▲2二太子《たいし》(あるいは、ニニンが死闘でん)


 意を決し、水色眩いキャンバスに軽やかに足を掛けて登った私は、ロープをくぐるやいなや、履いてたローファーを右へ左へと蹴り飛ばすようにして脱ぎ捨てる。何事かとぱらぱらとリング下に集まってきた平均年齢が日本のそれよりも八割増しくらいに高そうなギャラリーを横目に、紺のロングソックスも立ったまま脱いで放り投げると、真正面のトップロープに寄り掛かったままこちらを余裕げな目つきで睥睨していた「フウカ」が、初めて興味深そうな表情を片頬だけに浮かべた。


「……キックやんな」


 そうだよキックだよ、と応える代わりに、私は突如両膝を緩く曲げた姿勢から、「フウカ」向けて一歩目を蹴り出していたわけで。ロープ背にしててよぉ、逃げるとしたら右か左しかねえよなああああっ。


「……!!」


 図らずも、あの例の「変身」をしていない今でも、そんな野蛮でおはしたない言葉が頭には思い浮かんでしまうものの。それでも彼我の距離は約2m弱まで一気に詰まった!! 相手はロープあって後ろには引けないから、左右どちらかに横移動するしかないっ、でもどっちにかわそうが、ステップ気味の挙動だったら、追えない速度/距離範囲じゃないはず。


 この女の余裕かましたクールフェイスを揺さぶる一点……テンプルへと、私のつややかな踵をそこへめり込ますことによってのみ、我が「自尊心補完計画」は完遂さる……


「!!」


 しかし。おそらく「猛禽」に分類されるであろう「鳳凰」の化身の如くとなった私の突撃だったけど、フウカはそれを上回る勢いでこちらの方へと、当て身のように左肩を突き出しながら迫ってきたのであった……


「ぐっ」


 おそらく最短距離。おそらく最善策。軸足を固定させずに中途半端に爪先立っていた私に、その思考の埒外からの「体当たり」は意外に効いてしまったわけで。右肩を前に出すように咄嗟に体をひねった私だったけど、そんなもんで勢いつけられたぶちかましを止められるはずもなく。うめき声を上げさせられ、とととっと三歩くらいたたらを踏まされてしまって、さらに上体も泳がされるけど、まずい。


「……!!」


 でもフウカの次にとった行動も埒外。てっきり上段中段下段どこへでも簡単に蹴りは入れてこられそうだったけれど、あにはからんや、にやにやとした笑いを浮かばせながら、彼女はその長い両腕を伸ばしてくると、私の腕を掴んで頭を突き合わせるようにして組み合ってきたのである。こいつ……組み技っ? 咄嗟にボディへの膝とかを警戒した私だったけど、違うだろ、打撃じゃない!!


「!!」


 次の瞬間、信じられなかったけど、私の身体は上下反転したかたちで、高々と上空へと抱え上げられていたわけで。ウェイト差そんな無いはずなのに、何て力なのよ。とか考えている余裕もなく背中に強烈な衝撃。結構な高さから自分の体重分の重力エネルギーを喰らってしまって、思わず空気の塊のような呻きが喉奥から出てしまう。ぐぐぐ……


「……」


 それでもまだ動ける。追撃を恐れて、ままならない体をぐるぐる回転させつつロープ際に避難する私、だけど、呼吸が戻らないっ。制服のスカートの裾は大変なことになってそうだけど、それを確認する余裕も直す余裕も無い。リング中央へ何とか目線を上げると、例のにやにや笑いを貼り付かせたフウカが、余裕の足運びでこちらに向かってくるのが見える……


「言うて、たいしたことなかったなぁ」


 やろう、言葉でもマウント取りして来ようって寸法ハラかぁっ。くううう、でも今の私を包むのはいやな敗北感の予兆。将棋で味わうものとはまた別種の、口の中が苦くなるようなそんな感触。両肘を使って何とか体を起こそうとするけど、身体が重くて動かない。このままじゃ……このままじゃ負けちゃう。そう思った瞬間、お腹の奥の奥から、熱い何かが染み出してきたように感じた。


 負けたくない。


「……!!」


 追い込まれた先にあったのは、そんな、自分にそんな感情あったの? と思わせるような、うまく説明できないけれど、そんな、そんな想いだった。負けることに慣れていた自分。でもそれは本当に慣れていたなんてわけじゃなくて。弱い自分から逃げるように一歩引いて物事を真っすぐ見ないように傍観決め込んでただけであって。


「うおおおおおおおおっ!!」


 今日何度目か分からないけど、雄叫びじみた大声が私の声帯を震わせる。自分の存在を……肯定するために、それのために戦う。それは、獣でもある人間の、根源の本能みたいなものなのかも知れない。いや、そんな大それたことじゃないか。でも、大それようがなかろうが、今、私は戦うんだ。……戦わなくちゃならないはずだ。何のため?


 ……自分のために。


「!!」


 急激に足に力が入るようになっていた。まともに動けるかどうか確認するために一度裸足の右足裏をキャンバスに叩きつけるようにして気合いを入れると、ゆっくりと向かって来ていたフウカの鼻先にまたも勢いよく飛び出していく。私の顔からは正気みたいなのが失われていたのかも知れない。相対したフウカの目がおそらくは蹴りだろう、みたいな咄嗟の判断で下に流れたのが確かに見えた。そんな理に頼るってことは、


「!!」

 ……視えてないってことね。私の伸ばした両腕は、面食らった感のあるフウカのそれを絡めとるようにして巻き取った。先ほどと同じ態勢。でも心持ちが真逆。攻守も真逆。


「っっっせああああああああああッ!!」


 腹からの気合い声は、私の全身にみなぎる熱い力の波動をくべながら、リング上の空気を吹き飛ばすかのように響き渡っていくのであった。右手を相手の腰へ。左手を相手の腿辺りに移動させていく。頭を相手の肩下に潜り込ませ、準備は整った。フウカのバランスを失っている身体を引っこ抜くようにして、私は渾身の力を背筋に込めていく。


「うそやん……」


 私の顔のすぐ右横で、逆さになったフウカの唇から、そんな力無い呟きが漏れ出て来た。逆さまに担ぎ上げるようにして、私は大きく脚を割り広げられたフウカの身体を支えそして固めながら、後ろへと跳躍していく。喰らえぁッ!!


「ん『フェニックス=バスター』ぁぁぁぁぁっ!!」


 図らずも口に出ていたのは、そんな、人のこと言えないような、ド直球な技名だったのだけれど。何かキメ的に叫びたかった。後悔はしていない。技自体は私がお尻からキャンバスへ勢いよく着弾することで完璧に決まったわけで。痛烈だろう衝撃を首肩腰脚に受けて、フウカは無言でマットに沈んでいく。その瞬間、


「……」


 カンカンカンとゴングが打ち鳴らされた。いつの間にかリングの周りはトレーニングに興じていた人たちで埋まっていたのだけれど。鳴らしたのは「博士」か。いやに薄気味の悪い笑みを浮かべている……


「素晴らしい……尊いほどに素晴らしいですぞぉっ、いやいやいやいや、フウカくんほどの手練れを格闘で屠るとはいやははは、さすがフェニックス」


 揉み手気味の拍手をしながら満足気の御様子だが。私は何と言うかまた何とも言えない高揚感に包まれてキャンバスの上に立ち尽くしている。と、


「やるなぁ自分。あんな技ほんまに出来るもんなんやぁ」


 背後からそんな間延びした声。ええっと思って振り向くと、そこには先ほどリングに沈めたはずのフウカが、立ち上がった姿勢で、くいくいと背中やら首やらを伸ばしている姿があったわけで。


「……効いてないってわけ」

「そうでもないでー、もうちょいホールドきつかったら力逃せんかったろうしなぁ」


 静と動。お互いの眼力で白いほどの火花が散りそうな雰囲気……マウント合戦は痛み分けといった感じだろうか。まあいい。


「いかがですかな、お嬢様。このような潤沢なる設備に、最高のスパーリングパートナー。そしてこちらが氷点下まで冷やしたるプロテインドリンク『灼熱の夏パイン』でございますぞ」


 いかんせん燻り感を残したままでリングから降り立った私に出されたのは、プラカップに水滴を浮かばせた魅惑の飲料であったわけで。渋々感を装いつつ、「博士」の手からそれを受け取ると、ぐいと一気に200mlくらいありそうな泡立つ液体を飲み干す。うん、酸味がほどよく利いてホエイの獣くささを中和してる……そして冷たくてのどごしもさっぱりひんやり……


「いかがですかな? 身体を鍛えつつ、世界平和のために活動する。……ここだけの話、この施設はこの国の重鎮の方々も密かに利用されてらっしゃる。うまくいけばキックでの世界大会への道……開かれるやも知れませぬぞ」


 小声だが、やっぱり空気音で台無しなその言葉だったけど、でも答える言葉はもう決まってるんだ。


「……『スカーレット鳳凰ほうおう』」

「へ?」

「『スカーレット鳳凰』。それが私の名前」


 やっぱ、そこにはこだわりたいよね……どっこいどっこいの名前とは思うけれど、何となく好きになってしまったあの鳳凰の色……赤色というよりは緋色スカーレット。その焼熱温度高そげに、燃えて輝くように鮮烈に、私は戦いたいから。……すべてに対して。


「ももも、もちろんですとも!! いやぁ素晴らしひ御名前ですぞッ、『スカーレット鳳凰』どのぉぉぉぉっ!!」


 「博士」のこの畳みかけるようなうざさにも、もう慣れてきたし、まあいいか。その横から、ミロカぁっ……とまた男共を斬殺せしめるレベルの可愛げ200%くらいの可憐な笑顔で、ナヤが私に抱きついてくるけれど。


「……くそみたいな、この将棋関連の諸々を、世界を、全部蹴り砕いてやる」


 キメ台詞のような、熱を持った言葉が勝手に唇から滑り放たれてくる。歯車と化していた私の運命の車輪は、今やあらゆる物事をごんごん動かしていくのであった。

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