合わない。ママはこの間にふらふらと先に出て行っちゃってるし。缶ゴミと可燃で両手が塞がってるので、むううと一瞬天秤にかけたあと、こっちの方がまだまし、と、ビールの空き缶がこれでもかと詰まったレジ袋の持ち手を口に咥えて、その隙に手早く鍵を二か所掛ける。


 こんなとこ絶対友達とかには見せられない……とか半分白目になりながらも、流れるようなステップでゴミ袋を別個の置き場に放り入れると、「屋外運動御法度」に引っかからないギリギリの時速5.9kmの早歩きで、うんざりとするような陽射しの中を駅まで向かっていくのだけれど。


 私の通う「国立千駄ヶ谷棋青舎中等部」の最寄りは千駄ヶ谷駅で、JRで乗り換え無しの20分弱で着ける。それはすごいありがたいことなんだけど、混みに混んだ車内では端末スマロの画面すら浮かせるのは困難で。汗ばんだワイシャツの背中と背中に挟まれながら、私はしょうがないから、色々なことに思いを馳せる。


 と言うか。思うのはここ最近のミロカのことばかりなんだけど。


 例のすっちゃかめっちゃかな「二次元人」たちとの「対局」……戦いを経て、何かが覚醒したというか、覚醒という名を冠した何かがキマってしまったかのように、ミロカはその秘めていた才能を、将棋の方にも、キックの方向にも、ぶわりと開花させてしまったみたいで。


 うん……まあそのこと自体はいいことだとは思うんだけど……千駄ヶ谷の改札を抜けて、同じ制服のヒトたちの流れに乗って右手に折れると、5分くらいで棋青舎のそびえ立つ7階建てが視界を覆ってくる。正門横で身だしなみチェックをしてくる当番の先生におざなりな挨拶をしつつ、私は始業5分前で生徒も教師も慌ただしく行きかう校舎内を自分の今の教室……「1年A組」を目指す。


 と、その騒がしい廊下の雑音を一瞬で吹き消すかのように。


 「……」


 時ならぬ「法螺貝」のぶおおおお、という爆音が響き渡ったわけで。これだけでも尋常じゃないのに、さらに廊下の曲がり角から現れた「お輿こし」のような物を見た瞬間、初めてでは無かったけど、私の顔の筋肉は力を失ってしまう。


「おおう……ナヤではないか……慌てずとも、わらわが行くまでは授業は始まらんから安心せい」


 四人の屈強な男子生徒に担がれ、地上2mくらいの高さで優雅にそうのたまったのは、紛れも無く私の大事な親友だったのだけれど。


「……」


 はっきりと増長したその姿に、私は掛ける言葉を失ってただ立ち尽くしてしまう。


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